青い空を魚が泳いでいた。
 大きな何かが冷たい道の上を走って、匂いを掻き消した。
 視界が真っ黒になって――気付いたらいなかった。
 大好きなあの匂いも、あの姿も、そこには何もなかった。
 その場で小さく呼んでみたけれど――大きな音が全部飲み込んでしまう。
 心細くて、悲しくて、涙が出るかと思った。
 青い空で泳ぐ大きな魚は、ずっと同じところで揺れているだけ。
 どうせなら降りてきてくれればいいのに。お母さんの所まで連れて行って
くれればいいのに。
 むしろ……降りて来たら掴まえてお母さんにプレゼントしてやるぅ。




「あぁぁ……どうしよう……おかあしゃん見失っちゃったよう……」
 心細そうに呟くのは、まだ幼い姿。小さな小さなその姿は、都会の喧騒の
中に紛れれば一瞬で見失ってしまうだろう――それどころか、二度と見つけ
られなくなってしまうかもしれない。
 悪意ある足に踏まれ、悪意ある何かに潰され、二度と澄んだ瞳で空を仰げ
ないかもしれない。
 そんな不安を抱えているのか小さな姿は、さらに縮こまってサビの浮いたパ
イプへと寄りかかった。
「どうしよう……どうしよう。迷子だよう」
 目の前では相変わらず大きな何かが臭い煙と、煩い音を発して流れていく。
時折り煙の少ない細身のやつが走っていくけれど、そちらは音が煩くて彼は―
―小さな白と黒の毛並みをもった子猫は、思わず耳を伏せた。
 そのまま恐怖からか鼻の頭を地面につけて、小さく鳴いた。
「おかあしゃーん……」
 しょんぼりとうな垂れて、さらに小さく鳴いても母は戻ってきてくれない。もう二
度と会えないのかもしれない――そんな考えが脳裏を過ぎって、子猫は長い尾
を体の下へと巻き込んだ。
「いやだよう。おかあしゃんに会いたいよう――そうだ!」
 ピン、と耳が立つ。
 長い尾を左右にゆっくりと振って、体を起こすと春の風が鼻先をくすぐった。
 子猫は恐る恐る冷たいアスファルトの地面を柔らかい肉球で踏み締めた。普
段は母が先導してくれる道を、自分一人――否、一匹で歩かなければならない
ことに恐怖はあったが、きっとこの大きな何かの向こうに母がいるに違いない。
 大きな何かはたくさんいるけれど、きっと通れる――あの大きいのが行ったら
きっと通れる。
 そう考えた子猫は、意気揚揚と色の違う地面へと飛び出した。
「おかーしゃーん」
「危ないっ!!!」
 大きな咆哮が聞こえると同時に、子猫の視界が激しく揺れた。
 何が起きたのかと理解するよりも前に暖かいものが腹をすくって、そのまま空
を飛んだ気がした。
「は、はれぇぇえ?」
 驚くのよりも前に体が勝手に動く。けれど腹を掴む暖かいものを軽く引っかい
ただけで、いつまでも地面に着地する気配はなかった。
「な、なんだー?! なにがあったのー?」
 ワタワタと慌てている子猫の顔を、大きな顔が覗き込む。
「きゃー!!」
 思わず全身の毛を逆立てても、大きな顔はにっこりと笑っただけだった。
「食べられちゃう? 食べられちゃう?」
 不安から、再び長い尾が丸まっていく。落ち着きのない素振りでキョロキョロす
る子猫を見ている顔は、大きく息を吐くと小さな体を優しく抱き上げた。
「もう、だめでしょう。道路に飛び出したりしたら危ないんだから」
「は、はなしてー! おいしくないよーう」
 ジタバタと暴れても大きな顔の持ち主は猫の扱いに慣れているらしく、取り落と
すどころか軽く引っかかれてもまったく動じない様子だった。
「んー……キミ、ノラかな? この季節だから仕方ないと思うけど」
 唇を尖らせて呟く。その子度が何を意味しているのか分からない子猫は、弱々
しい声で鳴いた。その鳴き声がよほど愛らしかったのか、大きな顔に満面の笑み
が浮かぶ。
「かわいいーっ! 子猫ってやっぱかわいいよねぇ」
「はなしてよーう。こあいよーう、おかあしゃーん」
 幸せそうな顔をしている大きな顔とは裏腹に、子猫は不安いっぱいに鳴いていた。
 互いに言葉が通じない――人間と、猫では言葉が通じないということを知らなかっ
た子猫は、必死で鳴いているのに解放されない我が身を憐れむかのように顔を伏せた。
「きっと食べられちゃうんだ……うぇぇん、おかあしゃーん」
 しゅん、とうな垂れる姿に人間の少女は首を傾げた。
「あれれ? いきなり元気なくなったな……どうしたんのー子猫くーん」
 頭を手で撫でられても元気なんてでるはずもない。
 母と離れた上に、食べられてしまうのだ。悲観的になっている子猫は、小さな声で
ボヤくようにみゃあみゃあ鳴いていた。
「んー……? お腹すいてるのかな」
 首を傾げてカバンの中を探っている。
 その仕草を子猫が理解することはなかったが、その小さな頭の中は自分が食べら
れてしまうのだろうという現実――半ば妄想でいっぱいになっていた。
 脳裏を過ぎるのは母の顔と、兄弟の顔。
 もっと甘えとけばよかった……甘い母乳を懐かしんで、子猫は舌を出した。
「うちの子用だけどいいよね。また新しいの買うし」
 何かを呟いている人間の手が、細長いチューブのようなものを取り出した。それが
何かは分からないが、一瞬だけ感じた匂いに子猫は、ピンク色の小さな鼻をヒクヒク
と動かし始めた。
 似ている――
 それを察して、うな垂れていた顔を上げて丸めていた尾をピンと伸ばす。
「はい。子猫用のミルクだよー」
「あ――――」
 小さな白い水溜り。
 鼻先をくすぐる匂いは、探してる匂いと酷似していて。
 子猫は尻尾をゆっくりと左右に振った。
「おかあしゃんだ!」
 小さな肉球で白い水溜りのふちを押すと、ノドがゴロゴロと鳴って、不安でいっぱい
だった顔に笑みのようなものが浮かぶ。それに気がついた人間は、嬉しそうな笑顔
を浮かべて少しずつ、少しずつ、手の平に注いだ子猫用のミルクを注ぎ足していった。
 よほど空腹だったのだろう。チューブ丸々一本を飲み干した子猫は、
「はー、おなかいっぱい」
 満足そうに口の周りを舐めると、そのまま白い水溜りのあった場所へと頭を擦りつ
けた。ノドはまだゴロゴロと鳴っていて、まるで母を捜していたことなんて忘れている
かのようにすら見える。
「満足そうだねー。このままうちに来ますか? なんてね」
「眠いよーう、おかあしゃん……むにゅ」
 顔の前で前足を重ねて、肉球を顔に当てるようにして顔を沈める。
「あ、あれ?」
 程なくして子猫が小さく寝息を立て始めたのに気付いて少女は頭を掻いた。
「こ、これはもう……連れて帰らないとダメだよね……?
 こんな小さい子……ほっといたら危ないし、また道路に飛び足したら車危ないし……」
 むにゅむにゅと寝言のようなものを呟く子猫を抱いた腕が、青い空を泳ぐ魚の下を歩く。
 煩い音も、クサイ臭いも、今は甘い夢に包まれて何も感じなかった。
「むにゅう……おかあしゃーん……だいしゅきー」




 青い空を小さな魚が泳いでいる。
 それを獲ろうと考えたことはあるが――一度も勝てたことがないので、今回は見逃
してやろうと彼は尾を下げた。
 ぽかぽかとした陽気に誘われて、庭へとでると昼寝に丁度いい陽だまりがあること
に気がついた。他の誰にも渡さないよ――とでも言わんばかりにそこへ滑り込むと、
彼は大きく伸びをしてそのまま小さく丸まった。
「おかあしゃんが帰ってくるまで一休み一休み……みゅう」
 心地良い眠りの中で感じるのは――甘い甘い、母の匂い。
 勝手に揺れる尾を眺めて、少女が笑う。

 青い空を小さな魚と大きな魚が泳いでいる。
 それを獲って、おかあさんにプレゼントしよう。
 きっと喜んでいつもよりずっと甘えさせてくれるに違いない。
 少しだけ大きくなった子猫は、幸せそうな寝顔で見目の違う母の呼び声を待っていた。


「ミニョン、おいでー」


「今いくよう。おかあしゃーん」