金魚一匹、哀れに跳ねる。

 息を求めて、無様に跳ねる。

 その姿は――僕と重なって。

 

 

 

 この闇の向こうに響く祭囃子は残酷なまでに騒々しく、彼のここへと響いていく。

暗い室内に篭って何かを考える、十代前半と思える少年は夏であるというのに不

自然なまでに渇いた唇を震わせて、声にならない声で言葉を紡ぐ。

 僅かに開かれた唇がひび割れ、血を滲ませる。

 その痛みに若干引きつった顔を伏せ、彼は再び何も言わなくなる。

 外ではドアを叩く声、怒声、罵声、母の声が響いていた。

 それすらも聞こえぬように、少年は俯いて、ヒザを抱えたまま動こうとしない。

 賑やかな祭囃子が聞こえる。

 残酷な祭囃子が聞こえる。

 ふと、少年は顔をあげた。

 

「……金魚……」

 

 夏祭りですくった金魚はどうした。

 夏祭りはどうした。

 あの日と変わらぬ夏祭り。あの日のままの夏祭り。

 何が変わった。

 少年はしばらく光を見ていなかった瞳を瞠目し、枯れ枝のようになった自らの腕

を青いカーテンへと伸ばした。シャラリ、という音と共に金具が動いて、窓の外が

見える。

 サイレンと、よく似た光。

 アリの大群のような人々の群れ。

 少年は立ち上がる。

 しばらく立ち上がることもなかった足が震えたが、それを堪えようと歯を食い縛

ると鉄の味が広がった。ドレくらいの間、この部屋に閉じこもっていたのだろう。

「……いかなきゃ……呼んでる……」

 ふらり、とよろめいて。

 それでも少年は歩き出した。ドアを開けて、怒鳴る母を押し退けて。

 一目散に歩く。少しずつ、速度を上げて――

 家を出る頃には、少年は走れるまでになっていた。

 まるで、つい先ほどまで外を走っていたかのように。

 

 

「待ってたんだよ、悠くん」

 赤い生地に、金魚の模様。

 慣れ親しんだ模様の浴衣をまとう少女に、少年は微笑みかける。乾いた唇は

ほどよく湿って、裂傷などどこにも見られなかった。

「お待たせ、繭」

 ニッコリと微笑んで、手を差し出す。その手はほどよく引き締まり、何らかのス

ポーツをたしなんでいるものの手だった。

「最初にカキ氷食べていい?」

 首をかしげて聞く繭に悠は穏やかに微笑んだ。愛でるように見、

「いいよ。僕も食べたいから」

 とても優しい口調で返した。

「やった。ありがと」

 心底嬉しそうに笑う繭の数多を撫でて、二人は寄り添って歩く。人ごみの中を

はぐれないように手を繋いで、まるで恋人同士のように――

 

 ――金魚が跳ねる――

 

 ふいに聞こえた水の跳ねる音。

「………?」

「あ、金魚すくいだ!」

 振り返れば、金魚すくいの屋台で金魚が泳いでいた。夥しい数の金魚はまる

で、何かに急かされるようにして泳いでいる。

 それらを眺めていると、屋台の主である老婆が人の良さそうな笑みを浮かべ、

手招きをした。

「やってきー、一回二百円だよ」

「やすーい。普通四百円とかするよね?」

 いつのまにカキ氷を買ったのか、繭は毒々しいまでの青いシロップがかかった

カキ氷を美味しそうに頬張りながら、金魚すくいの屋台へと駆けていった。

 その後を追うように走る――ふと、過ぎるは金魚の跳ねる音。

「……なんだ……?」

 一瞬、ほんのまばたき数回分の間だけ、視界がぶれた。壊れたテレビが砂嵐

を映すような――そんな目の前の映像に不安が過ぎる。

 彼はそれを振り切るように、繭の傍らへと走った。

 ランプで照らされた水の中の金魚は赤々としており、水に溶けていく血を思い

出させる――待て。

「………」

 悠は眉間にシワを寄せ、黙り込んだ。

 水に溶けていく血――何処で見た?

 頭を抱えて考え込みたくなるほど、引っかかる。

「悠くん。やらないの?」

 声に驚いて顔をあげると、繭はすでに金を払った後だったらしく、手にアミを持

っていた。

「あ……あぁ、やるよ。うん」

 財布から二百円を取り出し、老婆の手へと置く。

 代わりに渡されたアミは妙な重さだった――こんなに重かったか、と考えながら

も彼は椀を片手に、はしゃぐ繭を傍らに、金魚の泳ぐ水槽の前へとしゃがみ込んだ。

「金魚って素早いよねー」

「必死なんだよ。捕まったら食われる、とか思ってるのかもしれないし……」

 

 ――ツカマッタラ……クワレル?――

 

「……!!」

 悠は瞠目した。

 息を呑んで、アミを取り落とす。揺れる水面に必死で逃げる金魚。

「……な、なぁ……繭?」

 振り返らないまま、彼は背後で金魚すくいを続けている繭へと問う。

「なぁに?」

「今、平成何年だ?」

 笑う声がする。

「悠くんってば、面白いこと聞くのね」

 祭囃子が響く。

 人々のざわめきも響く。

 けれど――

「今年は……」

 どうして、どこにも人がいない?

「平成十五年でしょ?」

 どうして、声しか聞こえてこない?

「疲れちゃった?」

 先ほどまでは気付かなかった。

 どうして、触れる手は――繭の手は、氷のように冷たい?

「繭……」

 振り返ろうと、思った。

 だけど、全身がそれを拒否する。まるで脳が何かを知っているかのように、悠の

意思を無視して躯を強張らせる。

 動けない悠を背中から抱き締める繭。

 背中に当たる胸の膨らみに鼓動は早くなることなどなく、だたただ鳥肌が立った。

「気付いちゃった……? 今年も」

 低い、くぐもった、声。

 いつの間にか握っていた金魚の入った袋が滑り落ちる。

 弾ける音、それと同時に金魚の跳ねる音が――

「そろそろ、一緒にいこう……?

 今年は、決意して来てくれたのと思ったのにぃ……」

 

――……逝カナキャ……呼ンデル……――

 

「祭囃子に消えた過去を追い求めて来たんでしょう……? ねぇ……

 かわいい、私だけの悠くん……私の、はじめての………恋人」

 くぐもった声。

 こんな声ではない。

 彼女は、繭は――

「悠くんを……外に連れ出した……私を、愛してる……って、言ったじゃなぁ……い」

 優しい声の人。

 友達も作らずに一人でいる自分を外の世界へと連れ出した、明るい人。

 憧れていた、いつの間にか愛していた。

 だから――想いを告げ、返してくれた彼女を守ろうと思った。

「淋しいのぉ……ずっ、と……独りでぇ……」

 金魚の跳ねる音。

 悲鳴。

 水の跳ねる音。

 悲鳴。

 雨の音。

 悲鳴。

 この手は何も守れなかった。

「ま、ゆ……?」

 振り返って、その姿を――

「助けて……って……言ったのにぃ………」

 ドロと、血と――忌々しい、記憶の残骸。必死で忘れようとして捕えられた。

 金魚模様の浴衣は乱れて、血がついていた。ドロ水が染み込んだ生地は二度と

元の鮮やかな赤に戻ることはなく、消えてしまった。

「でもぉ……恨んでぇ……なぁい……からぁ……」

 絡み付く腕。

 骨が折れているのか、だらしなくぶら下がった肘から先には擦り傷が目立っていた。

 至近距離にまで近づけられる顔。殴られた痕と、青臭い臭い――彼の守れなかっ

たもの。罪の証。

「一緒にぃ……きて……くれるの………よねぇ」

 生きたものではない、その形相。土の匂いがする彼女を抱き締めることもできずに

震えている両手は枯れ枝へと戻り、足が闇に閉ざされた部屋を求める。

 逃げようとする彼を力一杯に抱き締め、繭はくぐもった声で叫ぶように告げた。

「今年は……今年は……私を独りにしないのよねぇ?! もう、もぉう……!!」

 繭が目を見開けば、腐った眼球が落ちる。

 もう、元の顔の面影すらない。ゲームに出てくるゾンビにしか見えない。

「逃がさない……逃がさないいぃぃぃぃぃ!!!!」

 頭の奥へと響く声。

 逃げたいという本心と、もう一つ――

「ごめ……ん……ごめん、繭……臆病な、僕で……」

 ひび割れた唇に血が滲む。口の中に広がる鉄の味。

 必死で紡いだ言葉は彼女に届いたのか、繭は動きを止めて考え込むように俯いた。

「悠くん……は、一緒に……来てくれない……の?」

「いくから……今はまだ、できないけど……いくから」

「……約束、今度は……守ってね――」

 ふわり、と繭の姿が掻き消える。

 その場に座り込み、悠は枯れたと思っていた涙を流した。金魚の跳ねる音が耳から

離れない。悲鳴が、絶叫が、何もかもが離れない。

「お若いの、助けてやろうか」

 老婆の声がした。

「お前の願いを叶えたら、私の願いを叶えてもらおうか」

 声もなく、頷いた。

 なんでもいい。すがりたかった。逃げ続けることしかできない自分が、できないことを

してもらえるのならば、誰でもよかった。

 たとえ、この老婆が悪魔でも――後悔は無かった。

「……お願い、します……」

 老婆が、笑った気がした。

 祭囃子が遠のいていく。金魚の跳ねる音が消える。

 

 音が、消えた。

 

 

 

 テレビのアナウンサーが神妙な顔つきでその日のニュースを読んでいく。

「昨夜――市にある――神社で若者五人が死んでいるのが発見されました。手口は

明らかになってはおらず、何かに噛まれたような傷口から、ワニ等のペットが放置さ

れ、成長したものの仕業のではないかとの声もあがっております」

 女性が、チャンネルを回す。切り替わった画面には違うアナウンサーがワイドショ

ーのような口調で、よくある事件を大げさに告げている。

「数年に渡る引き篭もりの末、自殺したという……悠さんは――」

「嫌なニュースばっかねー」

 女性は吐き捨てるように告げると、振り返る。手には黄色い筒を持って。

「ほーら、ポチーエサだぞー」

 パラパラと降ってくる、色取り取りの粒を泳ぎながら口でキャッチしていく。

 赤い金魚。それは表情などないように見えるというのに――

「お? ポチ、今笑わなかったかー?」

 気のせいではない。

 金魚は笑ったのだろう――入れ替わった運命に。

 

 金魚一匹、哀れに跳ねた。

 息を求めて、無様に跳ねた。

 その姿は――僕と重なった。