―夕暮れ、鏡を割ろう―
チャイムが鳴る。普段なら喜ばしいその音は今日に限って
は地獄のサイレンになる。机に突っ伏していた彼はクセッ毛
気味の髪を指で直しながら顔をあげて、普段なら見せないよ
うな引きつった笑みを浮かべていた。
「………は、はは………は。やべぇ」
小さく呟いて、後ろからプリントを回収に来たクラスメイトへと
テスト答案を渡す。一瞬、答案を見たクラスメイトの目が信じら
れないものを見るような目でほぼ真っ白に近い状態のテスト答
案を見ていたのは気のせいではないだろう。
「見てんなよ、えっち!!」
恥ずかしさもあるが、それよりも馬鹿にされそうな雰囲気だっ
たのが気に食わない。彼はおどけるようにして声をあげると鞄
を取るためにロッカーへと小走りになった。
「おーい、ヒロー」
聞こえた声に彼は――千尋は振り向いた。
同じ顔したやつが立っている。
「ハルか。ずいぶん早いね」
「ヒロが遅いだけだよ」
はっきりと、返される。正直言って口がいいとはいえない。
同じ顔した弟に言われてヒロは複雑そうな表情を浮かべた。
すでに教室の中のクラスメイトたちは帰宅の準備に取り掛かっ
ており、ロッカーの前で呆然としているヒロは確かに行動が早い
とはいえなかった。引き戸に寄りかかっている、双子の弟――千
晴の少しだけつった目は早くしろと急かしており、彼は少しだけ行
動を素早くした。
「遅い。罰として帰りにジュースおごれよ」
「………兄貴にそういう口のきき方するわけ?」
ヒロの言葉にハルが笑う。無邪気な笑みなどではない――鼻で
笑った。
「双子に兄貴も弟もあるかよ。先に母さんから出てきたってだけのクセに」
嫌味ったらしく言うのはハルの特徴。これでも昔は可愛かったのに。
双子として一緒に育ってきたのだから、その辺の変化の具合はよく分かる。
ヒロは小さく溜息をついてハルの横に並んだ。
「んで、ヒロはテストどうだったのさ?」
「…聞く必要あるのかよ」
ヒロの言葉にハルはやっぱり、と笑った。目元がどことなく嬉しそうだ。
「オレ、 今回も自信あるぜ」
「自慢かよ?」
「もちろん」
胸を張って告げるハル。
「同じ顔でありながら、頭脳はオレの方がずっと優れてるからな?
ヒロにも分けてやりたいくらいだぜ」
「その分、超がつくほど運動音痴なクセに」
明後日の方向を見ていたヒロの言葉にハルは双眸を見開いた。
「煩い! 因数分解も理解できないダメ頭のクセに!」
「なんだと? 逆上がりすらできない運痴のクセに」
二人で睨み合いながら歩く。おそろいのキーホルダーについた鈴がチリ
チリと音を鳴らしているが、二人の険悪な雰囲気に飲まれて消える。
二人を知るクラスメイトたちがまたやっている、とくすくす笑いながら通り
過ぎていく。そのギャラリーたちの声も聞こえないのか二人はなおも口喧
嘩を披露していた。
「おねしょ布団をオレのと取り替えたよな、ヒロは。もちろんバレて大泣き。ダセっ」
「ハルはニンジン食べたくなさに毎回ポケットに突っ込んでたな。バレて大泣き…プッ」
バチバチバチ。そんな音が聞こえてきそうだった。
「隣のお姉ちゃん大好きで、お姉ちゃんの結婚式で大泣きしてたナァ甘えん坊ヒロ」
「大きくなったらクマのぬいぐるみと結婚するだろー? ハルは、キモいよ」
険悪にも程がある。
帰路をいつものように口喧嘩しながら歩く。小学生の頃はよく通っていた駄菓
子屋の前を通り過ぎて、近道と称していた獣道を迂回して、通学路と呼ばれる場所を歩く。
ふいにヒロが口を開く。
「お前、進学校行くってホントか?」
「ヒロだってスポーツメインの高校行くんだろ?」
ふん、とそっぽを向くハル。
「別々かぁ」
それとは逆に冷静に黄昏時の空を仰ぐヒロ。
「ヒロがどーしても、って言うんならヒロのいく学校に行ってやってもいいぜ」
ハルの言葉にヒロは首を小さく左右に振った。黒い髪がゆれる。
「いいよ。ハルは自分の行きたい高校行けばいいじゃん」
「んだよ、そんなにオレと離れ離れがいいのかよ」
ふて腐れたようにそっぽを向いてしまうハルの肩を叩いて、彼は笑った。
「何言ってんだよ。まだ家も部屋も一緒だろ?」
「………それでも一緒にフザける時間が減る。
ヒロいじめてねぇとストレス溜まんだよ」
頬を膨らませている彼の頬を指先で突付きながら、ヒロは楽しそうに笑う。
「家に帰ってからならいくらでも愚痴聞いてやるよ」
「………」
ブツブツと小さな声で何かを言っているように思えたが、なんて言っている
のかまではわからない。ヒロはハルの歩調に合わせて歩いて、彼が前を向
くのを待っていた。
「………に」
「ん?」
「オレより先に彼女作ったらぶっ殺す」
予想外の言葉にヒロは絶句する。
小さく息を吐いて、困ったように笑う。
「大丈夫だよ…俺はモテないから…てか」
ハルより若干早い歩調。自分のペースに戻して彼は双子の弟の前へと回り
込んだ。
「今はハルといるだけでいいよ。気ぃ遣わなくて済むし」
その言葉に、ハルの顔が明るくなる。
「しょーがねえな。兄貴は甘えん坊で」
気が抜けたのか、呼び方が元通りになっている。きっと本人は気付いていな
いのだろう。ヒロは明るく笑う双子の弟の手へと自分の手を重ねると少しだけ
早足で歩き出した。
小さいときからハルの手を引いて歩いていた。
大人になるにつれてそういう時間は減っていくんだろうけど――もう少しだけ。
「ま。オレは大人だから兄貴を甘えさせてやるよ」
「はは。頼むよ」
この、子供な弟の面倒をみさせてよ。
生まれる前から一緒で、ずっと鏡を隔てた場所に二人でいるんだ。
いずれ大人になって、結婚して、二人が別々になるまで。
鏡が割れるまで一緒にいさせて。
それぐらいの我侭はいいでしょ?
「ハル、転ぶなよ」
「ころばねーよ!」
完