――ここにいるよ。

 ――その手で触れて。

 ――私は確かにここにいるから。

 

 

 白い手首を赤い泪が伝う。

 ぽたり、と真っ白な床に落ちた真紅の泪は弾けて開花する。

 それはまるで、真っ赤な花。

 泪は幾多もの花となって、傷付いた心を癒す花園を築き上げる。

 少女は虚空を仰いだ。

 最早、生気など存在しないに等しい。

 どのような言葉も、その閉ざされた心に届くことはないのだろう。

 誰の存在も、その双眸に映ることはないのだろう。

 ただただ――絶望だけが彼女を支配する。

 青ざめた顔によく映える、青紫色の唇。

 小刻みに震えて、白い吐息を吐いて。

 かすかに言の葉を紡ぐ。

 

「……早く……いかなきゃ……早く……」

 

――早ク、死ナナイト――

 

 

 白い粉雪、灰色の空より舞い降りて。

 

 

 それは真っ白な世界だった。

 目を開いてすぐに見た景色は、白い白い白い。ただ白いだけの世界。

聞こえてくるのは何もない、音のない世界に迷い込んだか、自らの耳が

機能を停止させたか。

 そのどちらかだと思った。

 けれど、やがて眩しいくらいの白に目が慣れてくると、その耳までもが

息を吹き返したかのように音を拾い始める。

 誰かの息遣いが聞こえる。

 誰かの泣き声が聞こえる。

 叫び声は誰のものだろう。まるで獣だ。

 僅かに光の宿った双眸を動かす。気だるい体が動く気配はない。

 唇も、動く気がしない。

 息ができていることが奇跡のように思えた。

 それでも耳は、目は、肌は、周囲を感じる。

 

「おはよう。新入りさん」

 

 聞こえた声は透き通るようなキレイな声。

 きっと、キレイな人なんだろう。

 少女は声のした方向へと目を動かした。

 白いカーテンがたなびく。目が痛いと思ったのはほんの一瞬。

 あとは声にならない感情が込み上げるだけだった。

 金網の向こうの澄んだ青空。白い雲が千切れながら流れていく。

 その窓に背を預けて佇んでいる、長髪の少女。

 とても、とても青白い顔をしていて。

 今にも死んでしまいそうなほどにはかない人。

 けれど、けれどもその双眸にはとても強い意志が宿っていて。

 目を、奪われた。

 同性だというのに、言葉を失うほどに見惚れた。

 その様子に見知らぬ少女はクスリと笑みをもらした。

「どうしたの? まだ夢心地なのかしら」

 ゆっくりと、近づく。

 スリッパを履かずに裸足で歩いているせいか、ヒタヒタと恐怖映画のワ

ンシーンのような音がした。

「そうよね。まだ、夢の世界にいるのかもね」

 少女はとても儚く微笑んだ。

 延ばされた白い腕には無数の傷痕。

 何本も、何本も、絡み合うように刻まれている。古い傷痕、新しい傷痕。

 白い肌を塗り潰すように、刻まれている。

 少女は酷く儚く微笑む。

 まるで、今にも消えてしまいそうなほどに。

「この世の地獄、この世の天国へようこそ。あなたが生きていて、とても嬉しいわ」

「…………?」

 言葉が出ない。

 それでも少女は喋り続ける。

 とてもキレイな声で、歌うように、澄んだ声で紡いでいく。

 

 絶望の歌を。

 

「私だけが惨めじゃないって実感できるもの」

 

 少女はようやく働き出した頭で思い出す。

 

――あぁ、そうだ。そうだった。

 

 散らかった部屋。

 散乱した雑誌の上に寝転んでいた。

 コンビニで買ったカクテルと、ずっと溜めていた薬。

 さようならを書いた手紙を抱いて、眠ったはずなのに。

 涙が溢れた。

「……わたし……生きてるの……?」

 少女が笑う。

「うん。生きてる。手首の傷も縫われて、神経も無事で、胃洗浄のせいで

どこもかしこも健康よ」

 おめでとう、と唇が震えていた。

「うそ……うそ。うそ……っ」

 悔しさに嗚咽が漏れる。

 終わると思ったのに。終わると思ったのに。

 ようやく動いた手で顔を覆って、血の滲まない傷口を恨んで。

 さっさと死ななかった体を憎んだ。

 その姿を見知らぬ少女が見ていることも忘れて。

 ただ呪いの言葉を自らに向けて放っていた。

 

 死にたかったのに。早く死なないといけなかったのに。

 どうして、どうして、どうして、どうして、どうして!!

 白い天井もカーテンも、何もかもが憎い。

 どうして助けたりなんてしたの。

 

 室内に響く泣き声と叫び声に、白衣を来た女性が駆けつける。

「聖さん、何を、したの」

 黒い髪をひとつに結った女性の言葉に、聖と呼ばれた少女は儚く微笑んだ。

 真っ赤な唇が三日月の形に歪む。

 強い意志を秘めた黒目がちな瞳が細められる。

「新入りさん……ううん。トモダチに――」

 とても澄んだキレイな声。

 この世界の汚いものなんて一つも知らないような声で。

 彼女は絶望を紡ぐ。

 

「これから味わう地獄を教えてあげたの。

 お友達だから――生きる、って地獄を教えてあげたのよ」

 

 

 

 泣きやんで。

 落ち着いたころに、女性が背中を撫でてくれた。

 ソファに腰掛けて女性の言葉に耳を傾ける。開け放たれた窓の向こうの世界

の音が、酷く耳に障った。

 雑音にしか聞こえない。

 鳥の鳴き声も、風の音も。

 この世界に響く音全てが耳障り。

 女性の言葉も耳障り。

 少女は顔を顰めた。

「――だから、ご両親はあなたをしばらく入院させて治療を……」

 聞こえる言葉。

 それは雑音で。

 真実でもなんでもない。ただの音。

「どうでも……いい」

 顔を横に背けて。

 視界に入る少女――年は同じころであろう。聖と呼ばれていた儚い少女を見る。

 クスリと微笑んで、手を振る。ヒラヒラと揺れる白い衣服は自分と同じもの。け

れど、どこか赤黒く染まっているのは彼女自身の血液だろうか? そんなことを

思いながら、少女は縫われてしまった自らの傷口へと指を這わせた。

 ズキンとした痛みが心地良い。

 切っている瞬間の恍惚を思い出す。

 思いつめられた世界の中での唯一の救い。

 楽しいと感じる瞬間。

 死は――解放の手段。

 数多もの言葉が脳裏を駆け巡り、全ての音を排除する。

「……? ――さん、――さん?」

 肩を揺さぶられる。

 それでも返事はしなかった。どうせ、雑音しか口にしない。

 そっぽを向いたままの少女を見ていた聖が笑い声を上げた。白い世界に、キ

レイな声が響き渡る。

「あはは。先生じゃダメよ。私と同じ、この子も死に希望を見出したの」

「聖さん!」

 名前が聞こえる。

「あははっ! 先生、知ってる? この子の名前、輝く夜って書いて、かぐや、っ

ていうそうよ。私と二人合わせて聖夜ね、聖なる夜! 少し早いけれど、今の季

節にはちょうどいいじゃない。あはははっ」

 ふわり、と聖がステップを踏むように室内を駆け巡る。

 それを止めようと女性が立ち上がるが、聖は軽やかに静止の手を振り払って、

優雅に、美しく、まるで妖精のように舞っていた。それを呆然と眺めていた少女―

―輝夜は気だるい体をソファへと横たえて、重くなってきた瞼をゆっくりと下ろした。

 ――闇が、全てを包み込むと、不思議と安心する。

 

 

 ――お母さんが出て行ったのは小学校のとき。お父さんが新しいお母さんを連

れてきたのはそのすぐ後。子供心ながらに裏切られたと思った。

 お母さんは私を置いていって。お父さんはお母さんと私を裏切った。

 二人とも自分勝手だ。

 そう思っていたら、新しいお母さんに嫌われた。

 可愛くない子だとぶたれた。

 赤く腫れた頬を抑えて泣き叫んだ。

 隣のおばちゃんが来てくれるうちはまだ良かった。

 おばちゃんがいなくなったら、もっと酷くなった。

 いつからか、喋ることが辛くなった。

 中学生になった。だれとも話せないままでいたら、まるで、いない人のように扱われた。

 机が、イスが、荷物が、全部なくなった。体操服がなくなって、制服が破られて。

 先生も助けてくれない。お父さんも助けてくれない。

 落ち込んでる私を新しいお母さんは怒鳴った。

 ぶたれて痛い。怒鳴られて痛い。

 何が痛いのかも分からないまま。

 気付いたら私は私を傷つけてた。

 死なないと。死なないと。

 早く死なないと。

 新しいお母さんは私を殺す。

 新しいお母さんは私を。

 私を嫌いだから。

 私が嫌いだから。

 早く、早く、早く。

 

 死なないと!!!!

 

 

「おはよう」

 真っ白な天井が見えない。

 見えるのは聖の顔。

 笑っている。

 強い意志を秘めた瞳で笑ってる。

「……」

「別に喋らなくていいのよ。私はおしゃべりだから、聞いててくれれば」

 クスクスと笑って。

 傷痕だらけの手を伸ばす。冷たい手は輝夜の頬を撫でて、唇の端を軽く持ち上げる。

「笑うことが辛いかしら?」

 儚く笑う。それでもその瞳は強い意思を秘めて。

 儚さと強さを兼ね備えた瞳。けれど、それはどこまでも続く闇のように暗かった。

「私は笑うの好きよ。笑っていれば、何も辛いことはないの。笑えばみんな、辛く

ないのよ」

 唇が三日月の形に歪む。

 細められた瞳に映る自分の姿。無表情な自分の姿。

 輝夜は恐る恐る、言葉を紡いだ。

「聖……さんは、辛いことがないの……?」

「えぇ。笑っているとすべてが幸せよ」

 冷たい手がもう一度触れて、離れる。

 その顔に浮かべられる儚い微笑を見ながら、ズキズキと痛む頭と傷口を想っ

た。初めて、眩しいくらいの白を目にした、昨日を思い出す。

「……わたしを、見てると……自分が、惨めじゃないって思えるの?」

「……ふふ」

 聖が笑う。

 何も知らない無垢な子供のように。

 全てを知った絶望の子供のように。

「輝夜。私、あなたが好きよ」

「初対面なのに?」

 自然と言葉が出た。

「えぇ。大好き。あなたが大好きよ」

 微笑む聖の指先が頬を伝って、瞼を撫でる。

 反射的に目を閉じると、心地良い闇が全身を包んだ。何も見えない、とても安

心する瞬間。

「一目見て想ったわ。あなたは……私の友達になってくれるって」

 細い指が傷口をなぞって、手を優しく包み込む。

 耳元で囁かれる、睦言のような言葉は――愛の言葉だろうか。

 どこか冷たい言葉の響きの奥に暖かいものを感じる。

「大勢の人が私を裏切ったけれど、あなたは私を裏切らない。

 私はあなたが好き、色んなものを失ったあなたが。

 誰にも愛されないあなたを愛せるから」

 

 ――だから。

 

「友達になりましょう。恋人よりも、親子よりも、繋がっていられる友達に」

 差し伸べられた手。ゆっくりと目を開けると、そこには微笑を浮かべたままの

聖がいて、その後ろには目が痛くなりそうなほどの白い壁が、太陽の光を反射

させていた。

 カーテンが揺れる。

 金網から吹き込む風は想っていたよりも優しい。

 冷たい、冬の匂いがする。

「友達……なんて。確認して……なるものじゃ……」

「じゃあ。私とあなたはもう友達、決まったわ」

 輝夜の言葉に聖は満面の笑みを浮かべる。

 寝転んだままの輝夜の頬に口付けて、

「私には陽だまりなんて、暖かい場所はないけれど。あなたがいる場所が私の

陽だまりになるの。

 二人で、この陽だまりにいよう。暖かい、暖かい、眠りにつけるように」

 とてもキレイな声で、歌うように告げた。

 その声に導かれるように、輝夜もまた――頷いた。

 心臓が、少しだけ鼓動を早めた。生きてる、なんてことを想った。

 冷たい風が頬を撫でて、冷たい手が手を握って。

 冷たくて、寒いけど。

 

 ――とても、暖かい。

 

 時間なんて関係ない。

 昨日出会って、今日が親友でも良い。

 好きだといってくれた。

 好きになれる気がした。

 ――刹那の、友情でも。

 永遠の友愛に変わると信じてる。

 

 輝夜はゆっくりと、体を起こした。

 

 聖が、微笑んで待っていた。

 手を差し伸べて。

 

 

 

 数多の話。

 ここに来る前のこと、ここに来た後のこと。

 聖はたくさんの話をしてくれた。

 それに返すように、ぽつりぽつりと、輝夜も話し始めた。

 辛い記憶を、どこか嬉しそうに話した。

 辛い記憶を、二人で共有した。

 傷口を舐めあうように。

 

「そんなに辛いことがあったの……」

「そんな……酷いことが……」

 

 二人で顔を見合わせて、泣きそうな顔をしてみる。

 そして――笑う。

 

「必ず、会えるって信じてた。あなたに」

「あなたに会えて嬉しい――」

 

 手を繋いで。

 

 眠る。

 

 

 

 夢うつつ。

 輝夜は目を閉じたまま闇を見た。

 手を繋いだ先にいる聖へと、告げる。

「ね、本当に……そこにいる? わたしの、夢じゃない?」

 一拍置いて、聖の声が聞こえる。

「ここにいるよ」

 強く、手を握られる。

「あなたの手が、触れてる」

「あなたの手が……触ってる」

 冷たい手。

 けれど、優しい手。

 大好きな、大好きな手。

 ずっと一緒。

 ずっと――――

 

 

 

 ねえ、外が凄くきれい。

 金網が、もったいない。

 

「輝夜、小指を出して」

 

 晴れた午後の日に、聖は笑みを浮かべたまま手を差し出した。

 言われるままに小指を立てると、互いの小指が絡み合う。

 

「約束。この手を、離さないって」

 

 輝夜は頷いた。ぎこちない笑みではなく、嬉しそうな笑みを浮かべて。

 

「約束。手を、離さない。聖の手を、離さない」

 

 穏やかな午後。

 廊下からはいつもと同じ絶叫。関係のない、外の世界。

 この牢獄が二人の世界。

 お昼ご飯の匂いがする。

 今日は、魚みたい。

 二人で微笑みあって。

 手を繋いで。

 肩を寄せ合った。

 息が近い。

 息が――――――――――――――――――――――

 

 

 

「二人とも。ごは――」

 食器の割れる音。

 女性は言葉を失う。

 白いベッドのシーツを破って作った、一本の紐。

 二人の首が括られて。

 寄り添って、眠っている。

 その場に崩れ落ちる女性。何も、何も、言えないようだった。

 

 ――二人が決して見せなかった、幸せそうな、満たされた笑顔に。

 女性は何も言えなかった。

 ただ、うめいて。ただ、苦しかった。

 

 

 

 二人は一人。

 一人は二人。

 この陽だまりは二人で立つ場所。

 手を繋いで。

 暖かい陽だまりで。

 二人はずっと一緒。

 ずっと、ずっと。

 

「大好きだよ」