長い間お世話になった家との別れ。
 それは決して寂しいものではない。
 幸せを手にするために――別れるのなら。

「幸せにね」

 涙ぐんで喜ぶ母に微笑みかける。

「ありがとう、お母さん」


 ――深々と頭を下げて、きれいに着飾った娘。
 この家の一人娘が誕生してから二十と五年、見守り続けた両親は
幸せそう微笑んでいた。
「娘を、よろしくお願いします」
 向かいに座る男性へと投げかけられた言葉。その言葉に男性は誠
実そうな眼差しで娘の両親を見据えた。
「はい。僕が責任をもって、娘さんを幸せに致します!!」
 窓の外で咲き始めた梅の花が揺れる。
 時は三月三日。ひな祭りと娘が喜んでいた時期はすでに遠く、かす
みのように消え果てていた。それでもその時間を過ごしたからこそ娘
は今の幸福を手に入れることが出来たのだと――娘の両親は広げ
たアルバムの思い出を語りながら告げていた。
「この子はねぇ、本当にお雛様が好きだったんですよ」
 古びたアルバムの中には今よりも荒い色合いの写真の中で笑う、
娘の幼い頃の姿。雛人形が飾られたケースの前でピースサインをし
て笑っている。
 その姿に娘が笑い、その夫となる青年が笑う。
 ほがらかに、なだらかに過ぎていく時間。
 その時間の中に確かに存在している――
「雛人形ってそこにあるのと同じものですか?」
 青年の問いに娘の母は何度も頷いた。
「そうなのよ。この子が生まれてから二十五年間ずっと、この子を見
てきてくれたの」
「雛人形って三月三日過ぎたらしまうんじゃないんですか?」
「違うのよ」
 娘の言葉に青年は雛人形のケースの横に置かれている、少し大き
めな――人間の赤子ほどのサイズの人形を手でさした。
「私が生まれた日にお爺さんが買ってきてくれたの。
 だから私と同い年の人形なのよ」
 よほど大切にされてきたのだろう。しかし過ごしてきて時間の長さは
確実に人形の表面にこまやかな傷をつけ始めていた。
 硝子球のような瞳を見ていた青年は軽い寒気を感じて身震いした。
「それだけ長いこと過ごしてたら魂とか宿ってそうですね……」
「何を言ってるのよ」
 娘が微笑む。
 白い肌に赤くひいた口紅が三日月のかたちに歪んで、とてもおしと
やかに笑う。
「そうだとしたらあなたの妹としてずっと可愛がるわ」
 やはり父と二人きりの生活になるのは寂しいものがあるのだろう。
口元を手で隠しながら微笑む母の顔には、わずかに曇っていた。
 娘が嫁ぐのは幸せだと思っていてくれるようだが、やはり――
「お母さんってば」
 あはは、と娘が笑う。
 それにつられて口数の少なかった父までもが笑い始めた。
 母も笑い出して三人が揃って笑っているのを眺めながら青年は、ア
ルバムを見ていた。写真の中で笑う娘――よほど愛されて育っていた
のだろう。
 写真の中の笑顔はいつでも輝くように眩しくて、いつでも幸せそうで、
この頃から同じ時間を共有していればとすら思った。
 室内の写真の大半に写り込んでいる人形はその笑顔のすべてを常
に守っていたのだろう。
 そう考えると感謝するべきなのかもしれない。
 この人形が本当に見守っていてくれたおかげで彼女が幸福な人生を
歩んでくれたということを。
「…………え」
 青年は浮かびそうになった微笑が消えるのが分かった。
 アルバムの中に映りこむ少女の姿。ちょうど小学生くせいであろうか。
 そこに一緒に映りこむ人形――その、髪の長さが違う。
 さらに遡ってみれば、買い与えられた頃と思われる写真の中の人形
は肩口で切り揃えた、きれいなストレートだったというのに。
 小学生と思われる頃の写真に写りこんでいる人形のストレートの髪
は、胸の下まで伸びていた。ちょうど、娘と同じくらいの長さ。
「……あ、あの」
 ゾッとした。
 身近で心霊現象かと心がざわつく。
「どうしたの?」
 聞き返す妻となる娘。
 その真っ黒な瞳をまっすぐに見詰め、
「人形の髪の毛……伸びてないか?」
 声を潜めて聞く。
 その質問に娘はクスリと笑った。
「何を言っているの? ほら。見てみて」
 しなやかな指がさす方向に立っている人形。
 髪の毛の長さは肩口で切り揃えられたまま。
「……けど、写真に……」
「どこの?」
 聞き返され、アルバムをめくる。
 けれどそこに写り込んでいる人形の写真すべての髪の長さが統一
されていた。肩口に切り揃えられた、日本人形らしい髪の毛。
 青年は我が目を疑った。
「……うそ」
「式の準備で疲れてるのかしら?」
「それはいけないわ。二階に布団を敷くから待っていてくださいね」
 パタパタと母が立ち上がる。
「いえ、悪いです――」
「休んでいって。その方が私も安心するし」
 隣に座る娘に微笑まれて青年は頷くしか出来なかった。
 心臓の鼓動がやけに大きく感じる。

 ドクン   ドクン   ドクン

 こんなにも、響くものだったか?
 心臓の脈動は。
 二階に案内された青年は靴下を脱いで、スーツの上着をハンガー
にかけて寝そべった。
 太陽の匂いのする布団に包まれている内に意識は朦朧として彼は、
吸い込まれるように眠りに落ちていく――胸に抱いた恐怖がウソである
かのように。


 和室で女の子が二人、遊んでいる。
 黒い髪の女の子が二人で遊んでいる。
 とても楽しそうな声に惹かれるようにして青年は襖へと手をかけた。

 ギシッ……

 家鳴りのようなものが聞こえたかと思うと、目の前に黒い髪の女の子
が立っていた。
「どうしたの?」
 身をかがめて、女の子と同じ目線になって問う。
 立っている女の子は黒い着物を着ており、本当に人形のような子だった。
「お友達は?」
 青年の問いに女の子は突然整った顔を歪ませて泣き出した。
「ど、どうしたの?!」
 声を高くして泣き喚いている女の子の頭を撫でたり、抱き上げたりし
ても泣き止むどころかますます激しく泣き叫んでいた。
 困り果てた青年は女の子を畳の上へとおろして頭を掻いた。
「あんねぇ、あんねぇ」
 グズりながら女の子が何かを口にする。
「うん。なにがあったの? おにいちゃんに言ってごらん」
「あんねぇ……ウチのねぇ……」
「うん」
 青年が懸命に言葉の続きを聞こうと身を屈めた――それとほぼ同時だった。


「ウチのトモダチ返せ!!」


 小さな手が青年の頬を思い切り叩く。
 針を刺されたような痛みに青年が驚いていると、女の子は鬼のような
形相でこちらを睨んでいた。なまじ整っているだけに怒りに歪んだその
顔はとても恐ろしいものであった。
「お友達? 誰のこと? おにいちゃんの知ってる子?」
 慌てて聞き返す青年のネクタイを鷲掴みにして女の子は、両眼を見開いた。


「お前が連れてったウチのトモダチ返せ!!」


 そのあまりにも恐ろしい形相に青年は思わず女の子を振り払ってしまっ
た。小さな女の子の体が畳の上に転がる。黒い着物が広がって、まるで蝶
のようだった。
 恐怖のあまり肌にじんわりと汗が浮かび上がる。
 肩で息をしている男を睨みつける二つの黒い眼球は信じられないほどに
澄んでおり、まるで硝子球のようであった。
「きみの、お友達って…………」
 続きを言おうとしたと同時に視界が真っ暗になった。

「――っあ!?」
 体が飛び起きる。
 周囲を見回せば、いつのにか夜になってしまったらしく暗闇のに包まれていた。
 青年は頭をわしわしと掻く。
「あちゃあ……熟睡したのか……」
 起き上がろうと足に力を入れると、体に違和感を感じた。
「……?」
 足に――何かが絡み付いている?
「なんだ?」
 寝ている間にベルトでも取れたのかと信じられないことを考えながら布団
を剥がす。
「――――!?」
 青年は言葉を失った。
 誰が思うだろう。ちょっと熟睡してるうちに自分の足が大量の毛髪に絡ま
れているなんて。
「な、んだよ……これ」
 恐る恐るその毛髪に触れてみると、人間のと何ら変わりない感触がした。
「……気持ち悪……」
 絡み付いた毛髪を取り除きながら青年は、夢の内容を思い出す。
 友達を返せと言われて――黒い髪の、人形のような女の子――
「……人形の、呪い……?」
 雛人形の隣に飾られていた人形を思い出す。
「まさかな。小説じゃあるまいし……」
 頭を振ってありえないと呟く。
 きっと疲れているのだと――

 コン

 コン

「うぁあぁぁっ、はいっ?!」
 突然聞こえたノックに思わず叫び声をあげてしまう。
「ごめんなさい。驚かしてしまったわね」
 扉の向こうから聞こえた声に青年は安堵の溜め息を漏らす。先ほどから
信じられない出来事ばかりが起こるせいで少々神経が過敏になっているの
かもしれない。
 そんなことを考えながら彼はゆっくりと立ち上がった。
「ごめんね、長いことねちゃ……って」


 ギィィィィィィ


 誰が予想するか。
 扉を開けた向こうに――



「もっと、寝ててもいいのよ?」



 ニンギョウが、立っていたなんて。




「ウワアァァアァァァァァァアアァァアッッ!!!!!!?!」


 絶叫を上げる青年を見てケタケタと笑う人形。
 それは確かに人形で、夢の中で見たあの女の子だった。
 姿形は成長しているけれど、着物も髪型も夢の中の姿のまま。
「な、なん!? なんだぁっっ!!?」
 叫び声を上げる青年へと人形はゆっくりと近づいてくる。
「ウチのトモダチ連れてかないで? ウチ淋しい……」
 その口調は本当に悲しそうに思える。
 普段ならばまともな会話が望めたのかもしれない。しかし今はそんなことを
していられる余裕がまったくなかった。
 青年は悲鳴をあげながら窓へと背中を預ける。
「お嫁なる、ってシアワセなことだけど――ウチは淋しい。あの子と一緒がいい」
 ゆっくりと、それはとてもゆっくりとした歩みだったけれど、青年の恐怖心を
煽るには十分過ぎるものであった。
 心臓が爆発しそうなまでの速さで動いている。その音が耳の奥にまで響い
てきて余計に恐怖を煽る。ヘタなホラーハウスのようなシチュエーションだと
いうのに、もう殺されるという選択肢しか見つからない。
「あの子を連れて行かないで? ウチのトモダチ返して?」
 冷たい腕が伸ばされる。
 それが首を狙っているのだと気付くと、青年は息を呑んで背後の窓ガラス
を叩き割った。ガラスの破片で切れた腕が痛むが命よりはずっと軽い。
「俺は、俺はあの子を幸せにするから……!! 俺を殺したらあの子が悲しむぞ!」
 ベランダに出た青年に人形は酷く悲しそうに微笑んだ。
「だったら……ウチは一人でどうすればいい? ウチは一人なんていや……
ずぅっとあの子といっしょだったのに」
 そのあまりにも悲しそうな微笑に青年は妙な胸の痛みを覚える。
 悪いことなんて何一つもしていないはずなのに――
「……ウチ、淋しいのはいや……」
 今にも泣きそうな人形。
 その人形を目前にして青年は、意を決して告げた。
「お、俺の家に……連れて行ってやる。三人で、くら、暮らそう!」
「ほんとぅ?」
 人形が微笑む。
 青年は何度も頷いて、にじり寄ってくる人形から距離をとろうとベランダの
縁へともたれかかった。
「……じゃあ――」
「お、怒らない……か?」
 うん――と人形が満面の笑みで微笑む。

 それと、ほぼ同時だった。


 ガタン


 体が揺れて、視界が回る。
 離れていく人形が笑いながら、


「たてつけ悪くなってるよ。ベランダ」


 クスクス


 ウフフ


 アハハハ



 笑い声が木霊する。


 闇が、視界が、闇に、染まった。






「おはよう」
「……う?」
 目を擦ると、そこは寝ていた部屋だった。
 外には朝陽がさしており窓ガラスが割れた痕も、大量の毛髪も何一つとし
て残ってはいない。なによりも、青年は五体満足で布団の上に寝そべっていた。
「……すごい、怖い夢見た……」
「そうなの? 大変ね――」
 娘が微笑む。
 その顔を見ていた青年の手に何かが触れる。
「なん…………」
 人形の、手。
 布団の中から人形が這いずり出てくる。
「お雛様しまい忘れちゃった。嫁ぐのおくれちゃいそうねぇ……お母さんってば」
 のほほんとした声で呟く娘。
 青年は言葉を失った。


 ずる



 ひた



 ずる



 ひた

 ずる

 ひた

 ずる

 ひた




 ギィィィィィィィ……
























 ――あなたの家のお雛様は無事にしまいましたか?