それは、降りしきる雨の中で目を覚ました。
 サァサァと耳の奥まで聞こえてくる雨音は新鮮なもので、
生まれてから一度も聞いたことのない音のようにも感じた。
 寝転んでいた、その体を起こして、体についた泥を振り
落として、青年は細い目で灰色の空を仰いだ。
 何かを忘れている気がする――
 根拠なんてどこにもないけれど、それだけは確かだった。
「……探さなきゃ」
 小さく呟いて。
 一人で歩かせるのが不安に思えるほどに、弱々しい足取
りで前に進み始める。
 金と、黒の髪が雨に濡れて、白い肌に張り付いた。


「あの……大丈夫、ですか?」
 頭の上から声がした。
 その声に顔をあげると、十代後半の少女は顔を真っ赤に
染めた。意味が分からずに首を傾げていると、少女は口元
に手を当て、
「え、えと……日本人……ですよね? 風邪、ひいちゃいますよ」
 カゼ――その響きに、青年は口を開いた。
「ボクは、カゼ。ひかない」
「けど……」
 少女は困ったように周囲を見回して、何かを決意したような表情
を浮かべた。傘を、青年へと差し出す。
「使ってください。私、家が近いので」
「……傘を?」
 ワンテンポ送れた返事に少女は首を縦に振った。
「……ボクは傘、つかわない」
「使ってください。寒そうじゃないですか」
「うん。寒い」
 呟いて、青年は体を震わせた。
 髪についた雨雫が滴り落ち、青年の白い頬を撫でていく。
 身に纏っているのはファーのついたコートのように思えた。
 袖口も、スソも、端という端にファーがついているので、渇いて
いればさぞかし触りごこちのいい代物であったのだろう。
 しかし、今はグッショリと濡れているので、洗い立ての絵筆を思い出させた。
 少女は自分の頭も雨に濡らしながら、それでもなお傘を差し出し続けた。
「使ってください」
「……傘」
 青年は、ゆっくりと手を伸ばす。
 予想外なまでに長く、しなやかな指と、鋭い爪に少女は一瞬だけ驚いたような
表情を浮かべたが、息を呑んで、傘を差し出した。
「……傘……」
 何かを思い出すようにウットリと目を閉じる――元々、開いているかどうか分
かり辛いくらいに細い目だったが、今はシッカリと閉じられている。長い睫毛の
間に見えた亜麻色の瞳が見えない。
 ハチミツのような甘い色をした瞳を閉じて、青年は何を考えているのだろうか。
 思わず立ち尽くして見惚れていた少女は、制服のポケットに入れた携帯の音に
気がついて顔をあげた。
「いけない。もうすぐ予備校あるのに……じゃあ。お気をつけて」
「……あ」
 青年の呼び止めるような声に、走り出しかけた少女の足が止まる。
「アリガトウ」
 どこかぎこちない響きに、少女は顔を真っ赤にして走り去った。
 水の跳ねる音だけが耳に響く。
「……傘。傘……これ、違う。けど、傘」
 呟きながら、受け取った傘の柄に額を当てる。


――お前はほんと、傘が好きね――

 雨が降っていた。
 大好きなあの人と一緒に。
 みんなで山から下りた。
 雨が降ってると、あの人はボクたちを抱き寄せてくれるから。
 雨が好きだった。
 傘が好きじゃない。
 雨が好きじゃない。
 あなたが好き。
 あなたに会いたい。
 ここはどこだろう。
 あなたはどこだろう。

――今日はあと一件回ったら帰ろうね――

 
「……イナリズシ……食べたい……」
 ふとを目をあけて。
 細い双眸に映る、歪んだ視界に顔を顰める。
 周囲の気配を探るように鼻を動かし、唇を尖らせる。
「……ダレ」
 低く、唸るような声。
 その声に道路のアスファルトが、大きく歪んだ。
「ダレってのはねぇーでしょ? 見たところ、アンタも雨で匂い
を消されて迷った部類に見える。オレと似たような一族だろ」
 大きく歪んだ場所から、酷く懐かしい姿が浮かび上がる。
 それは他者にはわからない程度に表情を浮かべ、
「ま。オレはアンタほど強くねぇですから。
 こうして人間界に溶け込んで、必死で探してるワケよ」
「何、探してる?」
 首をかしげる青年。
 その言葉に歪みから現れたソレは、笑い声を上げた。
「何って、家に決まってるでしょーがっ!
 アンタもいつまでもウロウロしてっと、喰われ……」
 言葉の尻が、悲鳴に変わる。
 その視線の向いている先へと目をやれば、ずいぶんと古典的な
姿を模した者がいた。
「ヒャー、ヒャー! オニがきた!
 最近見ないと思ったのにぃぃぃぃ!! イーヤー!!」
 大げさに騒ぐソレに視線は向けず、青年はオニと呼ばれた人間
へと目を向けた。ずいぶんと化けるのがヘタなのだろう、その皮
膚から腐臭が漂っている。
「……オニ」
「これは、これは、美味そうだな。退魔師に遭っちまって、霊力
が欲しいんだ。そっちのよわっちい方から喰らってやろか?」
 ニタァ、と笑う。
 その口の中に黄ばんだ牙を見つけると、ソレは悲鳴をあげて、
再びアスファルトの中へと逃げ込んでしまった。微かな静寂と、
雨の音。二つが重なり合うと同時に、懐かしい匂いが鼻をついた。
「……イタ、知ってる」
「お前は逃げねぇのか? 喰われちまうぜぇ」
 オニと呼ばれた人間の姿を模した、魔物が腕を振り上げる。
 その腕には小ぶりの短剣――カッターナイフ、と呼ばれるものらしい。
「……喰われない」
 青年は小さく呟いて、手にしていた傘を放り投げた。

 刹那。

 アスファルトの上を流れていく雨の雫が、四散する。
 霧状になり、オニの視界を塞いだかと思えば、息もつかぬほどの速さ
でそれは、細い針のような姿をとり、今も天から降り注ぐ恵みのように、
大地目掛けて降り注ぐ。
 アスファルトの上に突き刺さると、再びソレは水滴へと姿を変え、そ
して再び宙に舞い上がる。
 終わりのない地獄を味わうかのように、オニは短い悲鳴をあげ続けていた。
「ひ、なんだ。なんだ、こいつ。ただの狐じゃねぇ、のか?!」
 身軽なステップでオニの肩へと止まった青年は、開いていないかのように
も見えるくらい細い双眸で、遠目から見れば微笑んでいるかのようにも見える
顔で――
「狐、違う。ボクは、狐違う」
 告げながら、オニの顔を掴む。
 恐怖に歪む――否、それは赤黒い、オニ本来の姿。
「や、やめて……死にたくねぇ。数も少ない、オニを、オニを」
 青年は双眸を見開いた。
 亜麻色の瞳は金色へと変わり、それは彼自身が生まれもっていた色とは別
のものだった。肉の薄い唇で、彼は見聞きしたことを喋る。
「ヒトに、仇名す、魔物は、滅するが、運命――此れ、退魔師が役割」
 鋭い爪が、赤黒い肉に食い込む。その後ろで四つの影が躍った。
 腐臭が鼻をつくが、彼は表情一つ崩さぬまま。
 一気に、その右手に力を込めた。

 ――断末魔の絶叫を聞いた。

「……つか……れた」
 フラフラと、その場に座り込む。
 視界に映るアスファルトすらも正しく認識できない。
「おい……お前、力を使いすぎたんだな。制御できねぇのに使ったな?」
 歪みから顔を出す、懐かしい姿。
 それの姿もうまく見えなくて――
「……会いたい……」
「おい、おい! クソッ! ……死ぬなんて言うなよ。せっかく、そこまで」
 声を遮るのは、とても懐かしい、とても優しい響き。
「大丈夫ですか!!」
 自分の袴が濡れる事も気にしないで、走り寄ってきた少女。
 黒い髪が濡れて張り付いて、いつも使っている番傘に大きな穴をあけて。
 息を切らせて、駆け寄ってくる。
「……退魔師……」
 ソレは小さく呟くと、大急ぎで青年の前へと立ちはだかった。
「退魔師! こ、こいつはオレの主で、人間だ! 祓うとかいうんじゃねーぞ!」
 啖呵を切ったものの、声が震えている上に、体の半分以上はアスファルトに
溶け込んだままだった。その様子に駆け寄ってきた少女は不思議そうに首を傾
げた。
「お前も、管狐……よね?」
「あぁ。オレは管狐さ! こいつの……え、も?」
 管狐と呼ばれたソレは、アスファルトに溶け込んでいた体を震わせながら少女を
見上げた。古いスタイルの退魔師ではあるが、力は折り紙つきなのだろう。
 腰帯に大量の管が括られている。
「も。って……オレ、管狐。こいつ……妖狐じゃねぇの?」
 ポカン、とした顔つき――本人や、似たような存在にしか分からない程度ではあ
るが、確かに表情を変えて管狐は寝転んでいる青年を見た。
 全体的に金色の髪。だが、二房だけ先端が黒い。
 これは耳の名残だろうと思っていたが――狐だと思っていたが。
「イタは私の管狐。それも、代代伝わるっていう、由緒正しい、管狐よ」
 笑顔で退魔師の少女が告げる。
 管狐は呆然とした。
「どーりで……つえぇはずだ」
「けど、人間の姿になるなんて聞いたことない……あ!?」
 大きな声をあげて、少女は青年を抱き起こした。
 見た目に反してそれなりに怪力らしい少女は、イタという名の人間の姿をした管
狐の腰の辺りをさすり、口をパクパクと――エサを求める金魚のように動かしていた。
「イタ、お前……妖狐になってるよ……!?」
「……ハァ?!」
 二つの声が重なる。
 その声に反応したのか、先端が黒い髪の二房が震える。
「……あ」
 細い目を微かに開いて。
 その視界に映った姿に、安堵に満ちた笑みを浮かべる。
「……リン……」
「イタ、どうして妖狐に……」
「ボク……九尾、噛み殺した。凄く疲れて、起きたら……この姿」
「九尾をかみころ……由緒正しい管狐ってこぇぇ」
 管狐が呟いて。両手を合わせる。
 リンと呼ばれた退魔師の少女は、しばらくの間、言葉を失っていたようだが――
信号機が二回目の青を告げる頃、静かにイタの体を抱き締めた。
「もう、管には入れないね」
「うん……どうしよう」
 弱った声で呟きながら、イタは困ったような表情を浮かべる。
「大丈夫よ」
 満面の笑みを浮かべて、リンは自分の胸を叩いた。
「これからは歩けばいいのよ。
 立派な足もついたし、凄くカッコいいよ――センコ」
「セ?」
 首をかしげるイタに、リンは満面の笑みを浮かべて見せた。
「こんな立派な妖狐にいつまでも小さな名前つけてたら、ご先祖様に怒れられちゃ
うからね。今日からお前はセンコよ」
「……新しい名前。リン、大好き」
 ぎゅ、と抱き締めて。
 センコはゆっくりとその姿を、獣の姿へと変えた。
 金色の毛皮と、同色の瞳。それは妖狐の中でも高位にいる、仙狐そのものであった。
「私たちは山に帰るけど、お前はどうする?」
 リンの問いに、管狐は軽く丸まった。
「もちっと、探すわ。見つからなかったら助けて」
「うん、分かった」
 微笑んで告げると、管狐は再びアスファルトの中へと消えていった。
 静寂に包まれた中で、雨音だけが響いている。
 リンは隣に佇むセンコの背を、軽く撫でた。
「帰ろう。センコ」
「ウン……」
 リンを背に乗せ、センコは天を駆ける。
 もう、その胸に抱いてはもらえないけれど――今度は自分が抱く番なのだと。
 背中に感じる体温にセンコは、はにかむように微笑んだ。

「大好きだよ……リン」

「おかえり、センコ」



 雨が上がる頃。
 信号機に引っかかっている自分の傘に気付いた少女は軽く首を傾げた。
「あの狐、ちゃんと家に帰れたのかな……?」
 呟きながら、鞄に忍ばせていた管を取り出す。
 そこから放出された管狐が傘を掴み、少女へと返す。
 今にも鼻歌を歌いそうな表情を浮かべながら、少女は足元のアスファルトへと
囁きかけた。
「家出したこと怒ってないから。帰っといで。イズナ」
 アスファルトが歪む。
 涙目になっていた管狐が顔を出し、思い切り少女へと飛びついた。
「さ、さみしかったよぉーう。もう、家出なんてしねぇーよーう」
「はいはい。帰ろうね、イズナ」



 丸い月が夜空に昇る。
 輝く満天の星々の下で、壊れた番傘だけが不自然に転がっていた。
 



「もう、傘いらないよ。ボクの四つの尾があるから」