白い花弁、舞い散る。
ガクが膨らんで種隠す。
この心のように。
隠してしまいましょう。
この想いも、この心も。
あなたへの想いのすべても隠してしまいましょう。
私を壊すほどに大切な想いなら。
あの血の花に隠してしまいましょう。
――誰にも触れられぬように。
夕暮れ。
黄昏時の空の色は恐ろしいほどに禍々しい。これを淋しい空と
表現する友人もいたが、彼女にとっては禍々しいもの以外のなに
ものでもなかった。血のような、すべてを染める強い色――
着慣れた制服のスカートを翻し、帰路につく。決して遠い距離で
はない、むしろ近いくらいだ。それでも彼女は足を速める。
見たいテレビがあるわけでもない。家に帰っても楽しいことなどない。
ただ――
この時間の全てが嫌いなだけ。
朱に染まっていく町並みも、自分の顔も。紅い全てが嫌いなだけ。
その、朱に染まった塀の奥から覗く顔が――
「やあ。偶然だね」
予備校帰り――制服のまま、ただもう一つ鞄を持って、普段は
かけない眼鏡をかけたその姿。知る人の少ない特別なその姿を
見るのがイヤで、見るのがイヤで。
自分でも煩わしいと思うほどにこの時間を避けたかった。
彼女は唇を噛んで、浮かびそうになった表情を殺した。
「…………」
言葉を発さずに、その脇をすり抜ける。
「待てよ」
「――!」
腕をつかまれ、彼女は顔をあげた。
朱に染まる、頬――あの日と同じ。
「シカトはないだろ」
学校では聞けないような冷たい声音。
自分しか知らないその姿が脳裏に過ぎる。
彼女は双眸を見開いた。
「……」
それでも、何も言わないまま。
言葉にすれば、すべてが出てきてしまう。隠してきた全てが。
「……まあ。いいけどな」
溜息を吐いて、その大きな手を頭に置く。
逃げようと身をよじるが、それは許されずに彼女の足はその場か
ら動こうとはしなかった。
距離が近い――見慣れた顔がとても近く、知っている匂いが鼻を
くすぐる。
「お前が何を避けてるかしらないけどな。
俺はお前を諦めたつもりはないぞ」
「…………」
一息、呼吸が乱れそうになった。
真夏の空気が気だるいくらいに暑くて、肌にじんわりと浮いた汗が
気持ち悪くて、掴まれた腕と、彼の手の間に汗が滲むのが気持ち悪くて。
似ている感覚を知っているから――?
「……っ!」
その手を振り解いた。
「茜。お前は――」
一瞬だけ、傷ついたような顔をした彼。けれど彼女は――茜はそ
の目を見ようとはしなかった。ただ、すくんで動かない足に走るよう必
死で命じた。それに応えるようにようやく足は動き出す。
その間にも、耳は不必要な情報を攫ってくる。
少し低い、耳に心地良い声は。
憧れていた声は。
「お前は、ほおずきかなにかか?」
いとも容易く、本心を見つけ出してしまう。
必死で隠している本心を暴いて矛盾に問い掛ける。
「……あの花は、私じゃない」
絞り出した声。
走り出す足。
声が遠くなっていく。
紅の空が揺れる。
記憶の中の白い花弁が散る。
あの赤い袋が。
あの中で時を待つ種が。
自分に重なって。
悲鳴をあげたくなった。
――ゴメンネ。守レナクテ……ゴメンネ――
頬を伝ったのは汗ではなくて――涙、だったのだろう。
幸せな時間を歩んでいた。
いつもの公園も綺麗に見えて。
平凡な日々の全てが輝いた。
どこで間違えた?
どこでこの想い出が壊れた?
あの赤い袋は何を隠してくれる?
何を――――
隠して失った?
「――ね、あかね――茜!」
何度目かの呼びかけに彼女は目を開けた。
白い服。
ベッドの上で眠っていたという自分。妙な喪失感に心が騒いだ。
「いきなり倒れて……ホントに心配したんだから!」
制服のままに泣きじゃくる友人。呆然とした頭では何も考えること
ができない。けれど、けれども感じる妙な喪失感に胸が苦しかった。
何かがない。
何かを失った。
その何かがわからない。
「ねえ……茜。あたしたち、友達だよね……」
嗚咽をあげながらの言葉。その言葉に彼女は頷く。
友人は顔をあげ、泣き腫らした目でまっすぐにこちらを見ていた。
――何を言おうか迷っている。けれど、言おうと決心した目。
白いベッドが冷たい。
白いカーテンが気持ち悪い。
白い天井が怖い。
つぶされてしまう。
この圧力に。
大切なものまで。
――大切なもの?
「茜の……」
茜はそっと、妙な喪失感を感じる場所へと手を置いた。
涙も――出なかった。
ただ時だけが過ぎて。
何も考えられなかった。
病室に見舞いにきてくれた大切な人の顔も見れないほどに。
喪失感と部屋の白に押し潰されると思った。
声も何もが聞こえない、ただ泣き声が聞こえた。
謝罪の言葉を吐くことも出来ずにひたすら自分を責めるしか――
大切な人が持ってきてくれた花。
血涙に濡れた、ほおずきの花が散る。
白い花弁、舞い散る。
ガクが膨らんで種を隠す。
この心のように。
隠してしまいましょう。
この想いも、この心も。
あなたへの想いのすべては隠してしまいましょう。
私を壊すほどに大切な想いなら。
あの血の花に隠してしまいましょう。
騒がしい午後の教室。
一年前はあんなにも輝いて見えたのに。
今はこんなにも汚い色。
「茜。今日は学食どうする?」
友人の問いかけに、彼女は軽く首を振った。
あの日以来、極端に口数の減った彼女を友人は見放すことなく献
身的なまでに傍にいて支えようとしている。それが分かるからこそ、
彼女はその気持ちを受け入れることができなかった。
同情で仲良くされるのが嫌で。
本来、そこにあった友情も霞んで消えて。
今はただただ弱い女の子を守る強い女の子の関係。
「そっか。じゃあ……明日は一緒に食べようね」
パタパタと走っていって。廊下で待っていたのは友人の恋人――
微笑んで、二人並んで歩いていく。
そんな光景に胸が苦しくなった。
騒がしい教室にいるのが耐えられないほどに。
茜はゆっくりと立ち上がって、教室のドアを開けた。
暑い――けれど冷たい廊下。そこには何もいなくて、行き交う人
たちも見えなかった。
あの日から消えない喪失感を抱いて、空虚なまま歩き出す。
「水城さん」
ふいに後ろから聞こえた声に、彼女は足を止めた。振り返ればそ
こには、保険医の姿があった。眼鏡をかけた知的なイメージは入学
当初から一度たりとも崩れたことがない。
その知的な顔に大人の女性らしい優しい微笑を浮かべ、
「最近の体調はどう? すこしは――」
「先生……」
すこし大きくなってきた、保険医の腹を見る。
守る姿を憧憬の眼差しで眺めたこともあった。あんな風になりたかっ
たと漏らしたこともあった。
その言葉に保険医は優しく微笑むだけ――言葉なんて必要ないほどに。
「なに? 水城さん」
大切に、大切に守ってる。
赤い袋で守ってる。
かつて抱いた未来へのイメージ。茜は矛盾に気付き始めた自己の欲
求を満たすかのように口を開いた。
「ほおずきの花言葉って知ってますか?」
彼の好きな花。
自分の好きな花。
花言葉なんて飽きるほどに聞いたけど――
「えぇ。色々あるけれど、先生は――ごまかし、偽り。で覚えてるわ」
「ありがとうございます――」
他人の口を経て、ほおずきが芽を出す。双葉が生まれ、茎が伸びる。
葉が――増えて。
背中を向ける茜を、保険医は心配そうな面持ちで見ていた。
憧れた未来の姿。欲しかった未来の姿。
彼は諦めていないと言った。それに甘えるのかもしれない。
今更だと拒絶されるかもしれない。
けれど――ようやくこの足は動くことを決めた。
ようやくこの想いは芽吹いた。
種のまま朽ちてしまおうと思ったこの想いは芽吹いて葉を増やした。
蕾ができるまで後もう少し。
水を、肥料を絶やさないでね。
大切な花が咲くまで。
もっと愛して。
大切な花が咲くまで。
もっと。もっと。もっと――
見知った道を独りで歩く。
あの頃は隣に彼がいた。
けれど、今は独り――捨てたのは自分。
絶望感からすべてを視界から消して。
孤独の中に身を置いて、すべてを憎んで。
それでいいと思っていた。
それが罰なのだと、守れなかった自分への罰なのだと。
愛されていた、愛していた、その絆が生み出したものを否定して。
ただ贖罪と酔っていた自分は――――
あの時、顔を黄昏色に染めて駆けつけた、彼の顔をまっすぐに見て
いなかった。
憎まれていると思い込んで。
彼の本当の言葉を見ることが出来ずにいた。
――お前はほおずきみたいだな。種を包んで守って、母親みたいだ――
あの慈愛に満ちた顔はウソなんかじゃなくて。
――お前は、ほおずきかなにかか?――
あの言葉の奥に隠された、本当の心。
彼が伝えようとしている言葉は――
逃げている、自分へ差し伸べる手の存在。
掴まれた腕は――いつだって、引き寄せて、抱き寄せてくれる。
憎んでいる相手を好きな花にたとえるものか。
失った、避けた、それでも――
あの、白い花を散らせる愛は生きていて。
今でも種を守る赤い袋を求めてくれている。
――いつも、あの場所で。
初めて会った場所を、今でも覚えてる。
真昼の空は頭が痛くなるほどに青くて。
不思議と心も晴れ渡る。
「珍しいな」
頭上から聞こえた声に茜は表情を強張らせる。
蕾が、もうすぐ。もうすぐ。
「一年ぶりか? ここにくるの」
眼鏡をしていないその姿。みんなが知る、その姿に軽い安堵を覚える。
弁当箱を傍らにおいて寝転んでいたのだろう。ネクタイが曲がっていた。
その顔を見上げて、茜は息を呑んだ。
すべての始まりはあの花――ほおずきの花。
すべての終わりもあの花――ほおずきの花。
咲かせましょう。
あの白い花を。
気だるい熱気に肌が汗ばむ。
息を吐いて、受け入れたあの日々を思い出すように。
二人で過ごした日々を想うように。
「一年。短かった……」
小さく、声を出した。
離れた位置にいる彼は、その小さな声に応えるように口を開く。
「何でいきなり喋る気になった?」
彼の言葉に茜は、軽く顔を顰めた。
罪に怯えるように、それでも息を吐くように言葉を紡ぐ。
閉じていた目を開いて。あの、優しい目を見詰めて。
「あなたが、私をあの花に例えたから」
大好きな花。
憧れの花。
恨めしい花。
あなたの愛したキレイな花。
「それだけのことか?」
どこか冷たい言葉。
けれど、次第に彼女の怯えは消えていく。
その奥の微笑を知っているから。
馬鹿げていると誰かが言うかもしれない。けれど疑う必要なんてな
かった、いつだって待っていてくれた。
あの優しいぬくもりを覚えているから。
「あなたにとってはそれだけかもしれないけど……私には、それだけ
じゃなかった」
白い花が散って、赤い袋で種を包んで。
成長を待つの。
外に出せるまで、袋の中で守るから。
「俺は前にも例えたよな」
「覚えてる」
大切なものを守る姿を似ているといわれた。
ほおずきみたいだと。
愛しそうに触れながら囁いた。
覚えてる。あの夏の日の夜も、あの幸福感も。
「でも、あの時は違う意味だった――」
心を誤魔化して。心を偽って。
今度は花言葉の意味で例えられた。
同じ花なのに。
その姿と、その言葉。
酷く、心に響いた。あの日以来動こうとしなかったことを責められ
た気がした。
責められると同時に、あなたは教えてくれた。
待っていることを。いつまでも、傷が癒えるのを待っていることを。
腹に手を当てて、彼を見上げる。
「ごめんなさい……」
呟いた声。
あの日には言えなかった言葉を今。
「……ずっと、言わなきゃって考えてたけど……できなかった」
病室に来てくれたあなたは悲しみを堪えて、励ますだけで。
深い愛情に罪悪感を感じて。
失ってしまったのに。壊してしまったのに。
そんなにも優しくてしないで。愛さないで。
その苦痛から逃れるために――
逃げるようにすべてを隠した。
「俺のいない一年はどうだった」
「色褪せた、写真のようだった」
日々の喪失感に、何もかもがつまらなく思えた。
「さっきのごめんなさい。は俺をシカトしたことに対してか?」
首を振って、口を開く。
「私が、ちゃんとしてなかったから。死んじゃった」
「違う。あれはお前のせいじゃない……むしろ」
「私のせい。守れなかった――ほおずきみたいに、守れなかった」
「……責めるな。自分をそんなに責めるな、お前には」
手が差し伸べられる。
その手をとって。はしごを上る。
懐かしい景色が広がる。
全てが愛しく思えたあの日々を思い出す。
「お前の責任は半分で、あとは俺のだろ。俺にも背負わせろ……
その喪失感を」
大きな手を腹に当てて喪失感を思い出すかのように彼は目を閉じた。
何もいない腹。
あんなにも楽しみにしていたのに。
両親を説得するんだと張り切っていたのに。
三人でいれば平気だと。
気だるい幸福感の中で囁いてくれたのに。
それらを忘れて逃げた。
あの種を失ったことも、逃げたことすらも。
すべて包み込んでくれる彼――
「……ありがとう。あなたこそ、ほおずきみたい」
涙の滲んだ目で微笑んで。
その唇に感じる体温に幸福を感じる。
優しく髪を撫でて、背中に腕を回して。
愛を囁くように体温が触れる。
そのぬくもりに蕾が膨らんで。
「光栄なこっだ」
悪戯をした子供のように笑って。
彼は耳元に口付ける。
軽く歯をたててその耳朶に舌を這わせれば、体に過ぎるのは気だ
るい熱気の記憶。
目を閉じて声を押し殺す茜の耳元で囁くのは――
「就職、決めたから。もう、何も悩まなくていいから」
優しい、愛の言葉。
未来に不安を抱かなくていいように。
ただ純粋に愛を語り合えるように。
大人になれるように。自分たちの両親がそうであるように。
「卒業しても、一緒にいよう。飽きるくらい……」
衣擦れの音が聞こえる。
誰かが来るかもしれないなんて不安はどこにもない――ただ、
背徳感はあった。
けれどそれも久しぶりの再会の前にかすんで消えて、
「飽きないくらい、新しい思い出を作ればいいよ」
絡めた指が熱を帯びる。
「そうか。そうしよう……」
「ありがとう……真崎……」
ヒザの上に乗って深く口付け口腔に残ったソースの味に笑う。
直接肌に触れる手の体温も、あの日々と変わらない香水の匂いも。
体を気遣ってくれる声も――
すべてが、優しい。
蕾が膨らんで。
開花した白い花。
純白の花嫁の花。
深い口付けに心を開いたのなら。
すべて開いてしまいましょう。
そのぬくもりの海に種をまきましょう。
赤い袋が育って。
種を守りましょう。
散った白い花。
赤い袋が種を包んで。
さあさあ。
愛し合いましょう。
この種、育つまで。
二人によく似た花が咲くまで。
とこしえに――愛し合いましょう。
ほおずきの花のもとに。