さあさぁ、忘れましょう。
あなたという存在を。
あなたという命の証を。
さあさぁ、忘れましょう。
喰らって殺す肉体だけを抱いて。
さあさぁ、忘れましょう。
冷たいあなたの骸を見つめながら。
蠢く胎を鎮めましょう。
さあさぁ――忘れましょう。
孤独の道を歩む女が一人。
それを自らの運命といい、女は笑うことも怒ることもない。
ただ日々を静かに過ごすだけ。
時折り森に入り込む子供たちを冷えた眼差しで見下ろし、
時に森を抜けようとする大人の胆を抉り喰らう。
唯一の食事の時を女は冷えた眼差しで迎える。
女の覚えた言葉はただ一つ。
「この音を止めてみて」
ドクドク脈打つ胸の奥。
止まるのはいつも他人、動きつづける鼓動に嫌気を感じる。
誰か止めて見せて、誰か終わらせて。
懇願するように腕を広げても、抱くのは冷たい骸ばかり。
永い時間がやがては絶望を孕む。
光の差さぬ暗い森。
木々がもらした一筋の光は、
「美しい花には棘があり、森の奥には魔女がいる。
こんにちはお嬢さん。あなたを攫いにきましたよ」
思わぬ形で森を黒く塗り潰した。
異国の男が一人。
女の手を取り踊りだす。
知らぬ言葉、知らぬ眼差し。
向けられるのは殺意でもなんでもない。
胸の鼓動が早い。
血が滾る。
酷く、喉が乾いた。
男は笑う。
抱き寄せ、髪を撫で、囁いた。
「お嬢さんは変わった特性をもつと聞いて、はるばる南の国
からやってきましたよ」
あなたに会うためだけにきましたよ。
触れる指の熱さ、組み敷かれる悦び。
失われる命の鼓動を感じぬひと時。
渇きが酷くなる一方で、どこかが満たされる。
あぁ、あぁ、あぁ、あぁ。
踊りましょう。
二人で黒の森を。
黒の森を白く塗り潰しましょう。
二人で、二人きりで。
「さて……ではお嬢さん、私の胆を差し上げよう」
腕が導く柔らかい腹。
肉を割いて、血を泳いで、その奥へ。
食べてとせがむ肉片の願いを叶えてあげて。
笑う男の顔を見上げて瞳を震わせる。
男はどこまでも底意地の悪い笑みしか浮かべない。
「お嬢さんは子を産むのに滋養が必要なのでしょう?
私の子を孕んで、私の命によって産んでください。それは
私の生まれ変わりですから。
今の私よりもずっとずっと強い私が生まれる」
食べてくださいと。
食べてくださいと。
食べてと食べてと食べてと。
憎むべきなのはこの体か、それとも――――
命が宿った体で女は佇む。
足元には何も残らないあの男の残骸。
哀しいは感じない。
苦しいも感じない。
ただ胸を支配するは満足感。
宿った命。
それを男は生まれ変わりといった。
自らの命を差し出し、子を孕めといった。
さあさぁ、忘れましょう。
女は嘲笑を浮かべる。
さあさぁ、忘れましょう。
蠢く胎を撫でて。
さあさぁ、
「兄さま……もうすぐ、あなたの子が……ふふふ」
すべて、忘れてしまいましょう。
骨になるそのときまで、この秘密は誰にも言わない。
ずっと生まれない子供の秘密は私だけのもの。
さあさぁ、忘れましょう。
力しか求めない男のことなんて。
忘れましょう。