今年のみかんはすっぱい。
その酸っぱさにおもわず右目をつぶって、そこに映った大好きな
あの子の横顔に思わず口がニヤけた。
その顔を偶然見かけた母が、
「気持ち悪いわねえ」
なんて呟いたものだから。
彼は酷く不貞腐れてしまった。
すっぱいミカンをまた食べる。
背中がいじけている。
「大貴。今年は初詣に行かないの?」
台所で食器を片付けていた母親の言葉に大貴は――幾島
大貴
は体を強張らせた。
「あは、あははは……ははは……」
行けるはずがない。毎年毎年、一緒に行動してた友人が彼女も
ちになって、しかも今年は彼女と初めての年を二人で過ごすんだ(
はぁと)なんて言われた事を、言えるはずがない。
そんなことを言えば噂話が大好きな母親のことだ、物凄い剣幕で
聞いてくるに違いない。
そして言うのだろう――
――大貴は彼女とかできないの?――
ほっといてください。
「家でダラダラしてるのならお父さんを手伝いなさい。今年は樹も忙
しいんだから、アンタがやんなきゃ」
「えー……」
唇を尖らせて顎を程よく暖まった、コタツに乗せる。
「えー。じゃないの」
大貴はやや考えると、すっかり居心地良くなったコタツに別れを告
げようと、両手をカーペットにつけた。それと同時にポケットに入れ
ていたお年玉の袋が顔を覗かせる。
今年は五千円だった。やや物足りないが、親族の家に挨拶に行く
ときには倍以上になるのだからいいだろう。
それに、今年は兄の樹も成人したことから、彼からせしめることも
不可能ではないと思える。
大貴は口の中で笑みを噛み殺して、コタツから這い出た。
「父さんどこ?」
「庭でお餅作ってる」
「……は?」
母親の言葉に大貴は言葉を失った。
確かに庭はある。
しかし――おかしいだろう。
「うちんち、もちつき機じゃん」
「雰囲気を楽しみたいのよ」
「……風邪引くぞ」
「大丈夫よ。お父さんだもの」
やや広い、母の背中を眺めながら大貴は思った。
――去年、風邪引いてたよな――
これ以上、何を言っても無駄だと判断した大貴は、靴下で床を拭
くように、滑るようにして歩いた。冷たい感触が暖まった足に辛い。
床暖房にすればいいと何度か提案したが、そのたびに母親からバ
イトして買ってくれるの? と返されていた大貴は何も言わずに、だ
いぶ痛んだスニーカーをはいた。
門松が玄関に飾ってあるのは、昨夜が雨だったから――というこ
ともあるが、数年前にイタズラをされてから、この家の門松は室内
に飾られることが暗黙の了解となっている。
門松に刺さった人気アニメのぬいぐるみは軽くホラーであったこ
とを今でも覚えている。
「父さ」
「大貴! 美味そうな餅だろ」
父親の傍らには餅つき機。
近所の奥様がクスクスと笑いながら通り過ぎていく。
「……ちょっと、恥ずかしい」
「何いってるんだ。日本の伝統文化じゃないか」
「臼と杵使ってたらな。これ、絶対違うから」
「樹は就職しちゃったし、お前は手伝わないから……パパは淋しいぞぉ」
「……あ、俺……用事が……」
踵を返した大貴の肩を、父親が掴んだ。
「……大貴。パパと餅たべるよな?」
「ご遠慮……」
「お年玉……」
小さな呟きに大貴は硬直した。
こういうとき、大人はずるいと思う。
しかし、親一声に逆らえないのが子供であり――自分だと思う。大
貴は悔しそうに唇をゆがめながら、逃げようとする足を止めた。
――刹那。
軽快な音をたてて携帯が鳴る。
数日前にとったばかりの着うたは流行の歌ではないが、気に入っ
ているので何種類かのバリエーションがある。友人には馬鹿にされ
たが、思い出のある歌なのだと言い返しておいた。
「悪い、電話」
仕方ない、といった面持ちで手を離される。
大貴はウキウキとした表情で電話を手にして、鏡で見ていたら気
持ち悪いだろうと思えるほどの笑みを浮かべた。
「は――」
携帯電話を耳に当て、第一声を発するよりも前にその人物はソレ
を告げた。
「幾島くん?」
「はっ……はい」
少し、落ち込んだ。
確かに名前は、思い出深い名前なのに。
電話口で喋っているは別人だった。かといって、無断で使っている
のが問題な間柄ではない二人が、若干羨ましい。
そんな大貴の内心も知らずに、電話口の爽やかな声は言葉を続けた。
「聖園に内緒で携帯使っているわけだが。君は時間あったりする?」
「まあ……あるにはありますけど」
電話の主――この携帯電話の持ち主である、望月聖園の兄であ
り、大貴の学校の先輩でもある青年――望月敦詞は、少しだけ間
を空けて何かを考えているかのような素振りを見せた。
見せたといっても、大貴が勝手にそう思っただけかもしれないが。
「じゃあ、ちょっと学校まで来い」
「別に構いませんけど……なんですか?」
何が悲しくて冬休み真っ盛りの学校へ行かなければ行かないの
だろうか。
正月なので部活をやっている所もないだろう。人っ子一人いない
学校へ呼び出し――ここまで考えて、大貴は冷たいものが背中を
伝った気がした。
「いいから来い」
妹――聖園に対しては穏やかで優しい兄だが、自分に対しては
少しばかり態度が悪い。
大事な妹を――ということであるのなら。
「……俺、殺されたりしないすか?」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
「…………」
無言の時間が痛い。
大貴は言葉を失った。
「そんなはずがあるか。いいから早く来い、ボクは気が短いからな」
ブツッ。そんな音と共に電話が切られる。
あとは物悲しい電子音が聞こえるだけ。
大貴は迷わずに自転車へとまたがった。
「大貴?」
「先輩に呼ばれたから行って来る」
「大貴ー! パパ淋しいよー」
シカトすることにした。
今年は雪が降らなかった、ということに感謝しつつ大貴は遅刻し
そうなときのように、必死で自転車のペダルをこぐ。
あまりキレイではない自転車から嫌な音が聞こえて、少しばかり
不安になるが敦詞を待たせたことによる、報復の方が怖い。
大貴はなるべく何も考えないようにして、自転車を飛ばした。
正月という時期のおかげか、車道に車は見えない。
おかげで信号は彼の中で存在しないものとなった。
別に彼に何をされた、というわけではないが――せいぜい、聖園
の見ていないところで頭の上に蜘蛛の模型を置かれたり、同じよう
な状況で背中に氷を入れられたりしたくらいだ。
血の気が、失せた。
「やっと来たか」
校門で待っていた敦詞は、白いコートに白いマフラーという、妙に
白い格好で仁王立ちをしていた。白いニット帽をかぶっていたら、きっ
と何かのマスコットに見えたに違いない。
大貴は自分よりもだいぶ背の高い敦詞を見上げた。
「な、なんですか……用事は……」
その言葉に敦詞はメガネを中指で押し上げ、
「簡単なことだ。ボクたちと四人で初詣に行くぞ」
「……は?」
「まあ、聞け。
今日は聖園と二人で行く予定だったんだが、悪友が急に割り込んで
きた。三人では聖園が淋しい思いをする、しかしアイツを聖園に近づけ
るのは耐えられない。
というわけで君にした。君ならヘタ……じゃなくて。安心だからな」
物凄く失礼なことを言われそうになった気がするが。
しかし大貴はあえて何も言わずに、敦詞の話を聞いていた。
報復が怖い。ただそれだけである。
「――というわけで、今から初詣に行くぞ」
「……はぁ」
首をかしげて、敦詞の言った言葉を整理し始める大貴。
やや間を置いてから、その事実に喜びが滲み出る。
「え、聖園さんと一緒に初詣!?」
「聖園さん?」
「あ、いや。望月さんと、先輩と、初詣……」
慌てて言い直すが、顔にはもう気持ちの悪いくらいの笑みが浮かんで
いた。
敦詞が顔を顰めたのはそこが理由だろう。
「早く行くぞ」
踵を返して、さっさと歩き始めてしまった。
「は、はーい!」
あまりの嬉しさに手袋をしていないことによる寒さを忘れてしまいそうだっ
た。真っ赤になった耳も熱くて仕方がない気がする。
正月からこんなに幸せでいいのかなぁ――――
「まあ……人生、そんなに甘くないよな」
神社に着いた自分を待っていたのは、敦詞の友人という先輩――だけ
だった。
聖園は一足先にお参りをしてくると言って、そのままはぐれしまったらし
い。携帯電話は敦詞が持っているため連絡もとれない。
男三人で佇んで、晴れ着を着ているカップルの生暖かい視線を受ける。
「……岬。ボクは言ったよな」
「聖園ちゃんは……イカ焼き、嫌いなのか」
大貴は岬と呼ばれた先輩が、大量に持っているイカ焼きへと目をやった。
――なぜ、イカ焼きなのか。
そんな疑問が過ぎったが、それをぶつけるよりも前に敦詞の冷たい視
線が岬を貫いていた。
「幾島。無駄足だったようだな」
「いや……俺も、お参りしてきます」
イカ焼きを懐に詰められている岬と視線を合わせないようにして、大貴
は小さな声で告げた。神社の中から聞こえてくる喧騒にかき消されてしま
うかと思ったが、敦詞はその言葉を聞き逃さず、
「そうか。じゃあな」
とても冷たい笑顔で送り出してくれた。
岬の絶叫が聞こえる。
きっと竹串が刺さったんだ――どこかに。
境内でお参りをして、今年は一人なのだという実感に涙が出るかと思う。
周囲の喧騒とは関係のない自分。
微妙な一年になりそうだ――
そんなことを思ったと同時だった。
「幾島くん?」
しばらく、聞いていなかった声。
大貴は全力でそちらを向いた。
「みっ、望月さん!」
「やっぱり。会えるんて思わなかったからビックリした」
本繋がりで築き上げた友情のおかげで、喋り方が彼女本来のものになっ
ている。大貴は心の中でガッツポーズをキメながら、
「ぐ、偶然って凄いよな。えーと、あのな」
「そうだ」
聖園が笑みを浮かべる。眩暈を覚えるほどの、可愛い――
「一緒にまわらない?」
大貴は、全力で答えた。
「喜んで!!!!」
今年はいい一年になる気がした。
聖園と二人、きっといい一年に――
「――なったらいいのになあ……」
小さく呟いて、背中に当たる冷たい視線の主を見ないように口笛を吹いた。