僕はあなたを、忘れない。
短冊に書いた願い事。
それは叶うのか、叶わないのか。
今はまだ分からない。
僕は彼女を覚えている。
哀しい瞳の少女を、僕は、まだ、覚えている。
「なんで……干渉してくんの?」
学校の保健室。頭が痛くなるほどの白に囲まれたこの部屋に満ちる
のはアルコールの匂い。それを胸一杯に吸い込んで、彼女は目を細
めた。あまり、目つきはよくない。
光の入らない瞳はすべてを憎んでいるようだった。
何を憎んでいるのかと聞かれれば、答えなんて返せそうにもないが。
「なんで……って、何度もここで会うし…………」
しどろもどろに答える彼の言葉に彼女は染め直した黒髪を揺らしなが
ら、季節はずれの長袖のワイシャツをめくった。白いワイシャツにこびり
付いた赤黒いシミ――その下から覗く、おぞましい傷。
決して活発ではなかった彼でも怪我くらいはしたことがある。
だが、少女のは事故でできた傷なんかではない。故意に自らを傷つけた?
「――っ1」
思わず双眸を見開いた彼を嘲笑うかのように、少女は唇だけで笑ってみせた。
「こういう事、私がここにいる理由はこういうこと」
真っ白な手首に、走る赤い線。
彼女が手首を傾げれば、その口が開いて肉が見える。何本も、何本も引かれ
た深い線は彼女の細い手首の中身をすべて見せようといわんばかりに開いて、
その傷を覆うほどの血液を吐き出す。
白い手首を伝い落ちて、制服のワイシャツを赤く染め上げる。
――吐き気がした。
彼女がこんなことをする理由も知らなければ、知りたいとも思わなかったが、
自分の考えの及ばぬような行為を平然とやってのけ、それどころか他人に見
せびらかすような行為を平気で行う彼女を、彼女のどこかを異常だと思った。
そう――ただ、彼女を異常だと思った。
「ハッ。面白い反応だね」
吐き捨てるかのように告げた彼女は溢れ出た血液をティッシュで拭い、赤く
染まったワイシャツを見て笑っていた。狂気の笑み――どこまでも、嫌悪しか
感じない。
吐き気を堪えながら、彼は口を開く。
どうして会話を続ける必要があったのだろう。喉元まで込み上げた苦い味
に顔を顰めた。
「なんで、そんなことするのさ……」
震えた声は情けなく、彼女が笑うのが分かった。
「聞いてどうする? 私を助けてくれるとでもいうの?」
屈折した言葉。
絶望を宿して、何も欲しがらない言葉。
そうだ何も欲しがっていないからこんなことができるんだ。そんなことを考え
たのが分かったのか、彼女は表情を変えぬまま距離だけを開けた。白い靴下
が見える。薄汚れた上履きも、少しだけ長いスカートのすそも、よく見えた。
ただ彼女の顔だけが見えなくて。
「バカじゃない? 好奇心から聞いて何ができるの?
あんたみたいな人間、虫唾が走るよ。さっさと死ねば?」
本当に笑っているのか分からないような唇の笑み。
口元だけで笑って、彼女は再び溢れる血液をガーゼに染み込ませる。
その横顔には恍惚とした笑みがあり、まるでその行為自体を楽しんでいるよう
にも見えた。
「けど、よくない……よ。そんなこと」
「そんなこと……ね。じゃあ――私は代わりに何をすればいい?」
冷たい声が聞こえる。
冷たい目が見える。
――この引き裂かれそうな心をどうやって繋ぎとめればいい?
問われた言葉はどこまでも冷たくて、どこまでも歪んでいて――そして、どこま
でも純粋だった。理由の知らない死を望む娘に言える言葉は少年になく、ただひ
たすら泣くしかなかった。
哀しくて、恐ろしくて。
同じ人間なのに何が理解できないのだろう。
どうして彼女と出会ってしまったのだろう。
なぜ――聞いてしまったのだろう。
聞かなければこんな感情を抱くこともなかった。こんな悲しい気持ちを知ることも
なかった。ただただ異常な少女と出会ったという記憶を抱え、やがてはそれも手放
して忘れることができたろうに。
ここまで聞いてしまっては。こんな想いを知ってしまっては。
忘れることなんてできない。
後悔の念に圧されて、彼は泣き崩れた。その姿を、少女は見ているだけだった。
滴る血液をワイシャツに染み込ませて、赤いワイシャツをまとって――どこか、哀
しそうな顔をしていた。
一週間、彼は学校に行かなかった。
考えて、考え抜いて。答えは何一つ出なかったから――
それを伝えようと登校した。
何も変わらないかもしれない。
何も変えられないのかもしれない。
それでも、あの悲しい声と言葉に少しでも近づきたくて。
自己満足な形でもいいから彼女のそばにいたくて。
重たい体を引きずるようにして登校した。
「…………え」
保健室に置かれた一通の手紙。
七夕が近いせいか、机の上には作りかけの飾りが放置されていた。
彼の名前が書かれた手紙を読みながら、彼は泣いた。男だから泣かないなん
て言葉はいらない。泣きたいから泣くのだと――泣かせてくれ。懇願するように
彼は額をテーブルにこすりつけた。
チリチリと七夕飾りの鈴が鳴る。
頼むから黙ってくれ。何も聞きたくない、何も、何も、何も。
「どうして……どうして……わからない、なにも。分からないよ……!」
綴られた言葉は日本語のはずなのに。常用される言葉すらも理解できない。
見えない。
見えない。
脳裏に浮かぶのは唇だけで笑う彼女の顔。
本当の表情はどこにあるの。
どこにあったの?
手の中で冷たく存在を主張するのは、血でかかれたその手紙。
短く一言だけ。それは赤く囁かれていた。
“死ぬ。あんたは泣いてくれる?”
「泣くに……きまっ…………」
嗚咽混じりの声で告げて。
今はもういない娘を想った。
何も知らなかった。何も分からなかった。
何かを知りたかった。何かを教えて欲しかった。
何かをあげたかった。何かをもらいたかった。
いつかは二人で並んで笑い会えるような日が来ればいいと思っていた。
それでも彼女は――――――
もういない。
――あの子……先週、帰って来た時に珍しく笑ってたの……――
保健室に訪れた喪服の女性は涙交じりに告げて。
白いハンカチで目元を抑えていた。
――泣いてくれる奴がいた……って……あなたの、ことかしら――
娘の心を繋ぎとめられなかった母は届かない祈りよりも届く礼を口にする。
よく似た顔で笑う。違うのは目まで笑うところ。
いつかはこんな顔をしていたのかもしれない。生きていれば。
――ありがとう……最期でも、あの子を……独りにさせないでくれて――
何を言えばいいのか分からない。
彼は女性の背中を見詰め、何を思い立ったか七夕に使う短冊へと手を伸ば
した。鉛筆で走り書きのように書いて、ベランダに飾ってある小さな笹へと括る。
頬を伝った涙は乾いていた。熱い、頬が熱かった。
涙の後を頬に残し、唇をかみ締めて、情けない顔のまま強い意思を瞳にだけ
込める。吊るした短冊がゆらゆらと揺れていた。
「名前も知らないあの子を、忘れませんように…………」
誰に祈ったのかは分からない。
誰が叶えてくれるのかは知っている。
……忘れたくない……忘れるもんか……!!
頭の中に響く声が叶えてくれる。それが誰の声で、誰の望みであるか。
彼は揺れる短冊を見つめて、もう一度泣いた。