春の草原で走り回るあなたを見つけた。美しいその顔に笑みを浮か
べる姿は、さながら春の妖精にも感じられ、花の周りを舞うあなたを奪
うことができたらとすら思う。
 金属の檻に閉じ込めて、一日三度の食事を与えるよ。
 陽が沈んだ時は声が枯れるまで交じり合おう。糸引く口付けを交わし、
指を絡ませ、貪りあう。
 疲れて眠るあなたを抱き締め、その頭を優しく撫でてあげるから。
 そんな花よりもいいものをあげるから。
 さぁおいで。
 こちらへおいで。
 愛しい人、可愛い人。
 この手の平で永久に踊りつづけてくださいな。


「いつも同じ時間帯で会うのね」
 昼過ぎの公園に咲き乱れる季節の花。白い柵の中で走り回る姿が近づ
いてきたのは奇跡か、はたまた白昼夢だと思った。白い蝶と黄色い蝶が舞
い踊り、淡い紫苑の花が風に揺れる。
 幻想的な光景。この光景を例えるならば、彼が詩人ならば、ここを楽園と
呼んだだろうか。
 普段から持ち歩いている鞄を抱き締めて名も知らぬ娘を見上げる。大学
の長い昼休みを潰すために訪れる公園、そこで出会ったのは美しい娘。太
陽の下でも自らの輝きを失うことのない、強く清らかな娘。
 この娘と出会ったその瞬間から彼は恋に落ちる。
 一方的な恋が始まり、そして二人を繋ぐ言葉の橋ができてしまった。
 突然のことに男はしどろもどろと自らの手を見下ろした。小刻みに痙攣し
ているのは極度の緊張のためであろう。早く言葉を紡がなくてはいけないの
に、口から漏れるのは気味の悪い呻き声だけ。
 不思議そうに首を傾げる娘の顔をまっすぐに見ることができない。
「あ、あ……」
 顔が熱い。
 息が苦しい。
 背中にジワリと汗が浮かぶのを感じて、男は思わずベンチの背もたれに背
中を押し付けた。汗がティーシャツに染みて張り付く感覚が気持ち悪い。その
感触に顔を顰めそうになるが、男ははたと気付く。
 今現在の自らの姿も、この娘からすれば気持ち悪いもの以外のなんでもな
いのではないかと。
「あのー?」
 伺うように再び口を開く娘。
 男は大きく体を震わせると、勢いをつけて立ち上がった。ひざが笑っている、
こんな姿を大学の知り合いに見せてしまっては、後で何を言われるか分からな
い。運が悪ければそれが原因で気分が悪くなるような噂を流されるかもしれない。
 最悪の事態を想定した男は、無言のまま走り出した――否、娘の顔を一切見
ないように、顔を見せないようにして逃げ出したのだ。
 走りながら男は思考する。
 自らの逃亡する理由を。
「……はっ、は……っ」
 解答など身近な所に転がっている。簡単なことではないかと自嘲するように半
開きになった唇に笑みを浮かべた。そうだ、簡単なことでしかない。
「あの娘だけには……否定されたくない……」
 妖精のように美しい娘。彼女の可憐な唇が自らを口汚く罵るところを見たくな
い、聞きたくない。ならば話せなくてもいい。遠くから眺めているだけで――あの
草原ではしゃぐ彼女見ているだけで満足なのだと、ざわめく心に言い聞かせる。
 胸が苦しいのは、胸が痛いのは、走ったことだけが理由ではないのだろう。
 夏の陽射しが暑い。
 大学の校舎に入ったところで男は足を止めた。
 いつの間にか散っていた桜。
 いつの間にか鳴き始めたセミ。
 ――気付けば世界は夏らしい夏が訪れていた。
 剥き出しの腕に汗が滲む。
 男は無言のまま歩き出した。セミが煩い、同じ授業を選択している女たちの喋
り声が煩い。無駄に露出ばかりをした汚らしい女たち。
 不愉快でしかない。その存在そのものが不愉快でしかない。
 女性というのは、もっと清純であり、慎ましやかであるべきだと男は思う。暑い
からとむやみに肌を露出させるのではなく、暑いからこそ肌を見せぬように、不
穏な輩に狙われないようにするべきだというのに。
 自ら誘い込むようなまねをするとは、この大学の女どもは女と呼ぶのも忌々し
い。ただの雌豚で十分だ、と心の中で毒づく男の脳裏をあの娘が過ぎる。
 思わず口元に笑みがこぼれてしまう。
 女の子らしいデザインの真っ白なボレロは見ていて気分がいい。その下から時
折り覗く白い素肌も、長いスカートの下の素足も、隠されているからこそ余計に美
しいと思える。
 理想の女性とは彼女のことを指すのだ。
「ねぇ、またあいつブツブツ言ってるけど?」
「キモー。なぁに妄想してんだかね」
「アレじゃない? なんとかたん萌えーってやつ」
「うわキモッ!」
「つかアユミ、モノマネ上手すぎ。どんだけぇー? つか実はオタク?」
 ボソボソと数人で固まっている女たちが戯言を呟き始める。
 それらの言葉が耳に入れないようにとイヤホンをつけてホワイトボードの文字を
ルーズリーフへと写していく。単純作業の中でも浮かぶのは、あの娘の笑顔。
 喋りかけてきた時の声と、笑顔。これだけで満足だった。


 ――そう、本当に満足だったんだ。


 心が砕けるとはこれを言うのだろう。
 男は目の前の現実が受け入れられないかのように頭を抱えて蹲った。その間に
もはしゃぐ娘は、見知らぬ男と手を繋いでいつもの草原を二人で散歩している。
 時折り聞こえてくる楽しそうな声が男の脳内へと侵入してくるのは、イヤホンの音
楽では掻き消すことができない。同じ情報がグルグルと脳を廻る。
 明るい笑顔が、少し高い声が、遠目で見ても分かるように施された化粧が、二の
腕や胸元を見せるようなデザインの衣服が――繰り返し繰り返し、脳内で再生され
る。頭がおかしくなるほどに。
「だめじゃないか……だめじゃないか……」
 口の中でブツブツと呟く。けれどもその言葉は娘に届くことはない。
 外へと吐き出されぬ言葉は、胸に沈んで消えていくのがさだめ。
「先輩ってばー」
「ほんとのことだろー? 未幸、今日は気合入ってんじゃん」
「だってーせっかく久しぶりに会えたんですよ? 先輩いつも仕事で忙しいし」
「ごめんって。だから今日は休日丸々、お前に預けたんだろ?」
「うん! 先輩大好きっ」
 聞きたくない。
 聞きたくない言葉の羅列が花々を枯らしていく。
 だめだよ。その花は、その娘は、この公園で舞い踊る妖精は――
「…………彼女は……僕だけのものだよ……そう。僕の……誰にも渡すもんか…
…あぁ」
 プツリと頭の中で何かが切れた音がしたのは幻聴?
 それとも、本当に何かが頭の中で切れてしまっていて、それのせいで頭がいたい
のかな。
暑い夏の陽射しが煩わしい、耳の奥に響く声が邪魔で仕方ない。
 男は鞄を抱えたまま歩き出す。大学に戻るわけでもなく、自宅に戻るわけでもなく。
 普段は足を踏み入れない場所へと向けて歩き出す。
 ブツブツと何かを呟いて。
 脳裏で繰り返すのは、あの娘を犯す自らの姿。
「彼女が悪いんだ……僕を騙すから。彼女が……僕は……見ているだけで……け
ど、彼女が悪い……誘惑するから……僕以外の男を。雌豚たちと同じことをするか
ら……」
 きっと泣き叫ぶ。
 歓喜と恐怖に泣き叫ぶに違いない。
 この手に抱かれる悦びと、経験したことのない行為に怯えて泣くのだろう。
 けれど大丈夫。
 優しく、繊細なガラス細工を扱うように丁寧に触れるから。茂みの奥にある蕾から
大量の蜜か溢れ出ても、全て飲み干してあげるから。
 きめ細かい肌に舌を這わせ、痺れるほどに愛撫してあげる。
 怖いのは最初だけ、
 すぐによくなる。
 二度と離れたくないと思うほどに。
「あぁ……そうか。そうだよね」
 頭の中で喘ぐ娘。
 その髪の一本一本までを征服してしまえば、虜にしてしまえばいい。
 閉じ込めて、夜が訪れるたびに声が出なくなる程に交わって。
 疲れて眠る頭を撫でてやる。
 朝がきたら食事を運んで、昼も食事を運んで。
 鳥かごの中で愛玩されるカナリヤのような生活を与えれば、いつかきっと虜になる。
「そうだ……そして彼女は僕に言うんだ……お願い……もっと、ぐちゃぐちゃにしてっ
て……ふふ、ふふふふふ……」
 あのしなやかな指がかき回す。
 その姿を想像するだけでどうにかなってしまいそうだ。
 男の顔に浮かべられた笑み。
 ここが外でなければ、きつく感じるズボンも下着も脱ぎ捨てたというのに。早く帰
りたい。
 必要なものを揃えて――彼女の住む場所を作るために、早く。
「待っててね……僕の…………ふふ。妖精さん……」




 どれだけ嫌がったフリをしても僕は知ってるよ。
 君が僕のことを本当は愛してること。
 全部見て欲しいんでしょ?
 乱暴でもいいからしたかったんでしょ?
 お仕置をして欲しかったんだよね。
 征服欲を目覚めさせたかったんだよね。
 安心して。
 今、君を攫いに行くから。