「ママァ……こいのぼり欲しい」

 

「あなたは女の子だからいらないのよ」

 

「けど、お雛様もないよ……」

 

「幼稚園で作ってきたでしょう?」

 

「やだ。もっと大きいのが欲しい」

 

「諦めて。こいのぼりも、お雛様も」

 

「やだ……」

 

「困った子ね」

 

 

 叩かれたのならば、むしろ幸せだったのかもしれない。

 小さな溜め息を残して背中を向けた母は、やがて視界から消えた。

 家が裕福ではないことは知っていた。けれど、幼稚園の友達の家にあるとなると、

毎日のように聞かされると、どうしても欲しくてたまらなくなる。小さいのでも良かった。

母が買ってくれるのなら、お菓子の入ってる小さなこいのぼりでも良かった。

 お雛様だって小さいので良かった。

 ただ、ウソでもいいから“今度買ってあげる”って言って欲しかった。

 

「……ママァ……」

 

 小さなベビーベッド。

 優しい色をした木製の柵は、幼い世界を狭くする。そこから見えるのは、淋しそうな

母の背中。

 所狭しとひしめき合うのは汚い色をしたダンボール箱。その中に詰めるのは、白い

筒状のもの。透明な筒に白い棒を詰めて、透明な袋に入れて、ダンボール箱へと入

れて。

 単調な作業を繰り返す母の背中を眺めていた。

 疲れた横顔は――ベッドの柵で見えなかった。

 

「ママァ……こいのぼり……」

 

 青い空にはためくこいのぼり。色は空と同じ青色。

 

「そんなに……欲しいの?」

 

「うん」

 

「どうしても?」

 

「ほしいの……」

 

 指をくわえて俯く。

 母の溜め息が聞こえた気がした。

 困らせてしまった――小さな胸と、芽生えたばかりの心がチクリと痛む。

 

「…………ふぅ……」

 

 大きな溜め息に、顔を上げた。

 青い空の下で悲しそうな顔をしているのは、なぜだろう。

 我侭を言ってしまったからだろうか――

 だったら早く言わないと。

 いらないよ。

 伝えないと。

 

「ママ……どうすればいいのかしら」

 

 今にも消えてしまいそうな母の声。

 

「どうしたら…………」

 

 ベビーベッドの檻の中で。

 激しく叩かれるドアの音を聞いていた。

 音がすればするほど、声がすればするほど、母は怯える。

 何が起きてるのか分からない。

 母が何を嘆くのか――

 我侭を言うから、こうなるの?

 

「ママァ……」

 

「もう……いや。どうして私ばかり……」

 

 涙。

 汚れた畳の上に落ちて、皸だらけの手で顔を覆って。

 くぐもった声で泣く。

 

「……ママ?」

 

 

 

 

 青い空を揺れる。

 それは決して風に泳いでいなかったけれど。

 幼稚園から一人で帰る。

 見上げたベランダで揺れる青い……

 

「こいのぼり……?」

 

 大家さんが慌てて駆け寄ってきて。

 泣きそうな顔で抱き締められた。

 お願い隠さないで。

 もっと見たいの。

 せっかくお母さんがくれたこいのぼり。

 青い青いスカートが揺れる。

 風が吹くと揺れる。

 それは決して泳いではいなかったけれど。

 母がくれたこいのぼり。

 

「あのね、あのね。おばちゃん」

 

 しわくちゃの手に触れて、笑って。

 大きな瞳をキラキラと輝かせて。

 揺れるこいのぼりを見上げる。

 

「ママがね、ママがね」

 

 青い空の下で揺れるこいのぼり。

 母の用意してくれたプレゼント。

 皆に自慢しないと。

 大好きなお母さんが――

 

「ママがね、あたしのために」

 

 無邪気な笑顔で素直に喜びを告げる。

 

「こいのぼりになってる」

 

 赤い光とサイレンと。

 たくさんの大人が騒いでいるけれど。

 幼い瞳だけは明るく輝いたまま。

 喜びを称えたまま。

 

「ママ……だぁーい好き!」

 

 青い空で揺れるこいのぼりを――母を、見つめていた。