笑い声しか聞こえない。
 闇ばかりが続く回廊。四方は冷たく分厚い壁に阻まれ、人が一人
寝転べばそれで誰一人として通行が不可能になるほどの狭い場所。
それだというのにここで笑い続けている声の持ち主は、嬉々として跳
ね回っている。
 頭を、額を、肩を、体を冷たい壁に打ち付けながら、それでもなお飛
び回る。
 鼻先をくすぐるのは血の臭いだろうか。
 鈍い音とともに徐々に濃くなっていく。その臭いが充満しきった頃、こ
の回廊は無音の空間へと変わり果てるのだろか。それとも、この笑い声
だけがまるで壊れたCDの如く延々とリピートされ、ここの住人のすべて
が消えた後も残りつづけることになるのだろうか。
 漆黒の闇に目先にある自らの手すら見失う。
 気を抜けば意識のすべてを奪い取られそうなほどの濃い黒。
 ここに住み続ける笑い声の持ち主は何も感じないのだろうかと考え、彼
は頭を振った。関係のないこと――そう思わないこともなかったが、もっと
大きな感情があった。
 深入りしてはいけない。
 ここに住んでいる――否、監禁され続けている少女は、若干十二歳にし
て自らの父母の首を素手で千切り、生まれたばかりの妹を食い千切った
と。慄いた親族の手によってここに閉じ込められ、それ以来こうして外部か
らの人間を雇って死なない程度に世話を続けていると聞いている。
 彼は闇と同化した黒い髪を乱暴に掻いた。
 一切の明りを持つことを許されなかった手には、申し訳程度に研いであ
る小ぶりのナイフ。とてもその話に出てくる化物な少女相手に有効な武器
とは思えない。
 通りで条件のいいアルバイトなはずだとボヤいて、彼は後ろ手に引いて
いる食事を乗せたカートを滑らせた。ガラガラと耳障りな音がする。
 打ちっぱなしのコンクリートの上を安っぽい車輪が走る音。
 どこかで聞いたことのあるこの音は――あぁ、そうだ。
 先日、割のいいアルバイトで死んだ友人が運ばれてきたときに聞いた音だ。
 家族を持たない仲間として仲良く付き合っていたというのに。こうもアッサ
リと死なれては張り合いがない。彼は一寸先も見えないような闇の中を息
を殺して歩いた。
 ヒタヒタと自分の足音が笑い声に混じる。
 ケタケタと笑う笑い声。
 鈍い音と血の臭い。
 できることならばカートだけを走らせ、自分ははやいところ逃げ出したい。
恐らくは死んだ友人のアルバイトもこれだった。
 無残な死に方をした友人の骸を思い出し、彼は息を呑んだ。
 忘れようとすればするほど色濃く記憶に刷り込まれるあの姿。
 胸部を開かれ、中身を奪われた友人の姿。生きたまま解剖された友人の
姿を忘れられるものか。激痛にもがき、叫び声をあげた喉は切れ、抵抗を
試みた両手の指は十本とも骨を砕かれ、肉を抉られ、とても人間の仕業と
は思えなかった。
 雇い主と名乗る男の説明では、地下室に住む化物にやられたと。
 淡々と告げるその姿に憎悪を覚えるわけでも、友人の死を悼むわけでもな
く、ただただ肉の塊と成り果てた友人の姿と、黒いスーツ――まるで喪服を
纏っているかのような男を交互に見遣ることしかできなかった。
 彼はしばし足を止める。
 鼻腔をくすぐる血の臭いと食事の臭い。
 何を調理したものなのかはしらないが、とても美味しそうには思えない。
 命を失わない程度の食事、ということなのか。食べれるギリギリのラインの
物を食べたことはあるが、レストランの残飯よりもずっと臭いがゴミに近い。
 ここが闇でよかった。
 見たくないものは見なくて済む。
 たとえ、カートの上に並べられた食事が想像を絶するゴミの山であったとて
も、だ。
 足を止めた彼の耳に聞こえるのは時計の音。
 そういえば今日は近所のスーパーでタイムセールをやっていたのではない
だろうか。この仕事終えてから行けば間に合う。これで一週間分の食事を手
に入れれば、最近の低いテンションも多少は盛り上がることだろう。
 目指すは大盛りのカップラーメン。
 意気揚揚と彼が一歩を踏み出した刹那。
 
 ぴちゃ……ぴちゃ……

 濡れた足音と鈍い音。
 そして混ざり合う笑い声。
 彼は息を呑んだ。いつのまにこんなに近くまできていたのかと、こんなに―
―こんなにも、近い場所にたどり着いていたのかと。
 頬に触れる濡れた指。
 感じる息遣いは獣にも似て、血の臭いと腐臭に塗れたその姿は小柄な子
供にも思えた。頬に触れる手の骨っぽさと、胸に感じる顔の感触から推定し
てなので、もしかするとヒザ立ちのまま近づいてきたのかもしれない――なん
て可能性もありえないわけではないが。
 下腹部に感じるほのかな柔らかさから考えて、これは少年ではない。
 間違いなく少女だろう。
 無論、偶然迷い込んでしまった可憐な乙女ではなく、できることならばその
ままお茶にでも誘いたいような清楚なお嬢さんではなく、化物と呼ばれた少
女その人。
 自らの両親を殺め、幾人ものバイトくんをバラバラにしてきた恐ろしい人物。
 それが目前にいるのだ。
 正直なことを言えば、ここで失禁したとしても誰も責めることはできないと
思う。ビビり過ぎてこの場で絶命してもおかしくないほどの重圧感を胸に―
―胸に?
 彼は眉間にシワを寄せた。
 ぺたぺたと触れる手に軽く触れ、キャッキャッと聞こえる笑い声に首を傾
げる。
 先ほどまで聞こえていた笑い声と違う。
 狂気に満ちた笑い声などではなく、子供らしい無邪気な笑い声。
 休日の公園でこのような声が聞こえたら平和を感じて、思わずその場で
昼寝をしてしまうだろうほどにほのぼのとした声。
 自分の手よりも大きな他人の手を興味深そうに握る仕草も子供そのもの。
 彼は困惑した。
 ドコが化物だというのか。突然襲ってくるわけでもなければ、威嚇行為を
するわけでもない。遊び相手にめぐり合った子供のようではないか。
 こんな少女相手に何を慄いているのだろう。
 彼は手袋を外し、興味深そうにペタペタと触れてくる少女の頭を撫でた。
長いこと風呂にも入っていないのだろう、とても触り心地がいいとは言えな
かったが、脂で固まった髪の奥にある頭部の形はとても整っているように
思えた。
 きっと、光のある場所で育っていれば愛らしい少女に育っていたのだろう。
 細い肩にあざを作るわけでも、繰り返される骨折によって腕を変形させ
るわけでもなく。
 普通の少女として友人を作り、恋人を作り、学業と遊びを両立させてい
たに違いない。
 しばらくの間そうしていた彼の耳に不思議な音が飛び込んだ。言葉で表す
ならばくぅぅ、だろうか。それともきゅううだろうか、どちらにせよ、その音の正
体に気が付いた彼は、少しだけ慌ててカートの上にあるトレイを手にとった。
 鼻をつく臭いよりも、目の前で空腹をあらわにしている少女を満たすことが
先決に思えた。
 トレイを差し出してやると、少女は小さく悲鳴をあげて勢いよく飛びつく。こん
な暗闇の中ではテーブルマナーも不必要なものとなるのか、その食べップリに
は野性的なものを感じたが、子供は少々ワイルドなくらいがかわいい、を自負
している彼にとっては微々たる問題であった。
 生きるために懸命にナマゴミにしか思えないものを口に放り込み、一滴の栄
養も逃がさないと言わんばかりに汁まで啜る。
 満足したのか腹を叩いて、小さくげっぷをする。
 ――野性に溢れすぎている気がしないでもない。むしろこれではオッサンだと
口にしたくなったが、十代の少女にそんなことを言ってしまっては失礼だろうと、
彼は口をつぐんだ。
 暗闇の中で笑い声が聞こえる。
 楽しそうに笑う少女の声。
 彼の服の裾をひっぱり、自らの頭の上へと持ち上げる。何を催促しているのか
見ずとも理解できたのは、本能に刻まれた子供好き属性のおかげだろう。
 小さな頭を撫でてやり、甘えるように胸に顔を埋める少女の背中を抱いてやる。
 所々変形した骨。
 血の滲む肌。
 陽の当たる場所に出て、治療してやればきっと間に合う、まだまだまっとうな道
を歩むことができる――そんなことが脳裏を過ぎっていた。
 しかし同時に感じるのは小さな不安。
 ここに閉じ込められているのが普通の少女とすれば。
 上の豪奢な屋敷に住む親族たちは何のためにこんなことを、ありきたりな遺産
目当ての?
 ならば今までの犠牲者たちはこの少女ではなく、上に住む親族たちの仕業とい
うことになるのではなかろうか。
 彼は再び少女の手を握った。小さな骨ばった手は、とても他人を殺せるほどの
力を持っているとは思えない。陽に晒せば変形し、所々に深い傷を負った小さな
手が見えることだろう。
 ぐりぐりと額を押し付けている少女。聞こえる笑い声は穏やかで、愛らしい声。
 ――いや予感がした。
 寒気に肩を震わせ、彼は少女を抱きしめた。
 この少女が他者を殺すはずがない、きっとあの親族たちが怪しい。
 証拠を見つけたわけではない、しかしこの少女が両親を殺めたうえに他人を何
度も何度も殺すだろうか。ただ殺すのではなく、肉を引き千切るなどの手段で。
 無邪気に笑い、遊びをせがむような子供が――――
 彼は何かを決意したように、強い眼差しで何も見えない闇の虚空を睨みつけた。


 笑い声が聞こえる。
 陽の下に曝け出した少女の姿。変形したその体は人間のものではなく、むしろ
獣に近いようにも思えた。鋭く伸びた爪と、貫けないものはないと自己主張してい
る牙。
 ぽたぽたと滴るのは門番の血液。
 ぐちゃぐちゃと咀嚼するのは親族の肉。
 彼は頭を抱えたくなった。聞こえる笑い声は無邪気なものなのに、笑い声を発す
るのは狂気に満ちた笑みを浮かべる少女。
 その小さな両手に赤い肉を握り締め、嬉々とした顔で飛び跳ねる。
 人間じゃない――そう、気付いたときにはすべてが無音へと変わり果て。
 足元で、まだ息のある少女の親族が掠れた声で告げている。太陽の光を浴びる
とヒトではない何かへと変わってしまう病だと。治療法もなく、ああして闇に閉じ込め
るしかなかったと。
 息が止まる。
 なんて事をしてしまったのかと思えど、すべてはもう手遅れ。
 爛々と輝く太陽の下で少女が笑っている。
 楽しそうに、嬉しそうに。

「おにいちゃん、すごくおいしそう」

 人生の終幕ってこんなに呆気なくていいのかと、最期に問おうとしてやめた。
 相手は子供だ、大人気ない。


 こうして彼の人生は笑い声とともに終わる。