彼はふと足を止めた。
鼻先に当たる小さくも冷たい自身をアピールする存在に気が付いて。
「おー」
間抜けな歓声を上げながら空を仰ぐ。真っ暗な空から舞い降りてくるも
のの存在に思わず笑みが漏れ、つい先ほどまで身を切るような寒さに毒
を吐いていた自分自身のことなんて忘れたかのように夕飯と明日の朝食
として購入してきたカップラーメン入りのビニール袋を振り回した。
エコバッグを使えるほどサイフにも心にも余裕のない彼の顔に浮かぶ笑み。
見ず知らずの人物から見れば、この国の未来を担う若者の情けない姿と
して映るだろうか。しかし、そんなことは些細な問題でしかない。
彼にとって一番の問題は今月分の電気代であるし、そんな問題だってバイ
ト先で頂いたロウソクでどうにかしようと思っている。いざというときは、毎月コ
ソコソ購入しているちょっとえっちな本の特に気に入っているわけではない部
分を燃やしても構わないと思う。
端から見ればくだらないほどに切羽詰った彼の生活。
彼自身とて余裕があるわけではないと知っていながらも、貧乏ヒマなしとは
よく言ったものだと思いたくなるようなスケジュールで仕事をこなして、疲れきっ
ている体を休めるよりも、久方ぶりの訪問者と戯れることを選んでいた。
ぱたぱたと走り出して暗い夜道へと舞い降りる冷たい結晶たちをその手に抱
きとめる。
「よっしゃー! キャッチ!」
突然の寒さで対応が遅れたせいで押入れから出していない手袋。寒さで白く
なった手に握り締められた結晶が溶け出し、液体へと姿を変える。冷たいといっ
ても生きた体温を持っている手の中でそれは生温い温度のまま、まだ渇いてい
るアスファルトへと吸い込まれていった。
「もー冬だなぁ。俺もはやいところ冬服出すかー」
ズズッ、と入り口まで出てきた鼻水を啜る。
とても人様に見せられる光景ではない。しかし、こんな街灯も無い真っ暗な道
で誰がこんな姿を見るというのか。
まるで子供のように鼻を啜り、指先で少し拭うと彼は再び空を仰いだ。
街灯のない真っ暗な道。
地元の人間もなかなか通らない暗い道。
車だってとおりやしない。せいぜい野良猫たちが移動するていど、存在する
意味があるのか分からないような道。バイト帰りにそこを通ると少しだけ心が
安らぐ。
似ているのだと彼は思っている。
電気代を滞納して真っ暗なまま二ヶ月が経とうとしている小さな我が家と。
もちろんエアコンなんて文明の利器も使えない。
深夜の寒さを凌ぐ道具はただ一つ、実家から持ってきた毛布のみ。
真っ暗な闇の中で、近所のウニクロで購入したフリースを着込み、毛布に包
まる。そしてやがて聞こえてくる家族の団欒の声と、換気扇から入ってくるお隣
りさんの美味しそうな夕飯の香りを嗅ぎながらいつもと同じ味のカップラーメン
――ちなみに二つで九十九円でとてもお得なしょうゆ味――をすするのが日課
で、さらに言えば給料日前くらいになると美味しそうなお隣りの夕飯の匂いと水
で食事を済ませることだってある。
バイト中は賄い飯と名をつけた廃棄されそうな部分を食べることで補っている
が、そうでない時間帯は自分との戦いだ。実家を出てから二年、体重は六キロ
ほど減った。
身長との折り合いを考えるとちょっとしたアイドル体型だと思う。アイドルより
かはやや筋肉質かもしれないが。これで髪や顔に気を使えるほどの金があれ
ばモテてたに違いない。
そんな夢を見ながら彼は夜空を仰ぐ。
曇った夜空から舞い降りる冬の妖精。
去年は窓にもたれかかったまま夜明けまで眺めていた。
故郷とは違う雪景色を物珍しそうに眺めていた。
生まれた場所では積もることの方が珍しかったのに。ここでは当たり前のよう
に積もる。
「あっはっはっ! また一冬一緒にすごそーぜぇー!!」
ひとひら、ひとひら。
純白の妖精を追いかけて、自宅とは反対方向へと走って。
まるで目の前にニンジンをぶら下げているウマのようだ。むしろ、興奮の度
合いでは闘牛に近いものがある、誰かマタドールを呼んであげてください。
「どーせ俺はクーリスマスはシングルベルだからんなぁー!!」
去年はお店で余ったチキン片手にシングルベール。友人からの彼女とラブ
チュッチュッしてます電話にクルシミマス。そんな彼の隣りには本屋のバイト
で頂いた水着アイドルのポスターが一枚、とりあえずパーティーハットを被せ
てみたけれど萌えとかそんな感情よりも虚しさが勝った。
なのでほろ酔い気分で窓を開けてホワイトクリスマスな夜空を一人でずっと
眺めていた。もちろん電気は止まってた、ろうそくの灯りと街の明かりでロン
リークリスマス。
翌日は風邪をひいたあげく、こじらせて入院――肺炎なんて二度とかかる
ものか。
「あはっはっはっはっ!! ゆーきっ、ゆーきっ! もっとふりゃー!」
「パパー、今年のクリスマスはトイザウルスつれてってくれるー?」
「タケシがいい子にしてたらお父さんがサンタさんからお金を預かって、プレ
ゼント買いにいってやるぞー?」
「わーい! ぼくね、いい子にするよ。ママのお手伝いもするし、おばーちゃ
んの家にもおつかいいくー!」
「よーし、いい子だタケシー」
いつのまにこんな住宅街まで走ってきていたのだろう。
暖かい灯りの向こうで交わされる会話に思わず足を止める。
雪の寒さよりも、冷たさや城さにわけもなくドキドキしたあの頃。
暖かい灯りの中で、家族と団欒を過ごしていたあの頃。
ちょっと前の冬の季節――こんなに寒さを感じていただろうか?
頬を滑る雪解け水。まるで涙のようだ、一人暮らしを始めてから一度も流
していないとふと気付く。実家にいた頃は、些細なことで涙していたような気
がした。
優しい姉が温かい牛乳をくれて慰めてくれるものだから、ついつい甘えて
泣いてばかりだったのだ。とっとと家を出て行った兄だって、イベントごとに
帰ってきては良く分からないお土産をくれて、彼が困った顔をするのを楽し
そうに眺めていた。
家族が揃ったときにたくさんの食事を用意してくれた母、気難しそうな顔を
しながらも兄と飲む酒を楽しみにしていた父。
二年間、たかだか二年間会っていないだけなのに。
「……さみーな、なんか……」
暖かい灯りを見ると寒くなる。
寒さなんて感じなかったのに。あの暗い夜道では。
頬に触れる雪も、指先を凍えさせる風も、何もかも感じなかったのに。
近いような遠いような、曖昧な距離にある灯りが寒さを感じさせる。
「パパー、いっしょにおふろはいろー!」
「おう! ちゃーんと一億まで数えるんだぞ」
「はーい!!」
パタパタと聞こえる足音。鼻先をくすぐるシチューの香り。
そういえば、母の作ったシチューは美味しかった。ブロッコリーが嫌いな彼
のために何度も何度も改良してくれて。
姉の作ったケーキも美味しかった。生クリームがたまにイチゴ味がしたり、
ブルーベリーの味がしたりしていて、飽きなかったし。兄は――兄は、とりあ
えず存在そのものが面白かった。
父の手作りうどんは例えようのない味をしていたし。
とにもかくにも暖かかった。
あの、灯りは。
「……かえるべ、なんか萎えた」
寒空を仰いで歩き始める。
背中に聞こえる子供の声も、楽しそうな家族の会話も、すべてが――――
「……ん? あれ、俺ん家……」
電気がついてる?
止められてたのに?
というかなんだかいい匂いがする。すごく、懐かしい匂い。
「……マッチ売りの……俺……?」
頭巾を用意した覚えもマッチを売った覚えもないが。
「まさか大家さん……俺のこと追い出してよその家族いれちゃったとか……
ねーよなーないよなー」
口では否定しながらも家賃を滞納しちゃった彼としては不安で仕方ない。
急ぎ足で錆びた階段を駆け上がると、賑やかな話し声が聞こえた。なんて
薄い壁なんだ!
「まったくもー! こんなに散らかして、やっぱり末っ子だからって甘やかし
たのがいけなかったのかしら?」
「まあまあ、おふくろー。あいつだってそのうち自覚が出てくるって」
「そーよそーよ。ほらほら、健気に仕送り袋なんて作ってるよー、あの子」
「ふん……まだ俺は働けるだろ。アイツは……ったく」
「……お、お母さんに……兄ちゃんに、姉ちゃんに……父ちゃん……!?」
声が聞こえて驚きのあまりカップラーメンを階下へと落としてしまった。もっ
たいないなんて思いつつも、その双眸は薄く開いた窓の向こうを凝視していた。
小学生かよと突っ込みたくなるほどの飾り付けと、小さなテーブルの上に乗
り切らないご馳走。プレゼントがいくつも用意されて、天井から吊るされている
垂れ幕には大きく、
――誕生日おめでとう、武――
「た、たっはー……いやいや、俺……も、成人なのに……なんだよぉ、みんな
して……去年は電話だけだったくせによぉー……やべ、やべぇ……」
その場にしゃがみこんで顔を両手で覆う。
暖かい灯りが漏れ出している。
あの子供が呼ばれた名前、淋しくなったのは同じ名前を優しく呼ばれている
子供が羨ましかったから。暖かい灯りの中にいられる子供が羨ましくて、自分
の意思で自立しようとしたのに。
「武は甘えん坊だから、母さん心配よ」
「おーふくろー! 甘えん坊じゃない武じゃーオレが詰まんないって」
「そーよー。武はヨワヨワだからこそ、よ」
「しかし、いい年した男がそれでは……」
「だーいじょぶよぉー。あたしの友達で武のこと気に入ってる子いるから」
何が大丈夫なんだか。
暖かい灯りの中で交わされる会話。
冷たいドアノブを握る手が震えた。最初になんていおうか、無断で入ったこと
を怒ろうか、それともクールに気付かないフリでもしようか。
「いいわねーそれ! 武には引っ張ってくれる年上の子が必要よ」
それとも、それとも……
冷たいノブをしっかり握って。
小さくカチャリと音を立てて回す。
立て付けの悪いドアが低く鳴いて。
会話がピタリと止んで視線が集中した。
あぁ、もう……みんなの目を見たら、これしか言えないじゃないか。色々考え
てたのに。
「ただいま」
優しい灯りの中の俺の家族。
俺の…………帰る場所。