――声が聞こえる。 懐かしい声、愛しい声。
 恐ろしい声。
 闇の中で聞こえるのは、いつでもその声ばかり。
 血に包まれて、あの赤い雨を喜んで浴びている姿を思い出す。
――どうした? お前も浴びればいいだろう―― 恍惚とした横顔で告げるのは、自分と瓜二つの顔。 遺伝子なんてものは持ち合わせていない躯ながらも、同じ物を分け合って生まれた存在――同じ騎士である兄の姿を思い浮かべ、黒衣を身に纏った青年は、服と同じ色の長い髪を引っ掴んだ。
「……同じ……声だというのに」
 声質に違いなんてものはない。
 ただ、こめられる意味が違うだけ。
 想うことが違うだけ。
 ただそれだけのはずなのに。
 青年は息を吐いて胸を抑えた。負傷した記憶はないが、自分でも気付かないうちに傷を負っていたのかもしれない――と、服の前を開いて確認する。 人間よりは死に辛いこの肉体。けれど死がないわけではないのだ。
 自分がすべきことを自覚している間は負傷するわけにはいかない。
 人間とは作りの違う体を見下ろした刹那。
「ア……ベル」
「ユーリ!」
 表情の――否、生気の存在しない死人のような顔をした少女――ユーリがドアを開けた。その背後には、アベルと呼ばれた青年とまったく同じ顔をした金髪の青年が底意地の悪い笑みを浮かべて立っている。
「ノックをしろと言ったはずだ」
 厳しい視線でユーリを見据えるが、それを庇うように金髪の青年が口を開いた。
「そうカリカリするな。鍵をかけないお前が悪いのだからな」
 ユーリの長い銀髪に指を絡めながら告げる青年。アベルとの違いは、性格悪そうに細められたオッドアイと髪の色以外存在しない。その顔を睨むように見ていると、ふいに赤とグレイの視線が胸へと向けられたことに気がついた。
「何を見てる――カイン」
 左右対称になった双眸と、髪の色以外に作りは何一つ変わらないというのに。苛立ったような表情を浮かべているアベルとは逆に、カインは酷く楽しそうに笑っていた。
「ふん。負傷した愚弟を看てやる優しい兄心が分からんか?」
「……何を馬鹿げたことを」
 呆れたように告げ、はだけた服を元に戻そうとするアベル。その手を掴むのはニタニタと笑ったままのカインだった。
「何をする!」
「ユーリ。しばらく外で待っていろ」
「…………う、ん……」
 抑揚のない声で答え、そのまま背中を向けるユーリ。長い銀色の髪が揺れて、足音一つたてない少女の姿が視界から消える。
 一瞬の静寂――それは、酷く心苦しいものだと思った。鏡に向かい合ったような気分になると同時に、目前にあるカインの顔が――兄の顔が昔の記憶と混同して、嫌な記憶までもを呼び起こす。 幼い頃、転んで怪我をしたアベルの手をひいて、暗い夜道を先導してくれた兄の背中と、手の感触が過ぎる。それは、遠い昔のもので、二度と取り戻せないものだと知っていた。
 ゆえに彼は、顔を顰めてカインの手を振り払った。
「いつまで――」
「ずいぶんと深い傷のようだな、アベル」
「つっ……!?」
 カインの手が露になっている肌へと触れる。
 傷――という言葉に視線を下ろしてみても、そこにあるのは傷一つない真っ白な皮膚だった。
「傷など……」
「ここまで深ければ、たいそう苦しかっただろう?
 マジメな貴様だからな。気付かないフリで自己を偽っていた……というところか?」
 同じ声――込められる感情の方向が違うだけ。 違いはそれだけだというのに、なぜ――耳に響くこの声は、こんなにも全てを惑わせるのだろう。長い指が皮膚の上を走って、低い声で囁くように言葉を発するだけで、胸の痛みが激しくなる。 この声は、自分よりもずっと血生臭く、闇に満ち溢れているというのに。
「ふざけるな……私は、何も……っ」
「人間らしい反応だな。図星を指摘されて怒る――悦楽を認められぬ貴様は、愉快なほどに人間らしい」
「く、っ……」
 胸の皮膚に唇が滑る。
 抵抗しようにも躯に力が入らない。ヒザから力が抜けることなど激しい戦闘の最中ですら、ありえなかったというのに――カインの手が触れるたびに、存在しない心臓が跳ねる。 痛みに胸が苦しくなり、殆ど必要のない呼吸ができなくなる。
 これを息苦しいというのだろうか。
 アベルは口から漏れそうになる自分らしからぬ声を隠すように、両手で口を抑えた。
「何をしている。
 俺を楽しませろ――人間に染まった愚弟は、いい玩具になるだろうしな」
 壁へと背中を押し付け、口をふさいでいた手を衣服の飾りとしてついていた鎖で縛り上げる。屈辱に歪んだその顔を見て笑うカインは、幼いころの面影など何一つとして残していないようにも思えた。
「カイン……っ!!」
「そうだ、その声だ。
 俺と同一の声でありながら、まったく別の声……ククク……これだ。貴様の存在価値は」
「っ、や――やめろっ……」
 笑い声が聞こえる。
 同じ声のはずなのに――まったく違う。
 声が聞こえる。
 懐かしい声は、いつまでも脳裏で響いているというのに。
 忌まわしい声が離れない。
 笑って、笑って、嘲笑う。
 優しい兄なんてものが幻想に思えるほど――
 意地の悪い声が耳朶を叩く。
 それでも。
 この声から離れることはできないと思った。
 同じ声のはずなのに、違う声。
 自分であるようで――まったく自分ではない声。
 性格の悪い声は、嫌いになれそうにもない。


「愚弟、貴様の存在価値を与えてやったのだからな。
 俺にも与えてくれるのだろう? 愚弟の兄という価値をな」