――思ったよりも崩壊は早かった。


「ぐ……う、あ……」
 這いつくばって、苦痛にうめいている恋人を見やる。
 かつては彼女を抱く絞めていた腕は、その体から離れて転がる。
血の筋がどこまでも続いていくようにも見えた。
 まだ傷口から夥しい量の血潮が溢れ、零れ、冷たいアスファルト
の上に落ちていた。
 震えが残る、彼女の細い腕。
 握られた包丁には彼のものと思われる血がたっぷりと付着して。
「はぁー……はぁー……」
 荒い呼吸と、見開いた双眸が彼女の狂気を知らしめる。
「裏切者……裏切者……!」
 うつ伏せになり、そのまま無事な左腕で這って逃げようとする、恋
人の脇腹を思い切り蹴り飛ばす。
「ぐぅっ……」
 くつに顔を歪め、そのまま仰向けに倒れる。
 その体へと馬乗りになって彼女は握り締めた包丁を振り上げた。
「信じてたのに……信じてたのに……なんでよ。どうしてあんな女と。
 どうしてよ……どうしてなのよ!!」


 脳裏に過ぎる悪夢の瞬間。


 仕事だと言っていたのに。
 信じて待っていたのに。
 どうしてあなたがここにいる。
 どうしてあの女とここにいる。
 はにかんだ笑顔を浮かべてナニをしている。
 どこへ入るつもりだ。
 どうしてその手は女の腰に回されている。
 なにを、する、つもりだ?


「信じてたのに。信じてたのに!!!」


 思い切り、振り下ろす。
 もはや悲鳴もあげられないほどに消耗したか、恋人は動かなくなっ
た自分の左腕を、涙を浮かべた双眸を見ていた。
 呆然と。
 その口元には返り血か、本人が吐いたか、付着した血が凝固し始
めていた。
「愛してたのに。あなたも……私を愛してくれてたんでしょう?
 ねぇ……ねぇ……!」
 この服は誕生日に貰ったお気に入りの服。
 この指輪はクリスマスにもらった宝物。
 このピアスはおそろいの――初めてのデートの記念品。
 どうして裏切ったのか。
 どうして裏切られたのか。
 涙を浮かべた双眸に映りこむ、血の気の失せた顔の恋人。
 それは、あの建物の前で声をかけられたときの表情とよく似ていた。

――何を、してるの?――
――な、なんで……お前がここに……?――
 驚いた恋人を見上げる。
 その顔は真っ青で、とてもこれが誤解だと納得できるはずがなかった。
 隣の女は派手な化粧と、派手な服装の女――なんて、安っぽい。
――友達に聞いたの。あなたがここにいるって……ドウイウコト?――
――これは……その。だから……っ!――
――ねぇ、なあにぃ? あんた結婚してたわけぇ?――
 派手な女の言葉に恋人は首を振った。
――まさか! こんな地味なのと……っっ!!――
 地味なの?
 何を言っているの。
 清楚だと。
 言ってたじゃない。
――ねぇ…………――
 この黒い髪が好きだって。
 飾り気のない、美しさが好きだって。
 何度も繰り返して言ってたじゃない。
――ドッチ?――
 裏切るつもりなの?
 あなたは、また。
――今度ハ……ドッチ?――


 耳の奥で笑い声が聞こえた。


 グチャ、グチャ。
 濡れた音が妙に頭に響く。
 ぼうっとして、何も考えがまとまらない。
 ただ、手がぬれているのが分かる。
 ぬるりとした――生暖かい。
 泣き声が聞こえる気がする。
 だれだろう。
 あぁ――もう。そんなこと、どうでもいいや。
 だって、これをいじってる方が楽しい。
 この真っ赤な口紅も、この派手な化粧も、この派手な服も。
 私には手にできないものだもの。
 私には必要ないって言ってくれたじゃない。
 あなたが…………


「や、やめ……て、くだ……さい」
 仰向けに倒れたままの言葉。
 それを横目で見やって、彼女は口元に笑みを浮かべる。
「どうして?」
 紡ぎだされた声は酷く落ち着いており、その手が真っ赤に染まって
いなければ、きっと土いじりをする女性にしか見えなかっただろう。
 花が咲くのを待って、その花のために雑草を抜く、古風な女性にし
か見えなかったことだろう。
 その手が、人間の女の腹を裂いてさえいなければ。
「かの……じょ、には……こども……が」
 ぽつり、ぽつりと紡がれる言葉。
「だれの?」
 彼女の言葉に恋人は押し黙った。
 その間にも、彼女の手は女の腹の肉を掻き分けて、その中に詰まっ
ている臓物を引きずり出して笑っていた。
 血が、飛ぶ。
 辛うじて息のある女は、声も出ないのか見開いた双眸に涙を溜めて
乱れた呼吸をしていた。
「……だれの?」
 返り血を浴びた、彼女の笑みが冷たい。
「…………おれ…………です…………」
 ようやく、絞り出した声。
 恐怖に涙が零れる。
 凝固した血液は止血をしてくれ、命を永らえさせてはくれた。けれど、
その痛みまでは消してくれなかった。
 激痛にうなされながら、恋人はきつく目を閉じた。
「すいません……ごめ、ん……なさい」
 彼女の手は止まらない。
 深く、深く。
 何かを探すように、肉を掻き分けて、臓物を引きずり出して、深く深く潜っていく。
 その手が不意に止まる。
 唇がニタリと微笑み、その両目が細められる。
「……ミツケタ」
 ずるずると、引きずり出されていく。
 いつの間にか、女の呼吸が止まっていた。
 死んだ、肉から、血が零れ、引きずり出される袋状のモノ。
 その中に包まれて、生きているのか死んでいるのか判別の出来ない
イノチがあった。
「……やめ……」
「望まれない命なんて、ナイ方がいいと思わない?
 あなたも、この女も、望んでた? ねぇ……」
 膜を破る指が、中で丸まっている胎児へと触れる。
 生きている――? ピクリと動いたそれを腕に抱いて、女はゆっくりと
立ち上がった。
「……ほとんど人間の形してるわね。
 子供嫌いのあなたには……ちょっと、刺激が強いかしら?」
 胎児を恋人の顔の前へと持っていく。
「……うふふ。この大きさじゃあ……堕胎できないわよ?
 もっと早くに言わなきゃぁ……だめじゃない?
 私のときみたいに――」
「やめてくれ……たのむ……たのむ……から」
「ダメよ。そんなこと言って……時間稼ぎしたって、堕胎はもうできないから。
 仕方ないから――私が殺してあげる。
 子供嫌いなあなたのタメに」
 大人の指が、まだまだ生まれてはいけなかった胎児へと食い込む。
 それは――見てはいけない光景。
 してはいけない行為。
 罪深いその光景に恋人は目を背けたかった。しかし、殆ど自由の利
かない体ではどうしようもない。ただただ、目の前で行なわれる惨劇を、
その両目に焼き付けることになった。
 ごとり。
 そんな音をたてて、千切れた胎児の頭がアスファルトの上に転がる。
 ボタボタと血が彼女の手を伝って、白いスーツの上へと落ちていく。
「はい。もういないわよ……あなたの嫌いな子供は」
 白かった手が、今は赤く染まりきった手が。
 首へと回される。
「愛してるわ、あなた……いつまでも」
 徐々に力が入れられる。
 息苦しさに恋人が顔を顰めば、すぐさま力が抜かれる。
 けれど、息を吸い落ち着くとすぐに力が入れられる。
 殺されるのか、生かされるのか――まったくわからない不安に、恋人
は静かに涙を零していた。
 本当は叫びたかった。
 しかし、そんな力はどこにもなく、指の一本だって動きやしない。
 いつ、殺されてもおかしくない。
「……前の裏切りだって、私はゆるしたもの……今度だって……今度だって」
 涙が溜められた双眸。
 悲しそうな笑顔。
 恋人は息苦しそうに顔を顰め、力が緩められるのを感じながら、
「……ごめん……」
 小さく、消え入りそうな声で呟いた。
「……私のこと、愛してる……?」
 掠れた声で問う、彼女。
 それは学生時代を思い出させた。
 小さな浮気に、泣いてしまった彼女。俯いて、窺うように上目遣いに見
上げていた。
 その小さな体を抱き締めて、囁いた。

「愛してる……」

 抱き締める腕は今はないけれど、言葉だけは――
 罪が、赦される気でいた。
 学生時代と同じように、この言葉で彼女は微笑を取り戻して、またいつ
もと同じ時間が流れると思っていた。
 思っていた――――
「……もう一度、言って?」
「……何度でも……いう、さ。
 愛してる……あい、し……てる」
 嬉しそうに。
 本当に、嬉しそうに彼女は微笑んだ。
「ありがとう……」
 その笑顔に見惚れていたせいで、彼は彼女の手の中にあるものを見る
ことが出来なかった。
 ――もう、何もかもが手遅れだったというのに。
「けれど、あなたはもういらないの。
 あなたの心だけが欲しい……あなたの心臓だけが欲しい……!」



 鈍い、傷み。
 胸を開かれて、まだ動く心臓に手が添えられる。
 周囲の血管すべてを切り払って。
 動きを止めた心臓を抜き出す。
 愛しそうにそれに頬擦りして。
 息絶えた恋人を見やる。
 とても明るい微笑で。


「あなたは裏切るけれど。
 心はいつまでも私のもの……」


 血に塗れた彼女。
 心臓を抱いてどこぞ往く。
 二つの亡骸置いて、どこへ往く。


――二回目ハ……ナイカラ……――


 遠い昔の警告忘れた男。
 無残な亡骸晒して死ぬ。
 種の一つも残せず散る。
 罪深い愚かな敗者は――
 犬に喰われて死んでいく。


 心臓喰われて死ねばいい。