薔薇を鎖にして、縛ってあげましょう。

 その棘が貴女の肌を傷つけて、血を流すのならば。

 その血を舐めとってあげましょう。

 

 そこにいてください。

 そばにいてください。

 今だけでも、今だけでも。

 

 

「そうですか、次の遠征は――」

 告げた言葉に少女は目を細めた。浮かべられる笑みは戦場では見ることのできない

ような、やわらかいもの。きっと、自分にだけ向けられる無垢な微笑。それを見詰めな

がら、理知的な顔立ちをした青年もまた、穏やかに微笑んだ。

「体に気を付けてくださいね。貴女はすぐに無理をしますから」

 告げられた言葉に少女は肩をすくめた。王には見せないような仕草に胸が躍るが、

それを悟られないように――と顔に笑みを貼り付ける。

 知られてはいけないのだと、言い聞かせるように。

「ネビロス様。私が帰る頃には庭園の花々が違う季節のものになっていると思います。

 ですので、花を添えた手紙をくださいませんか? まだ蕾のままの、この花たちの晴

れ姿を見たいのです」

 窓の外に見える、咲きそうではあるが――まだ、固い蕾のままの花々。それらを見

下ろしている少女へと穏やかな笑みを向けて青年――ネビロスは、手元の分厚い本

を閉じた。

「えぇ。貴女のためでしたら何通でも贈りますよ――何通でも」

「ありがとうございます。このようなことは陛下には頼めませんから――あ、内緒にし

ておいてくださいね」

 肩をすくめて、笑う少女。

 その白い頬を指先で突付いて、

「キルケは本当に魔王陛下が好きなのですね。格好の良い所ばかりを見せようとして」

 ――妬いてしまいますよ。言葉を一つ、呑みこんだ。

 ネビロスの言葉にキルケと呼ばれた少女は、長い漆黒の髪を指先で弄りながら唇

を尖らせた。

「ネビロス様、からかわないでください。私は魔王陛下を敬愛しているだけです。それ

に、ネビロス様の傍にいると安心してしまうので、我侭も言ってしまうのかもしれません」

 一見、距離の近い言葉。

 それでも――

 ネビロスは目を細めた。唇から消えた笑みを隠すように、再び分厚い本の表紙をめ

くる。

 持ち上げ、それで口元を隠すと彼はキルケを見据えた。

「ご迷惑でしたらいつでも仰ってください」

「可愛いキルケの頼み事でしたら喜んで」

 ご冗談を――苦笑するキルケが軽くお辞儀をする。きびすを返して、背中を向ける。

 細い背に負われているのは、大きすぎる圧力。この国の未来、民の未来、それらが

背負われていて。それらを守るためには手段も問わないだろう決意も知っている。

 ゆえに。何も言わない――否、いえない。

 本当の言葉を。

 本当の気持ちを。

 離れていく背中を見ていたネビロスは、唇を強く噛み締めた。血が滲んで、本に付着

してしまった。

「……私も、弱くなったものですね。感情一つにこのように振り回されて」

 立ち上がり、キルケが立っていた窓辺へと歩く。薄いガラスへと指を這わせていると、

その向こうの景色が赤く燃え上がった日を思い出す。キルケが来るよりも少し前に――

姉が住む村を天使ごと焼き討ちしたときのことを。

 肉親を殺めて何も思わず、しかしそれが知られたら――と思うと恐ろしくなり、その戦

のことを隠蔽したほどに。いまやネビロスの世界はキルケを中心としかけている。

 魔王よりも、キルケをとった時――全てのバランスが砕けるのだと。彼の頭脳は結論

付ける。

「……キルケの足は速いですね。もう、あのような所にいる」

 庭園の細道を駆け抜けて、馬の準備をしに行くか。この部屋から離れれば離れるほ

ど、その顔から笑みが消えていく。その心が凍り付いていく――

 聞こえる魂の慟哭。

「……真の意味で、愛された……子供」

 まるで炎のように激しく、まるで水のように優しく、まるで大地のように気高く、まるで

風のように気まぐれで。その純粋さが死を招く。

 ネビロスは小さくなっていくキルケの姿を眺めていた。

 漆黒の瞳に黄昏が差し込む。

「……この部屋にいれば、そうなることもない……ですね。閉じ込めてしまえば」

 小さな声で呟いて、頭を振る。

「……拘束……できるように……いえ。いけません。彼女の――はは。私を何を、何を」

 窓硝子に額をつけて。ネビロスは眼を閉じた。

 漆黒の闇の中――どこまでも続く、永遠の回廊。

 

 手首を戒める薔薇の鎖。滴る血潮に舌を這わせ、眠る想い人を掻き抱く。

 足首と石畳を繋いだ薔薇の鎖。滲む血に口付けを。

 そのか細い躯を縛る、薔薇の鎖。

 その心をも拘束してしまう薔薇の鎖。

 

「……愛しています」

 吐息混じりに告げれば――罪に堕ちた者として死ねるのか。

「愛してください……」

 懇願すれば叶うのか。

 薔薇の鎖が拘束したのはどちら?

 

 この胸?

 

 この――――