赤い花の中の一輪。
 純白のそれが揺れる。
 どこまでも青く、澄み渡った秋の空に雲が流れていた。
 群生している赤い花たち。その中で一輪だけが純白のまま、何色にも
染まらずに揺れている。
 少し冷たい風が花弁を通り過ぎて――
 砂利を踏む、足音がかすかに聞こえた。




「えー、藤盛愛凛さん。おれが死んだら悲しいですか?」
 唐突な言葉に少女は、パッチリとした二重の瞳を大きく見開いた。
「悲しい?」
 繰り返され、少女はようやく思考停止した頭が動きだしたことに気付い
た。いくつもの言葉が脳裏を過ぎり、彼が期待するだろう言葉も、自分が
言いたい言葉も、すべてが脳裏にあったが、それらを口にはせずにグロ
スを塗った唇を笑みの形に歪めた。
「絶対に泣かないし、悲しまない」
 笑顔で告げられた言葉に少年は、少しだけポカンとした表情を浮かべ、
すぐにその表情を満面の笑みへと変えた。
「だよな。お前が泣くところとか想像できねえから、マジで」
「というか、私はアンタより後に死ぬ気ないし。老後はせいぜい、私より長
生きして「淋しいよぉー、かえってきてよ愛ちゃーん」とか言ってなさい」
 胸を張って笑う少女。淡い茶色の髪が揺れて、数ヶ月前から付け始めた
コスモスの髪飾りが上下した。その髪飾りへと手を伸ばして、少年は唇を尖
らせる。
「お前より長生き……なぁ。ほんとにそうなったら、おれ錬金術始めるかもよ?」
「はいはい、漫画の読みすぎ」
 少女の視線が、机の上のプリントへと注がれる。
 すでに教室には自分たち以外誰もいない。廊下を通り過ぎる声が聞こえ
なくなってどれほど経つか。最終下校の七時が迫ってきている。
 それでも白紙のままのプリント。
 それを指差し、
「アンタ、ほんとに進路どうすんの?」
「お前は進学だっけ? 公務員になりたいとか、真面目だよな」
「安定した生活が送りたいの。私のことよりもアンタでしょ?」
 少女の言葉に少年は、シャーペンを指先でもてあそびながら両目を伏せた。
 まつげが影を落として、何も考えていなさそうな普段の言動のすべてを掻
き消していく。何か、とても大きなことを考えているのでは――と思いそうに
なる自分を抑制して、少女はプリントを軽く引っかいた。
「なりたいものとか、ないの?」
「んー……」
 深く考えるような仕草。
 それは本当に何かを考えているのだろうか。それとも、すでに思考は今夜
の夕飯のことと摩り替わっているのだろうか。いまいち表情の読めないとき
がある恋人の顔を凝視しながら、少女は小さく息を吐いた。
「じゃ、おれも公務員」
「アンタの頭じゃ無理だから」
「……ぼくぅ、愛凛ちゃんといっちょにはたらきたいなぁー」
「私ぃ、雅斗くんがクビになる姿を眺めるのねぇ〜」
 キリッと、少女――愛凛の瞳が細められる。
 まっすぐに見詰められて。
「死ぬか、もしくは絶命するか。選択肢をあげるよ」
「…………ぷぅ!」
「キモい!!」
 怒声で一刀両断され、雅斗は大きな笑い声をあげた。空は黄昏色に染まっ
ていくけれど、真っ白なプリントは白いまま何も映さない。
 何も書かないで、何にも染まらないで。
 考えていないのか、考えているのか。
 本当の事を教えてくれない不安が過ぎって、誤魔化される悲しみに気がつ
く。それでもそれを気取られるのが嫌で、愛凛は強気な表情を一切崩すこと
なく、何度も何度も、繰り返し繰り返し進路希望表を埋めろと言っていた。
 そのたびに雅斗は冗談めかして論点をずらしていく。
 頭は悪くないのに――
「そんなんじゃーニート決定じゃない」
「せめてフリーターにしてくれ。てか、それじゃあおれが困る」
「だって何もする気ないんでしょ?」
「何言ってんだよ。おれにはな……」
 人差し指を動かして、手招き――指招きをする。
 それに誘われて、雅斗の口元へと耳をもっていく。少しだけ自分より平熱が
高い、熱い手が頬に触れて、そこはかとなく恥ずかしい気持ちが芽生えるが、
それを誤魔化すように愛凛は唇を噛み締めた。
「でっかい夢がある」
 ひそひそと囁かれる。
「なによ」
 照れ隠しにぶっきらぼうに返せば、彼はとても子供らしい無邪気な笑みを浮
かべる。
「――――ってこと」
「……バカじゃない?」
「お前、顔ニヤけてんぞ」
「寝言は墓の中でだけ言いなさい」
「嬉しいなら嬉しいって言えよ」
「別に、別に……嬉しくないわよ。実現したら喜んであげるけどね」
「嬉しいんじゃん」
 小さく呟かれた一言に愛凛が激昂する。
 顔を真っ赤に染めて、両手を振り上げて怒る。ポカポカと全力ではないにしろ、
ぶたれている雅斗の顔はどこか赤みを帯びていて、それが夕陽の色だったの
か、それとも彼自身も照れくさかったのかは知らない。
 けれど、ただ頭がぼーっとして。
 何度も何度もその言葉が繰り返されていた。


――愛凛と住む家建てて、毎日愛凛の飯食べて、おれが仕事から帰ったら愛
凛に「おかえり」って言ってもらうのがおれの夢。娘とか息子もいれば最強だよな――


 高校生の恋愛は遊びなのかもしない。
 それでも――この感情は、胸が躍るすべては本物であったと――

 ――今でも、信じてる。


「藤盛さん? どしたんですか、そこ私有地ですよ」
「あ、ちょっと。懐かしくて」
「なつ――あぁ。藤盛さん、ここが地元でしたっけ?」
 大変ですね、転勤続きで。と付け足され、スーツ姿の女性は苦笑を浮かべる。
「せっかくの地元なんですから、昔の友達に会ってきたらどうです? 藤盛さん仕
事はできるんですから、もちょっとリラックスしたほうがいいですよ。あんな上司の
ことなんて忘れて、パパーンっと!」
 大げさに両腕を振り上げる後輩を窘めようと口を開きかけ、そのまま閉じた。
 言おうとした言葉は告げずに、ただ当時とは変わった風景を眺める。通学路
だった道にあった居酒屋は店を閉めて、今はまったく知らない定食屋になって
いたし、よく行ったコンビニはガソリンスタンドになっていた。
 よく遊んだ空き地は誰かが購入し、もうじき家が建つらしい。
 変わっていく。
 あの頃とは違うのだと思い知らされたような気がした。友人たちも卒業、就職と
共に散らばってしまい、メールの返信も滞ることの方が多い。
 成人して最初のうちは飲み会だなんだと騒いでいたが、次第にそれは日々の喧
騒に呑まれてしまい、いつの間にか友達同士で集まる――ということすらしなくなっ
ていた。
 彼女自身、転勤が続いてしまった。ということもあったのだが。
「そういえば」
 ふいに後輩が口を開く。
「藤盛さん、彼氏いないんですか?」
「いる……いた、になるのかな。全然連絡とれなくなってけっこう経つから……自
然消滅かな」
「そうなんですか。ありますよね、そういうこと」
 元気出して。とでも言い出しかねない後輩に、愛凛は苦笑を浮かべて対応した。
 確かに連絡が取れなくなってずいぶんと経つ。最後に電話のやり取りをしたの
が、国家試験に合格したときで、メールをしたのが一番最初の転勤の時だった
気がする。
 何年も昔の出来事に、彼女は少しだけ目頭が熱くなるのを感じた。
 それを察したのか、後輩はハイヒールのかかとを鳴らしながら、
「じゃ! 自分は近くに遊べる施設がないかを探ってきます。アディオス!」
 派手な動作つきで去っていった。
 一人になると、その周辺が変わってしまったことがさらによく分かる。
 車の通りは増えて、その代わり歩く人の姿が減った。
 自分の知ってる、あの頃なんてものは消えてしまった――そう、思いたくなる
ほどに。
 愛凛は一歩、足を進めた。砂利を踏む音がする。
 長テーブルが置かれているのは、家を建てるときにする地鎮祭の名残であろう。
 足の裏にゴツゴツとした感触が当たる。昔はそうでもなかったのに、今は少し
だけ足の裏が痛い。弱くなったのか、衰えたのか。そのどちらかだという判断が
つかないような微妙な年齢になった。
 故郷は変わった。
 友達も変わっていく。何通か、結婚したという報せを受け取った。
 自分は――
「……キレイな空。秋晴れは――」

――秋晴れってなんかいいよな。おれ、秋の空まじ好き――

 脳裏に過ぎる声。
 もう、何年も思い出してなかった。

「やだ、彼岸花ばっかり。お墓じゃあるまいし――」

――この花キレイじゃね? おれ好き……え、死人花? ばっか! 彼岸花っ
つーんだよ。え、同じ? ……キレイならいいんだよ、キレイなら!――

 彼の好きな華。
 赤い、赤い、花。
 群生したその花たちの真ん中に、白い花がいる。
 純白の――あの日の、就職希望を書くプリントを思い出す。
 彼は結局なんて書いたのだろう。
 彼は――彼は、どこへ行ってしまったのだろう。

 愛凛は無意識に白い花へと手を伸ばした。

「彼岸花、好き?」
 ふいに背後からかかる声。
 愛凛は慌てて立ち上がり、ここが私有地であることを思い出した。
「すいません。久しぶりの帰郷なので、懐かしさのあまり勝手に入ってしまいま
した」
 振り返り、深く頭を下げる。少しだけ冷たい風が頬を撫でていく。
 視界に入る靴からして、男性なのだろう。声から判別すると、そう年は変わら
ないように思えるが。
「懐かしくて、か。昔、ここに住んでたの?」
 男性の質問に愛凛は頭を下げたまま、低くおさえた声で答えた。
「はい。大学を卒業するまで」
「そうなんだ。ところで――まだ、質問に答えてもらってないんだけど」
「……はい?」
 愛凛の聞き返しに、男性は笑いを含んだ声で繰り返した。
「彼岸花、好き?」
「えぇ。好きです」
「もう一つ」
 男性が少しだけ近づく。不思議と、懐かしさを感じる歩き方だった。愛凛は顔を
あげようとしたけれど、それは男性の手に阻まれてしまった。
「藤盛愛凛さんに質問です」
「なんで私の名前を――」
 愛凛の言葉を無視して、男性は言葉を続ける。
 どこかで聞いた事のある――とても、懐かしい。

「藤盛愛凛さん。おれが先に死んだら泣きますか?」

――えー、藤盛愛凛さん。おれが死んだら悲しいですか?――

「――あ、ちょっと。顔……顔、見せなさいよ」
「答えたら。どうぞ」
 絶対笑っているに違いない。
 愛凛は歯を食い縛り、一気に吐き捨てた。
「泣きません。私が先に死んで、あなたは淋しくて仕方のない日々を過ごします」
 手から力が抜ける。思い切り顔をあげ――
 殴ろうと思った。連絡の一つくらい、と。
 けれど――
「……もう、会えないと思ってた。私のこと、昔のことにして、今は今って笑ってる
アンタの夢を何度も見た」
 顔を見た瞬間、手から力が抜けて、怒っていた顔が弱々しく歪んだ。
「私が一人で淋しいのに、アンタはメールすら返さないし……もう、ダメだと思った。
 やっぱり、子供の恋愛だったんだ、って言い聞かせてた。忘れられたんだって――」
「一日も忘れたことなかった。お前が頑張ってたから、おれも頑張った。凄い頑張っ
たんだぜ? オヤジの仕事継ぐだけじゃなくて、拡大拡大って……たまにヤバイ時
もあったしな。
 けど――」
 大人びた――それでも、その瞳は昔のまま。無邪気なままの彼が笑う。
「おれはおれの夢叶えるって決めてたからな」
「……ばっかじゃないの?」
「あぁ。バカでいい、やっと叶うからな」
「……まさか、ここって……」
 愛凛は両目を見開いた。
 けっこうな広さをしている、家一つ建つにしても――ずいぶんと、大きなものになり
そうだ。
「もちろん。おれの夢の館」
「なんかキモい」
「……愛凛。お前に仕事辞めろって言わないから、ここにできる家がお前の帰る場
所だって主張していいか? つか、決定事項だけどな」

 いつだって、マイペース。

「高校のとき、実現したら喜んでくれるって言ったよな? はい、喜べ」

 とても無邪気な笑顔を浮かべて。
 スーツの似合うような男になったのに。
 どこか子供のままで。
 けれど、そんな彼だからこそ。

「まだ、全部叶ってないから喜ばない。私がお帰りっていうわけじゃないし、子供もい
な――」
「作っていいの? 仕事できなくなるけど」
「……!!!!!!!!!」

 雅斗の言葉に顔を真っ赤に染める愛凛。
 今にも叫びだしそうな彼女の頬を両手で挟んで、彼はとても大人びた笑みを浮か
べた。
「たくさん待たせたからな。これからはおれが待つ番だな、いくらでも待つからゆっく
り決めてくれよ。おれはこの家でずっと待ってる、お前が帰ってくる日を」
 顔が熱い。
 けど、心地良い。
 彼岸花が揺れる。
 赤い花に囲まれた白い一輪が揺れる。
「あ、そうだ。これからはアイツのこと彼岸花じゃなくて曼珠沙華って呼んで。なんか
そっちのがかっこいいし」
「はいはい……」
「愛凛」
 名前を呼ばれ、視線を向けたと同時に耳元で囁かれる。

――ずっと、お前に恋してる――



 
 すごくキレイな秋晴れ。
 赤い曼珠沙華と白い曼珠沙華。
 彼の好きなもの。
 全部抱き締めて。
 いつか、を夢見るあの日々を思い出した。