―思春期降臨―

 

 思春期なんていらない。

 彼女はそんなことを思いながら上げられない目線を恨んだ。

耳に聞こえる声はからかう男子たちのもの。聞こえる笑い声は

女子たちのもの。どうしてこんな目にあうのかと苛々する頭で考

える。――答えは出そうにもない。

 ただ分かっているのは目の前に立っている友達が困った顔を

しているだろうということ。こんなことになるなら思春期なんていら

ない。彼女は恥ずかしさのあまり火照った顔を手で抑えて、熱く

なった頭でそればかり考えていた。

 

 

「南方、図書室寄ってく?」

 下校より少し前、教室の中で騒いでいるクラスメイトと塾や家の

用事でさっさと帰ってしまうクラスメイトで二択に分かれてしまう。

その中で彼女はどちらかというと後者であり、中学受験なんても

のとは縁がないため塾なんてものは遠い雲の向こうの話だった。

 強いて言うならば、図書室で本を借りるのが日課であるため若

干、他の教室で遊んでいるクラスメイトよりかは帰宅が早かった。

「うん。行くけど?」

「じゃあ俺も行く」

 古びたランドセルを背負って、イスから立ち上がる。伸びる背丈

を見上げて彼女は少しだけ頬を膨らませる。

「荒川、背ぇ伸びすぎ」

 黄色い通学帽が見事なまでに似合わない。彼もそれを自覚してい

るのか恥ずかしそうに帽子の黒いゴムを顎へと引っ張りながら、

「俺、男だから当たり前だろ」

「ちょっと前まで私より小さかったくせに」

 小さく呟く南方。その言葉に彼は少しずつ大人に近づこうとしてい

る成長途中の手で軽く、彼女の背中を叩いた。弱々しい音が聞こえ

て南方が少しだけ顔を顰める。

「いったーい。もう、私一人で図書室いくからー」

「あ、ごめん。ごめんってば」

 素早くランドセルを背負って走り出す南方の後ろを、慌てて荒川が

追いかける。その姿自体は決して珍しいものなんかではなく、日常風

景の一つでしかなかった。

 ただ違ったのは――

「南方と荒川って仲いいよなー。つきあってんのー?」

 男子も女子も、ともに色事に目覚め始める年齢であり、同時に好奇

心旺盛なに時期であったこと。廊下でキャッチボールをしていた一人

男子にそう言われ、触発されたかのようにほかのクラスメイトたちま

で騒ぎ出す。

「違うよ! なんでこんなのと――」

「あーやーしーい」

 否定しても否定してもしつこく食い下がってくるクラスメイト。変な盛り

上がり方をする彼らの様子に思わず顔が熱くなる。そんな感情なんて

一度も感じたことなかったのに。

 これではまるで本当に―――

「おい、いい加減にしろよ!」

 俯いた南方をかばうように前に出た荒川が声を張り上げる。どちらか

というと早熟な彼は他の男子たちりよりも少しだけ早い声変わりを迎え

始めており、掠れた声はとても同い年の子供には感じられなかった。

「つきあってるとか、つきあってないとか、まじでうぜー」

 心底嫌そうな顔をする荒川。先ほどまでの困ったような顔が嘘のようだ。

「なんだよ、キレんなよ」

 多少たりとも怖かったのか、からかっていた男子たちが荒川の周りに群

がってゴマをすり始める。だが彼はそんな友人たちを振り切って南方へと

目を向ける。

「いこ。バカにつきあってても意味ないし」

 差し伸べられる手。

 それを握ることは出来なかったが、南方は前を向いてはにかんだように微笑んだ。

「そうだね。行こうか」

 行き場のない手を呆然と眺めている荒川が歩き出す。ここしばらくで急激

に伸びた身長は彼の服装をガラリと変えさせて、ずいぶんと彼のお兄さん

に似たように思えた。

 二人分の影が伸びる廊下を歩いて、友達に別れを告げて。

 ふと――廊下の張り紙に気がつく。

「もうすぐ学校終わっちゃうね」

「ん、そうだな。南方はどこの学校行くんだっけ」

 どこか上の空な返事。南方は少しゴツくなった自分の手をマジマジと眺めて

いた荒川へと目を向ける。

「私は………学区内の中学校だけど?」

「あーそっか…そうだよな」

 独り言のように呟いて、彼は少しだけ違う方向を向いた。

「中学は学区違うんだよな、俺ら」

 荒川の言葉に南方は両目を見開いた。

「中学別々なの?」

「あぁ………まぁ、中学違っても………遊べるよな?」

 ぎこちなく笑う、荒川の顔をまっすぐに見られなかったのは男子たちの冷や

かしのせいだと、彼女は自分に言い聞かせた。友達の目を見ないで話すなん

て失礼だ。失礼だ。

 それでも胸が痛くなるような感覚は消えてくれない。

 夕陽が彼の顔を紅に染めて――

「わ、わかんないよ。中学校行ったあとの話なんて」

 なぜか、思っていないことを口走ってしまった。

「そうだよな。ごめん」

 クルリと、背中を見せて歩き出す荒川。その少し後ろを歩いて彼女は少し

前に家で聞いた姉の話を思い出していた。思春期だと小馬鹿にした態度の

姉の話を。

 そして思う――気まずくなるなら、思春期なんていらない。子供のままでいい。

 

 

 いつもと違う帰り道。

 会話も続かない、静かな帰り道。

 南方の家の前が通学路な彼は小さな門を開けた、彼女の背中へと言葉を投

げかける。

「南方、あんさ」

 どこか真剣で、どこか照れくさそうな顔。何を言い出すのかまったく予想できな

かった。

「卒業して、中学入ったらさ。

 俺…お前のこと、葵って呼ぶから。お前も永次って呼べよ」

「………はぁ?」

「だからな、俺はお前と…その、な。

 付き合いたいから。あーもう、好きなんだよ! 悪いか!」

 なんでキレられたのかが分からない。けれど彼女は目線を泳がせて、

「恥ずかしいこと言ってないでさっさと帰りなよ」

 上擦った声で告げて、小さくつけたす。

「…えーじ………」

「中学入ってからっつったろ。うん…じゃ、じゃあな。また明日」

 手を振って、歩き出す。ランドセルの似合わない姿が遠く離れていく。

「また明日ねー」

「おうー、またな、あーおーいー」

 自分だってフライングしてるじゃん――と心の底で呟きながら、彼女は彼の姿が見

えなくなるまで見送っていた。

 夕陽の向こうに溶けていくその姿を眺めて、満足そうに。嬉しそうに。

 

 前言撤回、思春期も悪くない。悪くない。