歌は素晴らしいものだと姉が言う。
 確かに姉の奏でるハープは静かな月面に響き渡り、素晴らしいものだと思う。だが、人間たちの紡ぐ音が神に敵うとは到底思えない。楽曲だけでもそうだと言うのに、たかだか人間の歌声に何の意味があるというのか。
 遥かな高みから、永き年月を見下ろしていた年若い太陽の神は常々思っていた。
 その好奇心が募り、陽が沈むと同時に――自分の仕事を終え、その足で人間達の街へと降り立った。目立つことないようにと気が遠くなるほどの昔に、神の世界を訪れた人間の姿を借りて。
 最初に驚いたのは喧騒。
 向こうでも煩いところは煩いが、ここまで酷くないとばかりに耳を塞ぐ。
 音楽なんてものではない。
 ただの騒音で街は満ちていた。

「騒々しい所……音だって汚いし」

 思わず口の中で愚痴ってしまった。
 耳障りな音から逃れようと歩き出そうと一歩を踏み出すと同時に、
「あ! 悠くん来てるわよっ」
「うわっ!」
 悲鳴のような歓声のようなものを上げる女に突き飛ばされた。
「おいっ」
 抗議しようにも女は人ごみに紛れて見えなくなってしまった。
 苛立ちのあまり歯を食いしばっていると、喧騒の中に音楽が混ざっていることに気がついた。ただの騒音ではない、確かな音楽が紛れ
ている。
 音のする方向へと目を向ければ、キラキラした建物の前に個性的な衣装をまとった青年が四人。各々の楽器を持って演奏していた。真ん中に立っているのは楽器ではなく、マイクを持っているが。
 そのマイクを持った青年の姿を彼は知っていた。
「……あれは」
 白い花に囲まれ、ハープを奏でていた姉を思いだす。
 姉は何かを語る時は常にハープを奏でる癖がある。その時も目を閉じ、素晴らしい音を奏でながら呟くように告げていた。
 人間にとても美しい歌声をもつ者がいると。
 稀有な才能と資格。神々をも魅了するだろうその者を人間のままにしておくのは惜しい。もしも共に音を奏でたら素晴らしいものが出来上がるだろう。
 どこか熱を帯びた声で告げた姉。その白い頬は軽く赤らんでいるようにも思えた。
 口の中で反芻するように呟いた名前。
「神月……悠……イッ!?」
 あの時の姉のように小さく呟いた刹那、誰かに背中を思いきり叩かれた。叩かれたなんて生ぬるくはない。殴られた、だ。
「だ、誰だっ!」
 痛みに思わず振り向けば、そこには横幅のある女性が三人。
 例え女性が相手だろうと神に手を上げた罪を赦す気はないとばかりに、緑色の双眸を見開く。視界を埋め尽くすほどの巨体が三つ、それを頭が捕えたと同時だった。
「醜い!」
 口が勝手に言葉を吐きだしたのは。
「なんですって! このチビ!」
 赤い服が目に痛い女がヒステリックに叫んだ。
「中学生がこんなところ来てんじゃねーよ」
「悠様を呼び捨てにするとかありえないし」
「ほんとほんと。アタシたちを見習えって話よね」
「キモいからさっさと家帰ってパソコンでオナって寝れば?」
 口汚い言葉で罵られている気がした。
 意味の半分も理解できなかったが。
 人間達の操る言語は把握していたはずだが、いつの間に変わったのだろう。それともこれが神を倒す計画の一つとかいうものなのだろうか。しかし神々を統べる位置にある父は何も言っていなかった。
 ならばこの女たちは選ばれた民族か何かで秘密裏に行動しているのかもしれない。
 頭が混乱し、思わず硬直していると今度は背後から肩に手を置かれた。誰だと振り返るよりも前に耳を劈くほどの甲高い悲鳴。
「悠様!!」
「いやー!! そんなガキに触らないでッ穢れちゃうッ!」
「俺の悠様がァァァ!!」
 やっぱり何を言っているのか理解できない。
 それは周囲の人間達も同じだったらしい。次々に振り返り、時には迷惑そうに顔を歪めていた。
「いつもいつも聞きに来てくれるのは嬉しいけど」
 肩に手を置いた青年は不思議な声を持っていた。
 神の耳にも甘く響く不可思議な声。
「俺は誰のものにもなった覚えはないから」
 甘い声は鉛のように心に沈んだ。
 女たちは絶叫を上げ、そのまま失神してしまう。言われた内容にショックを受けたのか、声自体の刺激によって倒れたのかは分からないが。
 傍で聞いていただけで息を呑んだのだ。
 神ですらこの反応。人間ならばもっと強い刺激になったろう。
「お、おい」
 今度こそ振り返ろうとする。
「なんかいい匂いだなーお前」
 背後から抱きすくめられ、言葉を失う。
「この前、俺んところにきた女の人とそっくりな匂いだな。
 あの人ってお前の知り合い?」
 似た匂い。
 体臭の存在しない神に匂いと口にするとは。向こうの花の香りまで理解できるらしい。随分と人間離れした青年の名前が頭に浮かぶ。
「お前、姉上の言っていた神月……」
 名前を呼ぼうとした唇に人差し指があてがわれた。
「お前らー! 俺、ちょっとこの子と遊んでくるからまた後でなー」
「ちょ、おーいっ。それはまずいだろ悠! 家出少年かもしれないぞ」
「犯罪になるー! 俺らメジャーデビュー遠くなるー!!」
「気にすんな! じゃっ」
 返事なんてお構いなしに青年は駆け出した。その細い体のどこに隠し持っていた力なのか、呆然としていた太陽の神を抱き上げて。
 小柄な少年の姿を借りているとはいえど、まさか軽々と持ち上げられるとは思わなかった。困惑のあまり口をパクパクさせたまま青年の顔を凝視するしかできない。
 神月 悠。姉が気に入っている人間。
 現時点では最も神に近い存在。
 それは甘い声で、
「大人しくしてたらご褒美やるから」
 囁いて微笑んだ。
 姉が気に入るのも無理はない。
 この人間、人間のクセに反則過ぎる魅力を持っている。


「え、神様だったのか。お前とあの女の人」
 上に乗ったままの神月を見上げ、太陽の神はふてくされたような顔をしていた。緑色の双眸には涙が浮かび、あらわになった白い肌には小さなうっ血の痕がいくつもついている。
 まさかこんなことになるとは思わなかった。
「そうだ。だから早く退けっ! 無礼者」
 足で蹴っても蹴っても神月は薄笑みを浮かべたまま微動だりしない。
「人間にしか見えなかったなぁ」
「なにっ! ……本当に無礼な人間だな、お前は!」
 噛み付くように叫ぶ。
「まあまあ。それだけ化ける術とかが上手いってことでいいだろ?」
 ヘラヘラと笑う神月。その手は節操もなく柔らかい太ももに触れ、あろうことかその奥へと伸びた。
「ッ! お、お前はぁぁ!」
「え?」
 緑色の双眸が真っ赤に染まり、サラサラとした金に近い髪が燃える炎のような赤へと変わる。色白の肌も何かの芸術品ではないかと思うような――陶器のような肌とはこれをいうのかもしれない。
 背丈は変わらないが、体つきはこちらの方がやや華奢かもしれない。
 以下にもプライドの高そうな顔をし、変声期前の子供のような声で、
「ボクは太陽神アポロン! 無礼なお前の頭上に太陽を落とすぞっ!」
 キーキー叫んだ。
「…………」
 無言になっている神月。さすがに驚いたのだろうと満足げに笑っていると、彼は信じられないような言葉を吐きだした。
「少しコスって終わろうとか思ってたけど、本当に神様なら記念に最後までやっとこうかな。そんな機会そうそうないだろうし」
 コスるとか最後までの意味が分からない。だが良い意味ではないことは本能的に理解できた。
 プライドが傷つきそうだが逃げよう。このまま留まったら大変なことになる気がする。決心したアポロンはもう一度、神月を怯ませようと口を開いた。
「ボクが本気を出せばお前なんて瞬きする間に骨も残さず焼け死ぬぞ! さぁ、手を離せ!!」
「ん? それはなぁ」
 人間にしては作りの良い顔が近づいた。
 吐息のかかるような距離とはこのことか。
「だーめ。もう少しここにいなさい、アポロン」
 囁かれた。
 そうだった。
 神月の声は神をも魅了する。逃げられるはずもない。
「ま、まさか……お前」
「んー?」
 首筋に顔を埋め、口付けている神月の髪を引っ掴む。
「姉上にもこんなことを……!!」
「してないって。アルテミスにこんなことしたらマズいだろ」
「本当だな?」
 猜疑心から繰り返し問う。
 顔を上げた神月は苦笑を浮かべ、
「俺はウソ吐かない主義なんだよ。アルテミスには何もしてないし、ちょっと喋っただけ。お前とは喋るだけじゃなく色々経験しようとな」
「待て。いらぬ経験はつまないぞ、ボクは!」
「そんなこと言うなって。愛に満ち溢れるぞ、これは」
「ボクは神だぞ! 神に愛なんて……少なくともボクには必要ないッ」
「寂しいこと言うなって。
 ほらアポロン、目を閉じて。開けたままでもいいけど」
 アポロンの言葉すべてを呑み込むかのように口付けた。
 抵抗しようと全力で肩を押しても動かない神月の体。これも彼の声の仕業かと泣きたくなった。
「大丈夫だって。俺はお前の友達になれるんだからな」
 唇が触れ合う寸前で囁かれる。
 大きな手が皮膚を撫でまわし、今まで感じたことのない感覚が体全体を支配していく。
 ビクビクと震える腰を抑え、神月は本当に楽しそうに笑っていた。
「俺はウソを吐かないし、お前の友達だし、お前らの為に頑張れるぞ」
 何を言っているのか分からない。
 太陽を宿した体に自分よりも熱い何かが入り込む。
 酒というものを初めて呑んで熱に魘された日を思いだした。あれよりも熱く、息苦しく、圧迫された内臓が悲鳴を上げる。
 けれど全身を震わせ、喉の奥から甘い声が漏れていく。
 縋るように神月の背へと手を伸ばし、触れる手の熱を求めて泣き叫ぶばかり。
「神月、神月っ、かんづきぃっ!!」
 狂ったように名前を呼んだ。
 他人に触れられたのは初めてだった。
 すべてを焼き尽くす太陽を恐れることのない人間。その背に爪を立て、アポロンは大粒の涙が頬を伝っていくのを感じた。
 その涙へと口付け、彼は甘く囁く。


「ようこそ愛ある世界へ……
 歓迎するよ……アポロン、俺の友達」