それはいわゆるあれだと思う。
 そう、酔った勢い。
 普段の彼ならば行くはずもないところへと足を伸ばし、さらには寄るはずのない
所にまで入り込んだのだ。これを酔った勢いと言わずになんと言おうか。
 もしもそこが魅力的なマダムと向かい合って酒を酌み交わす場であれば、彼は
最大限に鼻の下を伸ばして笑っていたことだろう。
 もしもそこが若くてかわいい娘たちと遊べる所であれば、彼はさぞかし嬉しそう
に笑ってグラスを傾けていたことだろう。
 しかしなぜだろう。
 せっかく酔っていたのに。
 せっかく普段は行かないような裏道を通ったのに。
 どうして自分はこんな所にいるのだろう。
 彼はアルコールの臭いがする自分の溜め息に、もう一度深く息を吐いた。
 ――正直、臭い。




 それは夜の闇を思わせるものだった。
 暗幕に散らされた光の粒は、星々を表しているのだろう。特に星座に詳しい
わけではないが分かるものはいくつかあった。しかし、ここで今更彼が星座を
当てたとして、目の前に座っている女性は、興味など示しはしないだろう。
 闇に溶けてしまいそうなほどに黒いローブを目深にかぶり、口元を薄い布で
隠している。
 しなやかな指が眩しい両手以外は、殆ど露出のない女性をチラチラと見やっ
て彼は頭を掻いた。
 なにゆえ自分はこんな所へ入ってしまったのだろうか。
 入るならばもっと明るい店にすればいいものを。
 薄暗いうえに狭いこの部屋。漂うのは何の匂いだろうか、あまり好きではない
香りだった。
 流れる音楽は何かの特集で――確かヒーリングなんたらいう名前で、聞いたこ
とがある気がする。こちらも特に好きではない。正直なことを言ってしまえば、音
楽全般に興味がないのだが。
 一部の女性なんかであれば、こういった雰囲気の店につれてきただけで場に
酔ってくれるのであろうが、生憎ながら彼はこういった店に酔えるほど若くも無
かったし、何よりも連れの女性などいなくなって久しい。
「……あ、あのー……」
 弱々しい声で女性へと声をかければ、薄い布の向こうの唇が笑う。
「お決まりになられましたか?」
 女性の切り替えしに男は頭を抱えたくなった。
 酔った勢いでこの店――いわゆる占い屋? に入ったはいいが、この空気に酔
いが醒めてしまい、どうにもソワソワして仕方がない。
 何を占ってもらうにしろ自分は、ある女性とお付き合いはしていたが仕事を大事
にしすぎて捨てられ、それでも鋼の意志で仕事をこなしていたが中間管理職と呼
ばれる地位より上へはのぼれず、上司からはいびられ、部下からはせっつかれ
るだけの――いわゆる淋しい中年なのだ――事実ながら彼は凹んだ。
 その様子をずっと眺めていた黒衣の女性は、静かに手元のカードを切り始めた。
さすが商売、慣れているのだろう。鮮やかでなんともいえない。
「――迷いがあるようですね」
「え、あ……はぁ」
 店に入ってイスに腰掛けて、それで冷やかしでした。なんて言えるはずが無い。
彼があと十五歳ほど若ければ、それはまた別だったかもしれないが、この年でそ
んなことをすれば単なる変なオヤジだ――オヤジという言葉に再び彼は落ち込んだ。
「星の導きに従って、あなたの運命を占いましょう。タロットカードはご存知ですか?」
「いや、あまり……占いは星占いくらいしか」
 それも、朝のニュースでやっているようなものだ。
 彼の言葉の真意を理解してくれたのか女性は、静かに微笑んでタロットカードだと
思われるカードを一列に並べた。
「様々な手法があるタロットカード。今宵はあなたのためにワンオラクルで占いましょう」
 流れるように滑らかな発音は不思議と心を落ち着けてくれる。先ほどまで落ち込ん
だり焦ったりしていたのがウソのようだ。
 彼は女性の手が指すカードを見詰め、ゴクリと喉を鳴らした。
「お好きなカードをめくってください」
 心臓がバクバクいっている。
 占いなんて気休め程度にしか思っていなかったのに、不思議と緊張する。この雰囲
気のせいだろうか――それともこの女性の魔力の仕業なのだろうか。
 現実離れした思考を忘れるように彼は、直感が選んだカードをめくった。




 電車のベルが鳴る。
 慌てて駆け込めば、腕がムリな方向に曲がりかける。苦痛に思わず腕を持ち上げ
ると、そこに立っていた初老の男にぶつかり顔を顰められた。
「すいません」
 軽く頭を下げて謝罪をし、彼は閉まった電車の戸に背中を預けた。
 この満員電車に乗るようになって何年になるだろうか。長いこと乗っていて大変な目
にあったことは何度もある。若者に難癖をつけられ、少ない給料をやりくりしてようやく
得ることができた趣味用の金を持っていかれたり、酔っ払いに怒鳴られたり――しか
し、翌日には変わらぬこの満員電車に押し込まれる。
 その生活にもずいぶんと慣れた。
 電車に乗って、会社に行って、上司にいびられて、そしてまた電車に乗って、誰も待っ
ていない暗い家に帰る。
 これが今の生活のパターン。
 変えようと思ったことは何度かあったが、今やこれでないと落ち着かないのだろうか
――結婚も、転職も、することなくここまで生きてきた。
 自分が望んだことなのだから不満を言うべきではないのだろうが――昨晩は、自分
でも知らないうちに溜まっていた鬱憤が爆発したのだろう。
 それであんな占いの店に――
 彼は昨晩の占いの結果を思い出してため息を吐いた。
「……はぁぁ」
 怖くて結果は聞いていない。
 あのカードを見た瞬間に頭が真っ白になって家に帰った。終電はなくなっていたので
タクシーで、痛い出費を払いながら。
 一度出ると止まらない溜め息にさらに溜め息をつきたくなる。
 脳裏に浮かぶのはカードの絵柄。可愛らしい絵ではあったが――
「俺……死ぬのかな」
 死神はないだろうと。
 大きくDeathと書かれたカードを見た瞬間、人生が色々と終わってしまう気がした。タ
ロットには詳しくない――むしろ無知であるが、カードの雰囲気から察するにそういう意
味なのだろう。
 彼はもう一度大きく溜め息を吐いた。
 そして慌てて息を吸う。ただでさえ少ない幸福が逃げてしまったらこの電車ごと人生ド
ロップアウトしてしまうかもしれない。なんてことを考えながら。
 不謹慎かもしれないが本気でそう思ったのだ。


 ――あぁ、しかし悪いことは口にしないほうがいいものだ。
 どんな形でアレ自分に降りかかってくる。
 かれは信じられない現実を目の当たりしながら呆然と呟いた。
「え、あの。どういうことですか」


 死神がスーツ着て大鎌を振り上げた――なんてそんな事実はどこにもないが、状況
は似たようなものだった。
 上司の一言に彼は、元々あまりよくない顔色をさらに悪くした。
「だから」
 不機嫌そうに繰り返される言葉。
 そんなことってないだろうと思ってもそれは、彼の耳朶を叩く。
「明日からもう来なくていいよ。わかるでしょ?」
 分かりたくない、しかし事実なのだから受け入れなければいけない。
 その言葉に彼は呆然としていた。この会社のためだけに今まで頑張っていたというの
に、こんなにも簡単に目の前の全てが壊れてしまうのだ。
 明日からどうしよう。そんなことを思うよりも先に脳裏に浮かび上がる死神のカードに
恐怖した。あのカードが指すのは自分が社会的に死ぬということだったのだろうか。
 この年で無職となれば、再就職もままならないだろう。
 貯金もあまりない。金が無くなればアパートを追い出されていわゆるホームレスに。そ
したら気の弱い自分のことだ、食べ物をえることも出来なくてやがては痩せ細って――――
 彼は容易に浮かべることのできる未来予想図に言葉を失った。
「い、今まで……お世話に、なり、ま……なりました」
 震える声で告げども上司は不機嫌な顔を浮かべたまま。
 彼は今まで面倒を見てきた部下たちへの挨拶も忘れて部屋を出て行った。
 目指すのは屋上――死にたいという気持ちがないわけではないが、今ここで死ねば会
社に迷惑がかかってしまう。クビになったにせよ、そういうことで迷惑をかけるのはなんだ
か嫌だった。
 自分の内でしか通じない大人ルールなのかもしれないが。
 彼は屋上のベンチに腰掛けて空を仰いだ。こんなにゆっくりと空を見ることはなかった気
がする――しかし、気分はこの空のように晴れやかにはならない。
 こんなことならば結婚も、転職も、しておくべきだったのだろうか――
 今更だと思いながらも後悔が涙となって滲み出る。
「あぁ……明日からどうすれば……」
 頭を抱える彼の耳に蘇る黒衣の女性の声。
 何かを言おうとした声がうっすらと浮かんでは消えていく。追いかけようにも意識のすべて
が現在の状況に持っていかれて思い出すこともできない。
 どうしよう、どうしようとぼやいても解決できない。
「先輩? 珍しいッスね。こんなところで」
 背後からかかった声に彼は顔をあげた。酷く情けない顔をしているのだろう、まだ年若い
男は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに見慣れた笑顔に戻った。
「わかりました。先輩、リストラされましたね?」
 明るい調子で言われて胸の内に怒りが込み上げるが、今の彼にはそれを外に出す気力
も無かった。
「仕方ないッスよ。先輩は人がいいんスから、この会社じゃあやっていけないって」
「君、相変わらずズバズバ言うな」
 隣でタバコを吹かし始めた男が笑う。悪びれた様子が無いのは、この男が入社した五年
前とまったく変わらない。自分よりも出世して厳しい環境にいるはずなのに、ここまで変わら
ないというのはある意味凄いと思う。
 その男が自分に何の用があるのかと――口は悪いが、意味もなく他人に毒を吐く人間で
はないことを良く知っている彼は、その疑問を口にした。
「んー……先輩、割と真剣な話なんスけど……」
 男は、タバコを灰皿でもみ消しながら真剣な顔つきになった。その表情に騒がしかった頭
が静かになる。先ほどまで拾うことのできなかった声が近くなる。
「俺、この会社辞めて会社設立しようと思うんスよ。で、それにあたって優秀な教育者が欲し
くて……先輩、どっスか?」

――死神のカードは悪い意味ばかりではありません――

「い、いや。私なんて……」
「先輩が必要なんス。なんも知らない俺を立派に育て上げたんスから。
 他の誰がなんて言っても、先輩は俺の先輩ッスし、なによりも尊敬する人ッスよ」
 どこか子供じみたこの男の微笑。酷く苦しかった胸から重い息が漏れて気分が軽くなる。
 あの、黒衣の女性の声が脳裏に蘇る。それは、不吉でもなんでもない。
 少しだけ怖い顔をした死神が――カードが示す未来への暗示。
 彼は、少しだけ悩んで――


「……捨てる神あれば、拾う神ある……ってところか?」

 彼の口から出たのと同じ言葉を言われた。
 それに気がついて彼は、少しだけ困ったように笑った。
 すごく、久しぶりに笑ったような気がした。


 Working Death 13

 

 捨てる神あれば拾う神ある。
 執着からの解放により、彼は今ようやく自由に歩く足を得る。
 人より遅くとも、その歩みは誰かの元へと続いているのだろう。
 このカードの結末が必然であろうと、偶然であろうと。
 今、この瞬間より彼を取り巻く世界は何も言わないだろう。
 ただ現実だけを、その腕に。