さくらひとひら散りて――

 歌声は彼方に響く――

 炎より冥府へ堕ちる焔の鳥は再び炎より生まれ出――

 悠久の時を生きる渡り鳥をこの手に抱けば――

 久遠の孤独もやがては癒されようか――

 嗚呼――――

 焔の鳥が啼く――




 静かな眼差しをもった少女は、目の前で起きているすべての
事柄がくだらないとでもいうようにその双眸を閉ざす。下ろされた
瞼に映るのは眩しいばかりの太陽と、先ほどまで眺めていた小さ
い人間たち。
 それは少女が教室から校庭を見下ろしているから小さく見えるの
であり、決して彼ら自身の体が小さいわけではない。純粋な数字で
あれば、少女よりもよっぽど大きいことだろう。
「あー、アーヤ! 誰見てるの? 先輩? それとも〜」
 少し離れた場所からキンキンと高い声をあげて近づいてくる栗色
の髪を二つに縛った少女。アーヤと呼ばれた――本名を霧島 絢
歌という――少女は、無言のまま瞼を持ち上げた。
 光が入ろうとも暗い、漆黒の瞳を細めていつもの笑顔を作り出す。
 ここまでは普段と変わらない作業だった。
「アーヤはどの先輩が好きなのー?」
 悩み事などなさそうに同じことを繰り返す日々をただ笑う少女。
その栗色の髪を揺らして窓から校庭を覗けば、さきほどまで霧島
が眺めていた他学年の生徒たちが体育の授業に勤しんでいる。
「私は、そういうのあまりよく分からなくて」
 涼やかな声。形の整った唇から紡がれた言葉は、清涼な風のよ
うに栗毛の友人の耳へと響く。
「えー? せっかくウチの高校入ったんだからさぁーいい先輩とか
ジャンジャンさがしなよ。
 クラスの男子はしょーじき微妙だし? まっ! アーヤはカワイイ
からすぐに見つかると思うけどさ」
 激しく背中を叩く。
 そこでようやく霧島は、この栗毛の少女の名前を思い出した。
 ――吉良 梓。入学式の当日に話し掛けられてから延々とこの
仲が続いている。決して嫌っているわけではないが趣味も違えば、
方向性も違う。
 すべてにおいて合わない人間だと思っていた。
 しかしそれでも追い払うように相手をしなければ、高校生活とい
う三年の時間がただの苦痛で過ぎてしまうだろう。面倒なことを呼
び寄せないためには、ある程度の我慢も必要だ。
 世の大人には子供といわれる霧島でも、その程度のことは理解
していた。
 ゆえに小うるさい吉良を一度も突っ返したりはせず、程ほどに――
節度を保って相手をしてきたのだから。
「そんなことないよ。梓こそどうなの?」
 口に出しても問題のない範囲内で会話をすれば、その場凌ぎくら
いにはなる。運がよければ勝手に誤解していいイメージをもってくれ
るのだ。
 こんなにも簡単な付き合い方があるだろうか。
「えぇ? あーいや……それがね」
 身をくねらせて、霧島に手招きをする。
 こんなに人が多い教室で内緒話をしたって、騒音に掻き消されるか
周囲に漏れて噂話になるだけだというのに。こういう部分が愚かだと
前々から思っていた。
 胸中に渦巻くすべての感情を噛み殺して霧島は、吉良の口元へと
耳を当てた。
 趣味の悪いコロンの匂いが鼻をつく。
「あのね……」
 軽く頬を紅潮させて呟くのは、どこにでもある話。
 入学してからずっと想いを寄せていた先輩に手紙を出して、放課
後に来てもらう――どこにでもある話だ。たいしたことでもない。
「凄いじゃない。がんばって、梓」
 誉めてやれば、いい気になる。
 勝手に前向きになって勝手に行動する。
 面倒なことなんて一つもない。自分の好きなように時間が取れる――
「そ、それでね。アーヤ……悪いんだけどぉ……」
 ――そう、こんなくだらないことでも付き合ってあげれば、その後の
時間はゆっくりと過ごせる。
 とても――簡単なこと。


「先輩に告白しに行くの一人じゃ怖いから、一緒に来て」


 何が怖いのか知らない。
 自分の失態を見られることの方が恐ろしいと思う。
 理解できない他人の感性に霧島は、手にしていた鏡をそっと鞄へと
しまった。
「あ、来た。アーヤどうしようぅ」
「大丈夫! 梓ならいけるよ!」
 他人についていてもらわないと何もできないのならしなければいいの
に。脳裏に過ぎる言葉を噛み殺して最大限に明るい笑みを作る。
 それだけで吉良は、今にも泣きそうな顔に笑みを浮かべる。
 単純で羨ましい限りだった。
 駆けてくる二年生の姿に霧島は、興味なさそうな顔をして視線をそら
す。気付けば桜が散っていた。入学式からもう何ヶ月経ったのだろう
――毎日が同じことの繰り返し。
 どうでもいいことと、割と楽しいこと、将来に必要なこと。
 それらすべてが混ざり合った毎日は、退屈ではないけれど少々だる
いと思うときもある。
 特に、こういった予期せぬイベントの日は。
「先輩……私……!!」
 意を決して放たれる言の葉。
 葉桜になった桜の木を見上げていた霧島は、風の流れが変わった
ことに気がついて目を伏せた。肩を震わせている吉良の姿――手を
拳の形に握り締めて、震える。
 溢れ出す感情を抑えようと震えている。
 霧島は、吉良に悟られぬように息を吐いた。
 ――あぁ失敗か。
 こういう場合にどうすればいいかなんて容易に想像がつく。
「大丈夫? 梓」
 肩に腕を回してやると吉良が唇を噛んでいるのが見えた。
 よほど辛辣な言葉でも浴びせられたか。
 傷付く覚悟もなしに目の前の獲物へと飛び掛るから、手痛いしっぺ
返しを喰らって泣くことになるのだ。くだらない――
「俺さぁーそういう女同士の友情って理解できないんだよね」
「…………?」
 何を言っているのかこの男は。
「いつでもどこでも一緒でさー飽きない? つか、どこまでが友情なわけ?
 告白っつったって、友達同伴じゃあムードもなんもねーじゃん? 
お前もなんでその女と一緒にいようとか思えるわけ? ワッケわかんね。
 お前も友達がいないと何もできない〜あたし一人じゃ怖いのーってタチ?」
 吐き捨てるようなセリフ。
 何を言い出すのかと思えば、自分本位で考えた妄想でしかない。狭い見
解より見出された興味のない退屈な答え。
 思い込みから他者を傷つけるだけの暗号――それに反応するほど、幼
くはない。
 そうだ――自分は、幼くない。
 目を細めた霧島の手を、吉良の手が振り払った。
「梓……?」
 大粒の涙が零れる。
 告白を受け入れてもらえなかったことへの憎悪か、怒りか、それともバカ
にされたことへの怒りか――理解できない、ここで大人しくしていれば面倒
なことなんて何一つないのに。
 赤の他人の意見。
 何一つ正確なことは述べていない、退屈な意見。
 流してしまえばいいのに――――
 なぜ、こうも。
「私のことを言うだけならいいけど……アーヤにまで変なこと言わないでくれ
ますか!! それ以上言ったら私だって怒りますよ、ううん。今だって殴りた
い気持ちで一杯です!」
 この女は――吉良 梓は怒りを露にする?
「私の友達を悪く言わないでください!!」
 ――友達。だれが。
 友達だなんて思ったことがない。ただクラスが同じなだけの他人。
 いてもいなくても変わりのない存在。
 それは、空気にも似ていて――
 だからこそ、どうしてこんなにも怒るのかが理解できなかった。
「はっ。しらけた。マジウゼー」
 くだらない言葉を吐き捨てて背中を向ける二年生。名前を知らなかった
――けれど、知りたいとも思わない、その顔を覚えようとも思わない。
 赤の他人。
 興味がない。
 何を言われようと、何をされようと。
 ただ今の頭を揺さぶるのは――
「ごめんね……ごめんねアーヤ。私のせいでいやなこと言われて、ウザ
かったでしょ。ごめんね……ごめんね……アーヤ」
 泣きじゃくって、不慣れな化粧を崩して、嗚咽をあげるその姿。
 何を泣くのか理解できない。
 友達なんかじゃないのに。
 他人なのに。
 なんでこんなに泣くの?
「梓、私……何も辛くないよ? だから、泣かないでよ」
 声が震える。
 柄にもなく動揺しているのだろうか。こんなにありふれた状況に。
「ごめんね……ごめんね……」
 頭が痛い――泣かないで。
 友達じゃないから――親切にされる理由が分からないから。
 お願い――他人だから。

 零れ落ちる涙の一粒一粒が清らかな水晶ならば――
 この心に巣食うのは醜い鬼なのだろう――
 激しい頭痛に苛まれながらも耳朶を打つ言葉が信じられない――
 この姿を浅ましいと誰が責められるか――
 空虚な心は満たされることはない――
 否。満たされてはいけない――
 苦痛から逃れるために幸福の手段すらも失ったのだから――

「吉良ー? 吉良は、今日も休みか?」
 あの日から一週間が経った。
 泣いていた顔しか思い出せないほどに長い時間泣いていた吉良は、そ
の翌日から学校に来なくなってしまった。
 興味がない――その一言で片付けるのは簡単だった。
 他人の行動に一々目を光らせていても意味がない。そんなことで精神を
疲弊させるくらいならば、もっと他のことを考えた方がよっぽどいい。
 何の気なしに参考書を開いた霧島は、違和感に眉を寄せた。
「…………?」
 いつもと変わらない喧騒。煩い教室の中でぽつんと参考書を開く自分
――何かが足りない。いつもなら聞こえてくる声がない。
「……馬鹿馬鹿しい」
 誰にも気付かれないように毒づいて霧島は参考書を閉じる。
 あの煩わしい声を聞かなくて済んでよいではないか。静かに自分の時間
を使える、自分だけのために行動できる。
 自分だけの――あの時の吉良の行動が脳裏に過ぎる。
 悲しいのなら泣いているだけでいればいいのに。辛いのなら自分のため
だけに泣けばいいのに。涙を零しながら叫んだ。
 隣で呆然と立っていただけの霧島のために。
 泣き叫んで、自分の傷口も癒せないのに――他人のために。
「……」
 胸が痛んだ。
 理解のできない痛み。あの栗色の髪が瞼の裏で揺れる。
 声が聞こえない――姿が見えない――ただ、それだけで。
「……信じられない……」
 友達だなんて思っていなかった。ただの他人――ただ、そこにいるだけ
の存在。否――ある、のほうが正しいのかもしれない。
 その程度の存在だと認識していた。転がる小石と同じ、価値のない存在。
 それは、向こうも同じように――いてもいなくてもいいと思っていると。そ
こに存在しようが、してなかろうが日々は変わらない気持ちもまた同じように。
 そう認識していたというのに。
 ただ泣き叫ばれただけで。
 友達だと言われた。
 大切だと――本気で相手をしていなかったというのに、大切だといってく
れた。怒ってくれた。それだけなのに。ただ、それだけなのに――――――
「…………くだらない」
 席を立つ。
 自習だといわれた――関係ない。脳裏にその言葉が過ぎった。
「おい、霧島……?」
 驚いているクラス委員長の横をすり抜けて歩き出す。恐ろしく頭の中が
静かだった。喧騒なんて聞こえない、呼び止める声も、何もかもが別世界
の出来事のよう。
 痛んだ胸の虚空。
 欲するものができたのだと気付いた。
 聞こえない声が、見えない姿が――ただ、見たい、聞きたい、傍にいて
欲しい。傍にいたい。
「――早退します」
 静かな声――それでも騒がしい教室に響き渡るような凛とした声で告げ
る。その言葉に異論を唱えようと思う人間はいないようだった。
 それほど真面目な生徒でもない。関係ないと思ってもらえればそれでよ
かった。
 関係ない人間たちに囲まれて自分の時間を過ごす。そのためだけの学
校、そのためだけに進学した。
 人付き合いはそのオマケ――
 そつなくこなせば自分の得になる。それだけでしかなかったというのに。
 あの涙が、叫びが、凍てついた大河を溶かすかのように響いてくる。
 欲しくないと思い込んでいた。
 欲しくないと言い聞かせていた。


 本当に欲しかったのは――――?



「――すごい、桜がきれい……」
 うっとりとした眼差しで窓の外を仰ぐ。その姿を眺めて霧島は微笑を浮
かべた。
 手にしていた参考書を机の上に置いて手を休める。向かいで外を眺め
ている横顔は、ずいぶんと安らかで霧島を安心させてくれた。
「二年生の教室って絶景だよね」
 窓に額を当てて笑う吉良。その言葉に頷くように霧島は、窓の外へと目
をやった。
 桜の花びらが舞い散る。
 地に積もってやがては還るその姿――今ひとたび醜くとも、やがてはま
た返り咲くだろう。
「アーヤ……」
「ん……?」
 窓が開いた。春の暖かい風に乗って訪れる花びらたちが机の上に舞い
落ちる。
「どうしたの?」
 首を傾げて微笑めば、吉良は満面の笑みを浮かべてくれる。あの日か
らどこか陰が差した雰囲気は残ってしまったけれど――今は笑ってくれる。
 こうして一緒に話している。
 それだけで霧島は満足だった。
「――ありがとう。私を連れ出してくれて……閉じこもろうとしてた私を」
「当然じゃない」
 向けられた微笑がいつか誰か一人のものになってしまっても。
 今だけは二人でいられるこの時間を――尊いと思えるようになったこと
を、心の底から。
 その言葉を本当の意味で口に出せる今を心の底から――
「友達だもの――ね、梓」

 喜んでいるから。



 桜抱いて眠る春の木漏れ日――

 友と呼べば空虚な心に微笑浮かぶ――

 響く恋歌は春風に消え往き――

 心の氷河を溶かして春の訪れを喜ぼう――

 悠久の孤独は久遠の絆を招いた――

 嗚呼――

 焔の鳥よ燃え尽きよ――

 新しき焔より生まれ出は比翼の烏――

 この手はとこしえに――

 恋にも似た友情を抱いた新しい日々よ――