深い、深い闇の夜。

 それと同じ色をした髪。同じ色の瞳。肌は透けるほど白い。

 電柱に背中を預けて佇んでいる。

 ――誰? と聞くのもバカらしく、ただ一言呟いた。

 

「ヒトの家の前で何してるの?」

 

 ソレは――青年は穏やかに微笑むと、真っ赤な唇を三日月の形に歪めた。

とても、キレイな笑みだったことを覚えている。

 闇夜に鴉が一羽、飛び立つ。

 声が聞こえた。

 とてもキレイな声。ヒトの発するものとは思えないような――それだけで、芸

術品のように感じた。

 黒い手袋をはめた手が頬に触れる。

 耳元で囁かれる言の葉。

「――お前に会いにきた」

 たかだか一言。されど、一言。

 その一言が心臓を動かす。部活帰りで疲れた顔に赤みを帯びさせる。

「ナンパ……?」

 小さく問うたその言葉に青年は答える。

「そう――思ってくれていいよ。傍にいたいんだよ」

 

――俺にその命を頂戴――

 

 囁いたのは悪魔か――

 囁いたのはだれか――

 

 

 

 目を覚ました少女――久遠 鏡花は、枕元に置いた目覚まし時計へと手を

伸ばして時間を確認する。短針が指しているのは六の数字、本来起きる時

間より若干早い。

「……まぁ、いっか。朝練行こ」

 ボサボサになった髪を手で梳きながら立ち上がる。くるりと部屋を見回せ

ば、何一つとして変わった所はないはずだというのに、一角だけ違和感を感じる。

 久遠の半分寝ているかのような眼差しが、その一点を見詰める。白い棚

に置かれた場違いな――アンティークなデザインの黒い手鏡。それは白と

薄い桃色で統一された室内には不似合いであり、同時に滑稽でもあった。

 その手鏡へと手を伸ばして久遠は、にへらと笑みを浮かべる。

「ふふ。初めて男の人にプレゼントもらっちゃった」

 嬉しそうに手鏡を頬に寄せる。磨かれた鏡に映るのは笑みを浮かべてい

る久遠。その幸せに満ちた表情は年相応の少女のものであり、昨晩の疲れ

きった顔とは別人に思えた。

 黒い、黒い、手鏡。

 どこまでも真実を映す鏡面を包むのは、黒い死神のフレーム。頭蓋の仮面

をかぶったフードの骸骨と、大鎌が持ち主の首狙っているかのようにすら見えた。

 それても久遠はその鏡を愛しそうに抱き締めて、通学カバンの中へとしまいこむ。

「キレイな人だったな。――あ、名前……聞きそびれちゃった。けど、また会えるよね」

 手早く制服へと着替えて髪を整える。

 スカート丈は生徒の平均である、ヒザよりやや上。靴下は学校指定の紺色

のもの。黒い髪と適度に整えられた前髪、化粧ッ気のない顔。顔立ちは悪く

はないが十人並みといったところだろう。

 教師受けはいいが、同い年からは――

「また、会えるよね……ふふ」

 鞄を肩にかけて、歩き出す。

 外は快晴。やけに太陽がまぶしい日だった――

 

 

「久遠さん、好きです。付き合ってください」

 

 突然の言葉に久遠は握っていたラケットを取り落とした。カラン、という渇い

た音に部員たちの視線が集まる。その原因となった同じクラスの男子生徒―

―久遠自身は一度も話したことのない、写真部に所属しているらしい、やたら

と長い前髪が特徴的な――水城 腭は顔を真っ赤にして俯いた。

「久遠、どうするのー?」

 練習相手になってもらっていた先輩が笑う。

 久遠は最近では珍しくない、はっきりとした二重を見開いた。

「どうするの――って!! 先輩!!!」

「あはは〜あたし、他の子と練習してるからごゆっくりぃー」

 手をヒラヒラと振って背中を向けてしまった先輩を恨めしそうに見つつ、体の

向きを変えた。身長差はあまりない、水城はソワソワとせわしなく動きながら久

遠の返答を待っていた。

「えーと……ね」

 久遠は取り落としたラケットを拾いながら、どこか遠くを見た目でポツリポツリ

と喋り始めた。

「水城くん、そういう気持ちは嬉しいけど……私ね……そのーえーと、付き合う、

とかできないから」

「どうしてですか?」

 まっすぐに、水城の目が向く。ここまで真剣な姿は初めて見た。けれど久遠の

気持ちは揺らぐことなく、彼女はハッキリと告げた。

「好きな人、いるし」

「誰? 誰、その人」

 やたらと食いついてくる水城。その態度に生理的な嫌悪を感じたのか、久遠は

嫌そうな顔を浮かべるときびすを返した。部員たちの集まっている場所へと歩き

始める。

「誰ですか、誰なんですか!!」

 しつこく食い下がってくる水城。

 部員たちがクスクスと笑い声をあげている。

「……誰でもいいでしょう!!!」

 一喝。張り上げられたその声に水城が黙り込む。

「それじゃ。私――練習あるから」

 キッパリと斬り捨てて、部員たちの近くへと駆け寄る久遠。その背中を見詰め

る水城が、何を呟いているかも知らずに――――

 

 

 闇夜。星々と月しか見えない夜空の下で彼は待っていた。

 昨晩と同じように電柱に背中を預けて、どこか楽しそうに笑っていた。

「待っててくれたの?」

 久遠の言葉に青年はコクリと頷く。黒で統一された服は、決して流行にのって

いるというわけではなく、むしろそういった世俗には興味がないのだとすら思わ

せた。しかし、整いすぎた外見ゆえに、そういったものは関係なく見えてしまう。

 久遠は息を呑んだ。

「あ、鏡。ありがとう……大事にしてる」

「嬉しいよ。プレゼントしてよかった」

 ニッコリと笑う青年。赤い唇から覗く、きれいに並んだ歯列は歯ブラシのCMを

髣髴させる。

 久遠は視線を彷徨わせながら、唇を軽く尖らせた。

「な、名前……聞いてもいい?」

 少し上擦った声に青年は笑みを浮かべた。黒い衣服に包まれた躯は細くも、

しなやかで幻想の物語に登場する人物を彷彿させ、現実味を感じさせなかった。

 けれど、頬に触れる手袋越しの体温は本物で、久遠の心臓が跳ねるのも事

実であった。

「聞きたい? 俺の名前――」

 鼻の頭がぶつかり合うような距離で囁かれる。漆黒の瞳がまっすぐに見つめている。

 心臓が破裂すると思った。

「う、うん……聞きたい」

 頬を朱に染めて答える久遠に青年は鮮やかな微笑を浮かべて見せた。

「お前になら……いいよ」

 低く囁かれて、気が遠のくかと思った。

 

 ずいぶんと長い時間喋った気がする。窓辺に置かれた、黒い髪飾り。それは

簪のようでもあり、長い針のようにも見えた。それを手にとって月に翳せば、先

ほどの逢瀬が脳裏に蘇る。

 触れられた肩が、頬が熱を帯びて胸が苦しくなる。

 ――クラスメイトと話し合うような恋の話。自分には関係ないと思っていた出

来事がすぐ傍にあり、すぐ近くで感じられる。胸の痛みに嬉しさのようなものを

覚えながら、久遠はベッドへと潜り込んだ。

 いい夢が見られそう――そう思ったのは根拠のない願望などではなく、満た

されきった心の生み出すある種の未来予測のようなものだったのかもしれない。

 

 

 目覚ましが鳴り響く。

 今日は少しだけ躯がだるい。夜風に当たりすぎたのかもしれない。夏が終わっ

たばかりとはいえど、夜半はやはり寒い。風邪を引いたのだろうと久遠はあまり

気にせずに、昨晩貰った漆黒の髪飾りをつける。

「……――か」

 その唇が名前を呟く。夜の闇にまぎれてしまいそうな低い声で囁かれた彼の名

前。一晩経った今でも鮮明に覚えている。久遠は夢心地な表情を浮かべたまま

制服に着替えた。

「いってきま――」

 扉を空けた向こうにいるのが彼ならば幸せだった――しかし現実は。

「あ、久遠さん。お、おはよう」

「なんで……いるの?」

 ドアの前で待ち伏せていたのは水城。丁寧に住所まで調べたらしい――最近

は連絡網にも住所を載せないことのほうが多いというのに、親の名前から電話

帳を使って調べたのだろう。

 久遠は寒気がした。

「一緒に学校行こうと思って」

「なんで?」

「なんでって……好きだから」

「断ったはずだけど」

 もじもじと動く水城。それとは裏腹に久遠の声は冷めていく。

 あの青年はあんなにもキレイだというのに、目の前のクラスメイトの醜いこと――

「帰ってよ。私はあんたと学校行く気なんてないから。帰って」

 冷たく言い捨てる久遠。その言葉に水城は泣きそうな顔を浮かべた。

「待って! せっかくここまで来たんだから! 一緒に……ほら、学校に行きたく

ないなら一緒にサボってあげるから!」

「余計なお世話よ!」

 思い切りドアを閉める。

 外でドアを叩いている水城の声が泣き声へと変わっていくのが分かる。久遠は

耳を塞いで、背中を向けた。母が何かを言っていた気がするが、なんて答えたの

かも覚えていない。

 ――気持ち悪い。

 ただ、そればかりだった。

 早く夜が来ればいい――そんなことを考えながら久遠は手鏡を抱き締めた。口

の中で、あの青年の名前を呟いて。

 

 

 

 月が満ちる。真紅の月が窓から見えた頃、久遠は部屋から出た。

 冷たい空気が頬を撫ぜ、身震いをしたが上着を羽織っている分、昨夜よりは寒くない。

「あ――」

 電柱に背を預けて佇んでいる影が見える。

 久遠は手を振った。満面の笑みを浮かべて駆け寄る。

「会いたかっ――!!?」

 吐き出した言葉を途中で止める。その顔に浮かぶのは驚愕、思わず手に持っ

ていた缶ジュースを取り落としてしまうほどの衝撃だった。

「ぼくも会いたかったよ、鏡花……」

「なんで……なんで……」

 思わず、あとずさる。しかし電柱に背中を預けていた人物は、その距離を縮め

ようと迫ってくる。

「当然じゃないか。恋人同士だろう、ぼくたち……」

 はぁ、はぁ。と嫌な呼吸をしている。

 その双眸はすでに正気とは思えず、久遠は命の危険と――別の危険性を察知

した。伸びてくる腕を叩いて、叫ぶ。

「さっさと帰りなさいよ!!」

「そんな冷たいこと言わないでよ……ぼくたちの仲じゃないか。照れ屋だなぁ、鏡花は」

 名前で呼ばれることがこんなにも気持ち悪かったことはない。

「水城……私、言ったわよねぇ……! 好きな人がいるって!」

 その言葉に双眸を充血させ、正気の沙汰ではないような顔をした水城が笑う。

生理的に受け付けないような気味の悪い笑みだった。

「ぼくのことでしょ? 鏡花は恥ずかしがりやだから……ぼく、怒ってないから。素

直になりなよ」

「そんなわけないでしょ!! 頭おかしいんじゃないの?!」

 逃げるようにあとずさりながら距離を広げようとする久遠。しかし水城は確実そ

の距離を縮めていた。嫌な吐息がやけに近くに感じる。

「鏡花、大好きだよ。アイシテル……アイシテル……」

 壁際に追い詰められ、とうとう肩を掴まれる。息を呑む久遠の視界に入るのは

カッターナイフ。限界まで刃を出したソレは電灯の灯りを反射して、嫌な光りかた

をしていた。よく見れば、何を切ったのか血がこびり付いている。

「血の一滴まで、ぼくたちは一つになれるんだよ……鏡花、一つになろう」

 狂ってる。

 そう思った――気付いたのが遅かった。

 久遠は双眸を見開いて、絶叫をあげた。

 

「――おい」

 闇が、ざわめく。

 闇が、うごめく。

 

「久遠 鏡花は忠告したはずだ」

 低く、美しい声。ただの言葉であるはずのそのセリフは、美しい旋律となって響

き渡る。

 聞き慣れない、しかしすべての人々を魅了するかのような竪琴の音色が聞こえ

始める。その双方が干渉し合い、一つの楽曲となる。

 その旋律の中心にいる青年は漆黒の髪を揺らしながら。その夜の闇よりもなお深

い双眸に怒りを浮かべていた。

「な、なんだよ。お前は!!!」

 叫び散らす水城を見下して青年は笑う。真っ赤な唇が三日月の形になり――

「俺か? 俺はな――」

 漆黒の翼が広がる。

「俺はオルフェウス、久遠 鏡花の命を貰いに来た死神だ」

 久遠の腕を掴んでいた水城の腕が、不自然な方向へと曲がる。その激痛に気付

くよりも前に、青年は――オルフェウスは漆黒の翼を羽ばたかせた。

「俺は俺のものを横から奪うやつが嫌いなんだ……ずっと昔からな」

 闇が騒いだ。

 水城の姿が闇の中に掻き消える。

「き、きょう、きょうがあぁぁああああぁぁあああぁああ!!!」

 どこから聞こえたか分からない絶叫。まるで最初から何もいなかったかのようにす

ら感じられる、静かな路上。久遠はゆっくりと体を起こした。

 その視線の先には漆黒の翼とを生やしたオルフェウス――恋焦がれた青年の姿があった。

「オルフェウスは私も殺すの?」

 返事はない。

 久遠は息を吸って、胸を落ち着かせるようにしてからオルフェウスの背中に抱きついた。

「助けてくれてありがとう……ちょっと恐いけど、オルフェウスになら殺されてもいい」

「久遠、鏡花……」

 ゆっくりと、オルフェウスが口を開いた。

 覚悟を決めたかのように目を閉じて、額をオルフェウスの背中に当てる。

「勘違いするな、俺はお前の傍にいたいって言ったはずだよ」

「オル――フェウス……?」

 竪琴の音色が響き渡る。その唇から紡ぎだされるのは愛の歌。

 ――闇夜の響く愛の歌。それは愛しい人にだけ送る小夜曲。

 言葉ではなく歌で告げられる想い。

 久遠は何も言わず、ただ静かに目を閉じた。

 

 

 

 朝が来る。

 オルフェウスは姿を消して、再び一日が始まる。

「いってきまーす」

 家を出た久遠の視界にバラバラになった人形が入る。

 特に何を思うわけでもなく走っていく久遠。

 バラバラになった人形を拾い上げるのは――

 

「代わりにお前の魂でいい。噛ませ犬……とでもいったか? 役に立ったようだな、人間」

 

 朝陽の中で闇が嘲笑った。