どこまでも青い空を見上げると、情報処理で疲れた目が酷く痛む。しかしそれ
でも彼女の双眸は白い入道雲の見える空から目を放しはしない。余所行きの
化粧をして、とっておきの服を着て、できることならば末代まで伝えたいとすら思っ
ている大切な鞄を肩にかけて颯爽と歩く。
カツカツと足音を響かせるのは今年流行デザインのミュール。
個人的に夏の花――ひまわりを煩くない程度にあしらってあるのが気に入って
いる。
さらに言えば、足首を細く見せてくれるようなデザインもお気に入り。
今日のために新しく購入したのだ。
今日のために。
島美弥子――学生時代のあだ名はシマミ。発端は同じクラスになった男子の一
言だった。
「お前の名前ってどこで区切んの? しまみ、やこ?」
普通に考えれば分かるだろうに。と当時は思ったものだが、社会に出てからも
同じような質問をされることが多々ある。今でこそシマミとは呼ばれないものの、
会社の同僚たちが陰でなんと呼んでいるんなんて分からない。課長の半田源太
の通称はハゲ――はんだげんた略してハゲなのだから。
「あぁ、よくないよくない」
学生時代からずっと聞いているお気に入りの一曲。それが流れているときは
会社のことを考えるのはやめようと決めていたのに。それこそ数年前から決め
ているのに。
美弥子は思い切り息を吐いて空を仰いだ。
強い陽射しが肌を照り付ける。きっと肌にはよくないのだろう、無論日焼け対
策はしているものの、夏本番といった気温のせいで日焼け止めがすべて汗と共
に流れ出している気がしてならない。汗を抑えるための静汗スプレーの意味が
まったくない。
ごちゃごちゃと頭の中で色んなことを考えていると、この歌を一番よく聞いてい
た頃に戻ったような気分になる。
あの頃は、学生時代は時間ばっかりあったくせに、ごちゃごちゃと頭の中でば
かりものを考えていた気がする。今でこそ一年に一度決まった日に有給を取る、
だとか飲み会はワリカン以外は行かないとか。そんなことを実行に移せているけ
れど、学生時代は思いついたこと一つを実行すにも勇気が必要で――
少しばかり昔のことを考えていた美弥子の双眸が、整備された駐車場へと向
けられる。
「あーここもコンクリになっちゃったか」
数年前まで通学路だったこの道。今は駐車場になってしまったこの場所は、ひま
わりの咲く空き地だった。生徒たちの溜まり場で、この季節は同じ学校の面々が
示し合わせたわけでもないのに大量に集まっては花火をして大騒ぎしていた。
――今考えると、それが原因で駐車場になったうえに管理が厳しくなったのかも
しれないが。
車がまばらに止まっている駐車場を尻目に美弥子は再び歩き出す。少しばかり
整備されて歩きやすくなった道は、後ろを振り返るには昔過ぎる日々を鮮明に思
い出させてくれる。
入学式の日も、シマミとあだ名をつけられた上に吹奏楽部へ入る予定だった美
弥子の予定を散々狂わせた一人の男子のことも。
「……ぷっ」
当時のことを思い出して思わず噴き出す。
とてもくだらない内容だったのだ。吹奏楽部に入るために入部届けを握り締めて
いた美弥子へと近づいてきた、目が印象的な男子は無表情のまま入部届けを引っ
手繰って、
――軽音楽部へようこそ――
淡々とした声で告げたのだ。もちろん大慌てで断った、音楽とはいえども軽音に
はまったく興味もなければ、知識もない。高校の三年間は吹奏楽に生きると決心
してこの学校を受験したというのに。なにゆえ、おかしなあだ名がつく理由になった
男子と同じ部活に入らなければならないのか。
懸命に拒否する美弥子の顔を覗き込んで、その男子――苗字を羽生。名前を仁
という十五歳にしては物腰が落ち着きすぎている少年は、真顔で入部届けを自分の
制服の内ポケットへとしまいこんだ。
――ブラスバンドかロックバンドかの差だから。同じバンドだからいいだろ――
むちゃくちゃなこと言われた。そう思ったけれども反論する気力が出ない。
こうして美弥子は高校の三年間を軽音楽部で過ごすことになった。不本意な入部で
はあったけれど、きちんと楽しめたことは間違いない。毎日毎日、テスト期間の時で
すら自分の楽器を弄っていたのだから。
「絶対、仁はおかしいよね。ブラスバンドとロックバンドじゃ別物だって」
夏休み真っ只中の高校。グラウンドにはサッカー部が全国大会と叫びながら練習
をしているものの、室内でやる部活の大半は特に練習もないのだろう。楽器の音も
聞こえなければ、合唱も聞こえない。
美術部恒例のサッカー部をスケッチも行っていないところを見るに廃部になってし
まったか、顧問が変わって廃止になってしまったのだろう。夏の風物詩だったという
のに。
美弥子は残念そうに母校へと背を向けた。
聞こえるのは顔も知らない後輩たちの声。
あの頃、同じ時間を生きた同級生や先輩、そして後輩たちと同じ夢を追いかけて
練習している声。脱落したメンバーがいても、ただがむしゃらに突っ走る声と音。
土煙と汗臭さは懐かしいもの。過去のもの。そこまで考えた美弥子は、小さく口の
中で呟いた。
「君の夢、音より速く、僕に届け」
再び歩き出す。
学校よりちょっと奥の道へ。学生時代にお世話になった場所――軽音楽部という
からには体も鍛えなくては、と言い出した部長の命令によって数人の部員がこの病
院へと運び込まれた。
病状は筋肉痛と肉離れ。
普段使わない筋肉をムリヤリ酷使したことによる――と説明されているときの先
輩の顔は見物であった。あのときばかりは、常に冷静な表情を保っている仁も声
をあげて笑ったものだ。
両足に包帯を巻いたまま爆笑して、近くを通りかかった婦長さんに叱られていた。
それが文化祭三日前の出来事。ライブを控えていたというのに主要メンバーは肉
離れやら筋肉痛やらで動けない。
困り果てた部長に仁が口を開いた。
――イス使えば?――
よくわからないステージだったことはよく覚えている。それなりに人気のあった軽
音楽部。まだライブが始まってもいないというのに女の子の歓声が聞こえてくるほど
には人気があった軽音楽部。
誰が予想しただろう。
メンバー全員がイスに座ったまま演奏し、ボーカルがイスに座ったまま歌うなん
てことを。
ライブは爆笑に始まり、大喝采に終わる。満足そうにしている仁とは違い、先輩
方は恥ずかしそうにしていたが――同じステージに立ったものとして自分も恥ずか
しかった。
美弥子はちょっとだけ気まずそうに顔を顰めた。
足を進めると自動ドアが開いて、冷たい空気が火照った肌を冷ましてくれる。エレ
ベーターのボタンを指先で押すと、見知った看護士が軽く会釈をしてくれた。
無言でそれに返して美弥子はエレベーターへと乗り込む。押す階は必ずいつもと
同じ。何年も前からずっと同じ階に通っている。
耳に響く音楽と、頭に響く歌詞。
双方に聴き入るようにして目を閉じると懐かしい日々が次々と蘇る。ビデオに録画
していたわけでもないというのに、鮮明に次々と脳裏を駆け巡る――まるで映画のよ
うに。
爆笑ライブも卒業ライブも。いつでも拍手の中にいた。
廊下を歩いていてサインを求められたことも。あの時書いたサインは一生涯の恥
なので、持ち主が捨てていてくれることを切に願う。
いらん記憶まで呼び起こした美弥子は後頭部を壁へと打ちつける。その音に近く
を通りかかった子供が驚いて逃げ出してしまったが、追いかけてまで誤解を解く必
要はないだろう、と判断してそのまま目当ての病室へと足を進めた。
「島です」
三回ノック。返事はない――いつものこと。
部屋へと足を踏み入れると、真っ白な部屋に大量の千羽鶴が積み重ねられていた。
「また増えた? ほんっと人気だね」
部屋の主へと語りかけるように呟きながら棚の上に置いてあるコンポへとカセット
テープを入れる。再生ボタンを押せば、先ほどまで美弥子が聞いていたものとまっ
たく同じ音楽が流れ始めた。懐かしい音楽――卒業制作という名目で秘密裏に作っ
ていた軽音部オリジナルの歌。
「どう? 懐かしいでしょ」
歌声はすべてボーカル、仁のもの。時折り入るベースの音が美弥子のもの。
卒業生だけで構成された一日バンドはたった一曲「dream scattered」を作り、演
奏し、そして解散した。そのメンバーでメジャーデビューを狙おうなんて話は部内に
溢れていたけれど、メンバーの全員が進路を決めていて、ただ一人を除いた全員
が音楽と関わることのない道を選んでいたのだから。最初からその夢が叶うはずも
なかった。
一日バンド。それが相応しい。
その中でも最後まで音楽の夢を諦めなかったのは――
「君の夢、もっと速く。音より速く、僕に届け」
この歌詞を作って、作曲までして。自分で歌った当時の部長――羽生仁。彼一人
が卒業式のあとに行った打ち上げでも、将来の夢は有名なミュージシャンだと叫ん
でいた。
淡々とした声と、常に平静を保った顔。化粧の腕は女子顔負けで。
歌は上手い。作曲だってできる。作詞だって。なんだってできるヤツだった。
「さすがに当時の歌詞は青いけどね。若さが溢れてるってか、希望に溢れてるってか」
呆れてしまうほどに前向きな男だった。
美弥子は繰り返し、何度も何度も聞いている音楽と、それに纏わる過去に浸るよ
うにして目を閉じた。目を閉じれば、そこには元気に笑う仁の姿が見える。
マイクを振り回してはしゃぐ仁の姿が――――
「ねぇ、一人で夢見てるのはずるくない? 私にも見せてよ」
今となっては全てが夢だったのかもしれないと思うほどに。
ベッドの上で何年も眠り続ける仁の姿。たくさんの千羽鶴はファンの子たちから。
帰りを待っている人がいるというのに、夢まで後少しだったというのに。
仁は交通事故に遭った三年前から目を覚ますことなく眠りつづけている。
「……いい夢見てるんでしょ? 私にも見せてよ、仁ってば」
頬を軽くつねり、昔のように悪戯を成功させた子供のような笑みを浮かべる。きっ
と、あの頃ならば仁も無表情で反撃をしてきたのだろう。
今はただ――規則正しい電子音だけが聞こえてくるだけ。
「……あーあ。もう、テンション下がるってば。仁、じーん! 起きて、もうすぐ夏祭り
だから。祭り会場でライブするのが目標って言ってたでしょーう?」
棚に置かれたマイク。埃がかぶらないように布に包まれて。
きっと事故に遭った当時の恋人がしてくれたのだろう。今は、どうしているのか知
らないけれど。もうずっと姿を見ていない。起きることのない仁を見守ることに疲れ、
そのまま姿を消してしまったのかもれない。
そんなことを考えていると、本当に二度と彼が目覚めないような気がしてきた。
「ねえ。仁ってば」
頬に触れて、繰り返し流れる思い出の歌を「dream scattered」の歌詞を想う。
音より速い夢。仁の夢は誰よりも速く、誰かの心に届いただろうか?
美弥子の夢は、音よりも早く、誰かの心に届いてくれたのだろうか?
夢を見ていたあの時代。
制服をビショ濡れにさせるまではしゃいだあの時代。
今となっては振り返ることしかできない時間。
流れる懐かしい音楽。過去と今を繋ぐ細い糸。その前へとマイクを置いて、静かに
電源を入れる。
途端に響き渡る若い歌。
他の患者の迷惑になるということは理解している。
けれど――
「仁。オヤスミ」
これ以上、時間の止まった彼を見ているのが忍びなくて。
動かない部長を見るのがイヤで。
勝手な理由で好きな人を殺そうと想った。
だからこの思い出の歌は鎮魂歌になる。
腹に響く重低音。動かない仁の手を握り、彼の命を繋ぎとめている巨大な機械へと
手を伸ばす。
小さなスイッチを指先が軽く押すだけで終わる。彼の時間は止まったままから、過去
のものへと変わる。同じ時間を生きることはなくても――
「……?」
手に違和感を感じた。
思わず動きを止めて仁を見下ろす。
「……はははは」
思わず笑いが漏れた。
「なにそれ?」
瞼が痙攣してるみたいに動いている。
指先がぴくぴくと。
今になって何を。
止まった時計に電池を入れたのは誰か。
まさかまさか。
彼の誕生日にこんな奇跡が起こっていいとでも?
流れる思い出の歌。
騒音に駆けつける看護士たち。
苦情の中で美弥子は笑っていた。
「困りますよ、島さん」
「はははははっ。ごめんなさい、だって……嬉しいのやらバカらしいのやら。
ワケわからなくて、ははははっ!!」
――君の夢、音より速く 僕に届け――
今の夢は、あなたの声を聞くことだよ。そんな言葉を吐くのは、彼が完全に目を覚ま
してからにしよう。大声で笑いながら美弥子は思い出の歌の歌詞を口ずさんだ。
遠い日々のように。
「Dream Scattered」
君の夢、音より速く 僕に届け
真夏の音色が僕らを誘いに来る
短い夢物語 夏休みの不思議
小さな僕らをつれて飛び立つ 広い空へ
無限の夢と 無限の希望と 無限の想いを乗せて
君の横顔
僕の夢
二つ重なって いつか大きな大樹になる
小さな僕らの大きな夢
音より速く未来まで飛んでいけ
例え叶わなくても 僕たちの今はここにあるから
君の夢、音より速く 僕に届け
僕の夢、音より速く 君に届け
真夏の空に響いて弾ける二人の夢
音より速い 音速の夢
歌い続けるよ 夢が叶っても ずっと
君の夢、もっと速く。音より速く、僕に届け