僕を愛してくださいとは言いませんから。

 どうか僕を殺さないでください。

 あなたしか見えていないのです。
 あなたしか僕にはないのです。

 罪深いと罵ってください。

 故郷を捨ててあなたの部下になります。

 罪深いを私を見てください。

 どこまでも暗いその瞳で。

 愛しているのです。

 その死んだ眼差しを。




 女は言う、くだらない仕事だと。
 男は言う、つまらない仕事だと。
 二人の意見が交錯したころ、乳白色の狭い部屋は血の臭いで満ちていた。
 先ほどまで使用していたのだろう大きなベッドには、宝石ばかりが大きい趣
味の悪いデザインの指輪をつけた女の手が落ちている。
 脱ぎ散らかされた服にこびり付く赤黒い血のシミを踏みつける足がある。
 それはひざから上がなく、ベッドに寄り添うかたちで立っていた。
 バスルームとこの部屋を繋ぐ大きな窓には助けを求めて叫んだ男の手の跡
がついている。その手はバスタブに浮かんでバラの花弁と共に泳いでいる。
 静寂に満ち満ちた血生臭いこの部屋。
 一組の男女は互いを見やった。
 細長いタバコを銜える男の唇が笑う。
 ガムを膨らます女の唇が笑う。
「人のオトコになにか用?」
「人のオンナに何か用か?」
 互いの言葉と共に聞こえるのは血の滴る音。
 共に腕に抱いた物言わぬ恋人の肉体から滴る血の音。
 女は男の首を。
 男は女の上半身を。
 互いに血に塗れて笑うその姿は狂っているとしか思えなかった。
「あなたも浮気調査? 奇遇ね私もよ」
「あんたも浮気調査か奇遇だな俺もだ」
 同じような言葉を吐きながら互いに距離を詰めていく。腕に抱いた恋人の亡
骸をベッドへと投げ捨て、先ほど使用したばかりの大振りのサバイバルナイフ
を握り締める。
 血糊と油が付着したその刃はとてもモノを斬れる道具には思えなかった。
 しかし二人はそれを互いの喉元にあてがいながら告げた。
「人のオトコにちょっかいだしてんじゃないわよ」
「人のオンナにちょっかいかけてんじゃねーぞ?」
 クツクツと口の中で笑みがもれる。
 返り血を浴びた互いの顔を見詰め合う。
 これが映画が何かの撮影であれば、ここで熱い抱擁と口付けでも交わしたで
あろう。だがこれは違うのだ、現実以外のなんでもない。
 浮気の現場を確かめに来た男女が偶然同じホテルで、同じ目的で、同じこと
をして鉢合わせしただけ。偶然という名の出来事に二人はとうとう笑い声を漏ら
した。
 しかし喉もとのナイフはあてがわれたまま。
 笑いに合わせて手が揺れるものだから薄皮が切れて血が滲む。
「こんな偶然ってあるものなのね」
「こんな偶然があるもんなんだな」
 同じような言葉しか吐きださない。
 血の臭いに満ち満ちた乳白色だったこの室内。流れる音楽はムーディーな大
人の雰囲気。
 女は笑う。
 男は笑う。
 互いのその手に握ったナイフを、ご丁寧にも同じ凶器を使用しているサバイバ
ルナイフを互いの首の皮膚へと押し付ける。言葉にし難い痛みと共に冷たい感
触が中へと入ってくるのが分かった。
 女は笑う。
 男は笑う。
「つまらない仕事よね」
「くだらない仕事だな」
 ナイフの刃を首に差し入れたまま、二人で外へと繋がる出口へと歩く。女の高
いヒールがカツカツと剥き出しの床を叩いた。
 男のケータイが突然音を鳴らす。
 しかし男はそれを無視して窓の外へと目をやった。
 同時に女の窓の外へと目をやった。
「警察が来てるわ、早いのね」
「警察が来てる、早いもんだ」
 同時に響く同じ言葉。
 二人は顔を見合わせて笑うのだ。
 カラカラと窓を開ける音。バルコニーへと出て二人は笑うのだ。
「驚くわね」
「驚くだろ」
 同じ言葉を吐いて。
 二人で同時に飛び降りる。
 離れた刃が宙を舞い、噴出した真紅の血飛沫が地上の人間たちへと降り注ぐ。
 真っ赤な雨だと誰かが叫べば二人は満足そうに笑う。
「偶然って面白いものね」
「偶然って面白いもんだ」
 互いの手を伸ばして触れ合うは指先。
 手袋越しの指先の温度に苦笑を漏らして二人の体が冷たいアスファルトに叩
きつけられる。
 飛び散る音に誰かが叫んだ。
 集まった野次馬を巻き込んで二人が潰れる。


 あぁ楽しみだ。
 新聞はニュースは週刊誌はラジオはお前らは何を言う。
 二人の死に様に何を言う。
 楽しみで仕方がない。




 カラコロと、戸口のベルが鳴り響く。
「どうしました」
 めがねをかけた温厚そうな男性が入り口に佇む女性へと微笑みかける。
「浮気調査を頼みたいの」
 女性の言葉にめがねの男性は微笑む。
「どうぞお任せください」
 女性はニタリと笑うと奥の部屋へと消えていく。
 少し遅れて再びカラコロとベルが鳴る。
「どうしました」
 ズカズカと入り込んできた男性はめがねの男性の肩を掴んで叫ぶように言う。
「浮気調査を頼みにきた」
 めがねの男性は微笑んだ。
「どうぞお任せください」
 男性はニタリと笑って奥の部屋へと消える。
 めがねの男性は二人分の以来を別々の紙に書いてビスケット色のドアの横に
設置されたポストへと投げ入れる。
「任せましたよ」
 ドアの向こうから聞こえる二つの返事に笑う。
 いつも腰掛けているイスへと腰を下ろして机の上でくつろぐ猫の背を撫でる。
 そのまま転寝をすればいい具合に夜が来る。
 目覚めためがねの男性はつけたままにしていたテレビへと目をやった。
 ニュースキャスターが騒いでいる。殺人事件と歩行者を巻き込んでの自殺。二
つの関連性はと言いながら新しい情報にまたもや騒ぎだす。
「偶然でも必然でもどちらでもいいですよ。終わったことですし」
 めがねの奥の瞳を細めて笑う。
 温厚そうな微笑に猫が鳴く。
 カラコロと戸口のベルが鳴ってドアが開く。
「どうしました」
 優しい声音に二人は言う。
「殺さないでって言ったじゃない」
「殺さないでって言ったはずだろ」
 揃った声にめがねの男性は振り向く。
 顔には相変わらずの温厚な微笑。
「生きてるじゃないですか」
 振り向いた先には血みどろの男女。潰れた頭部を互いに摺り寄せながら歩いている。
「あなたしかいないのに」
「あんたしかいないんだ」
 めがねの男性は笑う。
 猫が低く鳴いて机から飛び降りる。
「ですから――」


 あなたしか僕にはないのです。


「気が済むまでここに居ていいんですよ」


 僕にはあなたたちしかいませんから。