道に迷うたことがありますか?
あれはとても心細い。
あたりの風景がすべて敵にすら見えてくる。
――なぜ、このような話を、と?
さぁ。
少しばかり、暇であったからでしょうね。
列車で相席になった女は、口元を扇子で隠しながら笑った。ずいぶんと
個性的な化粧を施している。都の流行かと聞こうと思ったがすぐに口を閉
ざした。
色の白い顔には狐のような笑みが浮かべられている。
もとより狐のような顔立ちなのだろうか。
それとも本当に狐の化けたものなのだろうか。
考えても無意味なことと気付き、俺は思考を振り払おうと頭を振った。
女はクスクスと笑んでいる。
「学生さんは忙しいのですねえ」
鈴の音のような軽い声に思えた。一重の細い目は閉じているのか開い
ているのか分からないが、瞼に置かれた赤の化粧は女の細い目を艶や
かなものへと変えていた。
美女といえば美女。だがこのくらいの女ならば、田舎にだって数えるく
らいにはいる。しかし俺が女から目を離せないのは、その理由は。
俺のいた学び舎にだっていたのだこの程度の女は。
だが、目が離せない。
強く引き寄せられる。まるで見えない糸に引かれるように。
このような現象は初めてだ。
学帽のつばを握って息を呑む。
「あらあら。列車の中では帽子を脱ぐものですよ。
頭の中が蒸れてしまうでしょう?」
「……あぁ、そうかもな」
確かに列車の中は少しだけ蒸し暑い。六月という季節柄か外はどんよ
りとした曇天であるし、今にも降り出しそうな雨が肌を伝った気がした。
被っていた学帽を膝の上に置き、改めて女を真正面から見据える。
漆黒と言葉の似合う豊かな黒髪を下ろし、眉はやや古風であるがきれ
いに整えている。そこはかとなく思い出すのは平安時代の貴族の姿だろ
うか。当時ならば絶世の美女として名を残したかもしれない。
そう思ってすぐにその意見をなかったことにした。
平安の美女にしては細身過ぎる。
「私の顔に何か付いてます?
そんなに熱心に見つめられると照れてしまいますわ」
頬に手を当てて笑う女。
扇子は音をたてて閉じられた。
「あぁ。これは失礼」
目線を逸らし、窓の外を見遣れば故郷の村はすでに見えなくなっていた。
「どちらまで?」
感傷に浸る俺にはお構いなしか。悪態をつこうにも顔を見た瞬間に言葉
が出なくなってしまった。
「……貴女には関係のないことだ」
平静を装って吐きだした言葉に女は細い目をさらに細めた。
「まぁ、冷たいお方だこと」
よくよく考えれば妙な口調で喋る女だ。
今まで生きてきた中では聞いたことのない喋りだな。
少なくとも俺と同郷ではなく、さらに言えば近辺の出身でもなさそうだ。
発音からしてまったく違うのだから。
西の人間だろうか。
身に纏う着物だって今の時代を考えるとやたらと上質なものであるし、な
によりもこんな季節に着物を着ている女の方が珍しい。洋服とやらが入っ
てきて随分と経つのに、この女は着物に身を包んでいる。
古風な女かと思えば化粧は――もう一度顔を見て、俺は口の中に溜まっ
た唾を飲み干した。
「貴女は神社に……」
「神社がどうかなされました? ああ、学生さんは神に興味をもってらして?」
「いや。そういうわけではない……」
「はっきりしませんのね。
いけませんよ、そのような返答では女は焦れてしまいますから」
クスクスと笑う女。
化粧と着物とその姿と。
俺はずいぶんと前によく似た絵を見たことがある気がした。
西に行くと言っていた仲間が持っていた絵。坊主が持っていたらしい絵を
見て、それで西に興味が出たと。こんな東北の田舎で大人しくしてる理由が
見つからないと故郷を出て行った仲間の姿が思い浮かぶ。
あれ以来、俺はあれと会っていない。
「学生さん、お名前だけでも教えてくれません?
私、暇で仕方ありませんの」
口元を隠して笑う女。
薄紅色の扇子はやはり高価なものだった。歩く身代金のような女だと思った。
どこぞの令嬢かと考えそうになるが人間のそういった階級はいまいち理解
できないのだ。毎日必死に働いてる人間と日々宴を繰り返す人間との間に
生じる差は未だに理解できない。
俺は比較的裕福だと思っていたが、女を見ていると酷く貧しいようにも思
える。
「学生さん? さあさ、教えてくださいな」
しつこい。
「……コウ」
「あらあら」
女の笑みが深くなった。
見事な紫苑に染まった着物が揺れ、列車の外で暗くなる。トンネルに入っ
たか、長いこと乗っていると風景の違いにすら気付かなくなってくる。
闇の中で女は笑んだまま、
「嘘はよくありませんよ。
私は本当の名を教えて欲しいのですから」
「俺は嘘をついた覚えはないが?」
「あらあら。またまた面白いことを」
何が楽しいか笑っている。
「学生服を着ているだけでも面白いのに。
私を笑い死にさせる気ですか?」
「学生が学生服を着るのは道理だろう」
なんて物言いだ。
俺が学生らしくないとでもいうか。
「学生生活に未練がおありで?」
「未練も何も俺は現役の学生だが」
「またまた……うふふ」
細い目がさらに細められて笑う。
狐のような笑い顔。狐のような顔。
そろそろ見飽きた顔から扇子へと目線をずらす。
おかしな女に関わっているとこちらまでおかしくなる。
気付けばトンネルを抜け、見たことのない風景が窓の外に広がっていた。
青々と茂る草原も田んぼも、平和そうなのどかな光景も、何もかもが故郷
と違う。
だがそんな風景も悪くない。
ここが新しい住処と考えると不思議と胸が躍った。
あれも同じ気持ちだったろうか。
「学生さん」
人が新生活を想い、さらには故郷を懐かしんでいるときに空気の読めない
女だ。顔を向けて言葉を吐きだす前に女は、
「学生さんはどちらへ行きますの?」
同じ質問を繰り返した。
声は鈴のように軽く、澄んでいる。
くだらない。
無視しようと窓の外へと目をやった。
一つ、二つ。視界を過ぎていく鳥居。それを見て一つ思い付いた。
「貴女こそどちらへ? 京都には狐を祭る神社があるが、そちらへか?」
狐に似ている女を狐扱い。
侮辱されたと女が怒り出せば面白い。俺を苛立たせた報いだ。
礼儀があろうとなかろうと関係ない。面白いからな。
「まあ」
細い目を見開いた。
腹を立てたかと思って、にたりと笑ってしまった。
だが女は俺の予想を裏切るように笑い出した。それも声を上げて。
しとやかに微笑んでいた顔と、扇子で隠した口元が揺れる。今にも腹を
抱えて笑い出すのではないかという笑いっぷりは何か不気味なものを感
じた。奇妙な違和感と呼ぶべきか、今までの女の姿が一気に崩れて行く。
まるで化かされていたかのように。
「お望みであれば、連れて参りましょうか」
笑い声が止む。
「俺を巻き込むな。貴女一人で行けばいい」
「なりませぬよ」
おかしい。
本能が叫んでいる。
窓の外では似たような風景が繰り返し、繰り返し過ぎ去っては近づいて
行く。赤い鳥居が何度も何度も視界の隅を往復する。女は笑みを浮かべ
ているのに、声だけが笑っていない。
「困ったお方。今のご時世、私も随分と暇にはなりましたが……列車に長
く揺られるのは好きではありませんの。やはり足を持つのならば自らの足
で大地を踏みしめねば」
小さく溜息をつく。
「ならば次の駅で降りるがいい」
近づく駅の姿に俺は思わず吐き捨てた。
「次?」
女が首を傾げた。
「次、とはいつ来やりましょう?」
薄紅の扇子が女の膝に置かれる。真っ赤な唇の間から白い歯が見えた。
やたらと尖った犬歯がある。ここまで狐のような顔立ちでなくとも。
一重の細い目が俺を凝視している。生きた心地がしない目だ、今にも喰
らいついて来そうな雰囲気すらある。
「私と学生さんはいつまで列車に揺られましょうか」
狐のような顔に浮かんだ笑みは途絶えることがない。
俺は息を呑んだ。
しまった。
いつからだ。いつから。
変わらない風景に疑問を持つべきであった。
トンネルの闇の向こうに広がる景色を疑うべきだった。
冷たい汗が背中を這う中、女はしなやかな動きで手を振り上げた。
紫苑の着物の袖が揺れる。しゃらりと音が聞こえたのは鈴の音か。
「異国よりいらしたお方。
帝都に憑くことは気にしませぬが、私の故郷にはいることは赦しませぬ」
扇子が開いた。
薄紅の世界に描かれるのは龍。それと白と黒、世界の陰陽の理を描く太
極図。随分と昔に聞いた陰陽道というものだろう。まさかこんなところでお目
にかかるとは思わなかった。
まさか。
「貴女は何を」
「白々しい演技は終わりになさいませ。
ここは龍神に守られし都。龍の怒りに触れぬうちに立ち去りなさいな」
笑みを浮かべた女。
背後で揺らめくのは金色。
九つの金色が揺れる。
見紛うものか。この姿を間違えるものか。
「まさか本当に狐だったとは」
「えぇ。私は狐、この九尾に屠られるのをお望みでしたか?」
「はは、ははは! それは御免被りたいが――」
とんだ列車だ。
黄泉への片道切符を手に入れてしまったのか俺は。
揺れる九つの尾を見遣る。
目的地に着くことのない地獄への直通列車が揺れた。
「いくら九尾がいようとも、帝都に入り込んだすべての妖を相手にできるか?
例え龍神とていずれは滅ぶ。この国は最早神族を敬いはせぬ」
「詮無きこと」
女は笑った。
扇子が舞う。九つの尾が舞う。
迷いを知らない女狐の爪先が俺を引き裂くのを感じた。
逃げればよかったではないか。
――逃げ切れぬか。
狐に魅入られて逃げ切れる男がいるはずもない。
故郷とよく似た風が俺を包む。
時間も音も色もない地獄へと堕ちるのが分かった。
列車がまた動き出す。
俺を置いてどこかへと動き出す。
「ああ。お前もここにいたのか」
有象無象の仲間。
鬼に食われた姿でようやく再会か。
酷く最低な気分だが最高だった。
帝都よりよっぽど居心地がいい。
故郷より居心地がいい。
やはり地獄が居場所に最適だ。
赤い鬼が青い鬼が俺を喰らう。
終わりは悪くない。
あの女狐を道連れにできていたらもっと良かった。
腹立たしい女。
知っているか。一目惚れという言葉を。
神に近い貴女は知らないだろうが。
遠ざかる列車の中で女は美しく微笑んだ。
「迷い子は捨てるほどいますので。
またお仲間をそちらへ送り届けますよ、迷い子の学生さん」
どちらへ行きますの?
京都へ?
それは奇遇、私もご一緒なのです。
同じ列車に乗ったご縁。
道に迷うことないよう、手を引きましょう。
遠慮なさらずに。
私はとても暇なのです。
えぇ……京都に着くまでは、お相手いたしますわ。