闇色の空から降る。
 白き光。
 それらは大地に降りては儚く溶ける。
 体温なき、かの腕に触れては周囲の温度に耐え切れずに溶けていく。
 儚い白きもの。


 ――それは、ヒトの命にも似て。


 足元を霜が覆い尽くしている。体温ある生物だったならば、彼女が
生きていたのならば、身動きとることも、逃げることも諦めて凍死し
ていたであろう。
 それほどの冷気の中にいても、彼女はぼんやりとした表情のまま、
立ち尽くしていた。足元に積もった雪は、踏み潰されようとも溶ける
事はなく踏みしめられて硬い氷と姿を変えていくだけ。
 半開きの唇から漏れるのは、此処にはいない存在を呼ぶ声。
「カーイー……ン。アベ……ルー」
 血液など流れていないというのに、赤々とした唇の端から声と共に黒
い液体が零れる。それは顎を伝い、彼女が纏っている、所々破れたシス
ターの服へと染み込むとすぐにその姿を消した。
 闇色の衣服に溶け込み、まるで最初から存在しなかったかのように――
「…………二人……いない……」
 決して表情があるわけではない。けれど、その声はどこか落胆している
ようにも聞こえた。肩を落としているかのようにすら見える猫背が伸ばされ、
微かに感じた音への反応を見せる。
「あ……ぅ、……」
 光の入らない、赤とグレイのオッドアイがそちらを向く。
「……ニ……ンゲン」
 ヒトとは違う視界をもつ彼女の視界に入るのは、雪の中で青白い顔をして
凍えている少年。霜に捕われ、意識を失いかけているその少年へと、彼女は
手を伸ばす。
「た、た……すけ……」
 凍えすぎて美味く発音できないのか、ぼそぼそと、常人であれば聞き逃し
ていたであろう程の声で喋る。その少年の言葉を確実に聞き取った彼女は、表
情のない顔に僅かな変化を見せた。
 左右色の違うオッドアイが細められ、舞い降りる白きものを長い睫毛へと乗せる。
「望み……は……」
 感情の無い、冷たい声――否。それは音であったのかもしれない。
 冷たい風が頬を凪ぐ。
 銀色の髪が揺れて、額に刻まれた白と黒の紋様を外気にさらす。それに気付いた
少年は双眸を見開いて、黙り込んだ。
 数度、深呼吸を繰り返し――再び、彼女の額へと目をやる。
「……は、は…………ぁ」
 やがて、諦めたように息を吐いて、小さく呟く。
「……殺すなら……苦しまない、ように……お願い……します」
 少年の言葉に彼女は細めていた双眸を開いた。
「……偽り……」
 小さく呟いて、彼女は少年を抱き上げる。背丈はあまりない――年端の行かない
子供だった。冷え切ったその体を温めるには冷たすぎる己が体、しかし彼女は唇を
僅かに開いた。
 ――まるで、少年を安心させるかのように。
「――いあ……――くとぅぐあ……」
 彼女が呟いた言葉の大半は聞き取れぬ内容であり、少年は歯を食い縛ったまま、
彼女の顔を見ていた。その瞳は恐怖に歪み、自らの死を受け入れようと必死の形
相であった。
 刹那、激しい爆発音と共に視界の殆どが焼け焦げる。積もりかけていた雪は溶け、
周囲の木々までもが不自然な炎に燃え尽きている。
 漆黒の炎が周囲を嘗め尽くすかのように焼き払い、そして消える。残るのは見慣
れた、紅蓮の炎。
 言葉を失う少年。
 彼女は表情のない顔のまま、
「……火だけ、あら……がう……這い……よ……る……混沌……けん、ぞ……く……」
 意味の分からない言葉をブツブツと呟いて、少年の体をまだ火の消えていない茂み
へと投げる。
「ひぃっ!?」
 全身に熱が走り、少年は慌てて飛び起きる。
「あつっ、あちっ!!」
 衣服に火は燃え移らなかったものの、所々が焼け焦げている。火傷は免れたようだが、
毛先が少し焦げた少年は、激しい形相で彼女へと詰め寄った。
「焼け死んだらどうするんですか!!」
 死んだ瞳が少年を見ている。
 その瞳に自分の発言を思い出したのか、少年はバツが悪そうに俯くと、
「あ……結果的に……助けてくれて。ありがと」
 照れくさそうに呟いた。
 その言葉に彼女は何も答えずに、そのまま宙を仰いだ。光の入らない瞳は舞い降り続け
る白きものを乗せて、溶かすことなく積もらせていた。
 その横顔に魅入るように眺めていた少年。
 しかし、何かを思い出したかのように険しい表情を浮かべた。
「あ、あのさ……」
 言い難そうに頭を掻いて、彼女の服の袖を掴む。
「助けてもらってばっかで悪いんだけど……俺を、街までつれてってほしい、んだ。頼む、
金は払うから、俺を街の教会まで連れてってくれ!」
 彼女の服の袖を引っ張りながら、少年が懇願する。その姿に負けた――なんて感情をも
たない、人形のような彼女は表情を浮かべぬまま、
「街の名前……」
 とても淡々とした声で呟いて。
 ゆっくりとした動作で視線を少年へと向ける。
「え、あ、ロコル」
「……知って……る」
 白い――否、土気色をした腕が少年の腕を掴む。
 刹那、地面に六芒星の魔方陣が浮かび上がり、淡い黒の輝きを放つ。それは宙へと舞
い上がり、二人の姿を包み込んでいく。
 その輝きに呑み込まれるよりも前に、少年は声を張り上げた。
「お、お前……っ、名前は!?」
「……ユーリ」
「そっか。俺は、俺はシオン! 短い間だけど、よろし――」
 声は呑まれ、二人の姿が掻き消える。
 燃え尽きた木々と焼け焦げた大地の上を覆うのは、白きもの。すべてを隠すように降り
積もっていく。誰の足跡も、赦さぬかのように、幾層にも、幾層にも、降り積もる。
 その白きものたちを踏みにじる、鋼のブーツ。
 瞬時にして溶ける白きもの。
 足跡も全て消し去り、その下に眠る土を呼び起こす悪鬼たちが口を開いた。
「ロコル……か」
 小さくアベルが呟く。その呟きにカインが笑った。
「クク、ハハ。懐かしい名だな」
「笑い事か。――黄の印が暴走したら――」
 いさめるようなアベルの言葉に、カインは自信に満ちた赤とグレイのオッドアイを細めて
笑った。
「――ありえんな」
 二人の悪鬼の姿が垣間見え、それはやがて白い雪の世界にいることが苦痛であるかのよう
に、消えていく。最後に呟いたのはどちらだったか――



「……聖夜、……屍人形に、祝福を」




 鐘が鳴る。
 それは重々しい音色――人々の死を悼む嘆きの音色。
 仰ぐ人々の瞳には確かな絶望と、微かな希望が交互に浮かんでは消えていく。
 その者たちと距離をとって、姿を現した二人を包んでいた闇が消え去る。
「すげ……ホントに、魔術……」
 キラキラと輝くシオンの目を見たユーリは、ぼんやりとした表情のまま、鐘
を見上げた。そこに感情はなく、その行為自体にも意味はないのだろうと思えた。
 しかしシオンはキラキラとした笑顔のまま、ユーリの手を握る。
「俺たち、これからクーデター起こすんだ。協力してくれないか? お前がいれ
ば絶対勝てる、俺たち、自由になれる!!」
 握ったその手の感触に気付かなかったか、シオンは希望に満ちた笑みを浮かべた
ままユーリを見ていた。彼女もまた、ぼんやりとした表情のまま、
「……依頼」
 小さく呟いて、再び鐘を仰ぐ。まるで、過去に見たことがあるかのように――
「あら? いつのまに帰ったの、シオン」
 教会の裏手に現れた二人の前に現れるのは隻眼の女性。血の滲んだ包帯を体の
随所に巻いており、その全身からは血の匂いを発していた。
 包帯に覆われていない方の目、それがユーリへと向けられる。
 警戒心の強い女性だ。すぐにでも戦えるよう、後ろ手でナイフを握っている。
「シオン。その子は?」
 どこか刃物のような鋭さを帯びた問いに、シオンは嬉しそうに笑みを浮かべ、
ユーリを引き寄せた。
「俺たちの救世主! ユーリは、クリスマスのプレゼントにサンタがくれたんだ!」
 “ユーリ”この響きにピンときたのか、女性は目を見開いた。
「……ウソ、悪鬼の人形が、あたしたちの……味方に?」
 女性の視線はユーリの額へと注がれている。黄の印の有無を確認しようとしている
のだろう、アレは目立つと悪鬼も言っていた。
 悪鬼の人形――人間にそう呼ばれる彼女は、よほど有名なのだろう。いつの間にか、
ユーリの周囲には人垣ができ、そして数多の声が溢れ返っていた。勝利を確信する声、
死者への弔い合戦を望む声。
 その声の中、ユーリは死んだ顔のまま――
「……しょ……う……り、ちの、どく……はい」
 声として聞くには違和感のある声で、呟いたのだった。
 刹那――
「おい、なんで門まで兵士たちが攻めて来てるんだ!!!」
 誰かの声が響いた。周囲の歓喜の声が途切れ、途端に絶望が走る――誰が裏切った。
そんなことを聞くよりも前に、ユーリが跳躍する。人間にはありえない脚力で。
 表情一つ変えずに、まるで跳べるのが当然だといわんばかりに人垣を越え、驚いた
フリをしていた、小太りの男へと右手に携えた太刀を振り下ろす。
 断末魔も赦さぬ斬撃。血と肉片と化した男を、ブーツと一体化した黒い足が喰らう。
 溶かして、溶かして。すべてを喰らう。
 降り積もる白きものを染め上げる鮮血すらも呑みこみ、黒い足は嬉しそうに大きく
脈打った。
「……しょ……く、じ……」
 左手に、もう一太刀。
 銀色の輝きが怯える人々の目を焼いてしまう気すらした。
 たくさんの足音が聞こえ、鎧が動く音がする。
 勢い良く、開け放たれる扉。大勢の声が響き渡る。その声の中心へと跳んだユーリを
追って、シオンが叫んだ。
「続け!! 俺たちが勝つんだ!!」


 ――自由を。
 ――この、聖夜に。
 ――捧げよう。


「酷い有様だな」
 カインが笑う。教会の屋根に取り付けられた十字架は、今にも砕けそうなほどに古びて。
サビの浮いた、その姿には魔除けの効果などないように思えた。
 その十字架に背中を預け、繰り広げられている乱戦を眺めている二人の悪鬼。その片方
が口を開いた。
「たとえユーリがいたとして……民間人が兵士に勝てるはずがない。
 ――生き残る人間の総数が減っただけだ」
 アベルの言葉にカインが笑い声を上げた。そのとおりだと、腐った十字架を叩く。
 降り積もった純白の雪を赤黒く汚した戦いは、もうすぐ終結する。立っているのはユー
リと、僅かに生き残った民間人、そして――兵士たち。
「……英雄一人で、戦争が勝ち抜けると思ったのか? あの人間は」
 それはどちらの声か。冷たい響きは白きものと共に赤黒い大地へと降り注ぐ。
 二人の悪鬼のオッドアイが細められる。
 カインは歓喜に。
 アベルは悲哀に。
 教会の奥に残された子供たちが、歌をはじめる。それはいつもの日課、それは今日の為の歌。
 死者を悼む時間がやって来た。終わらぬ戦いを知らずに歌い始める。
 古びた教会の外には希望も何も無いのだと、知らない子供が歌う。
 請う、歌。祝福を、歌う――

「ユーリ、あと……あと少し、少し……がんばっ――」
 シオンの声を遮って、ユーリの太刀が兵士を斬り殺す。
 死んだ肉体は血を噴きながら、彼女に宿る黄の印に喰われ、消えていく。足元の雪はドロと血
に汚れ、儚さも、美しさもないように感じられた。
 それでも――
「……自由が、もう少し……もう、少し……」
 欲したものが、手に入ると思った。
 足元に倒れているのは隻眼の女性の亡骸。
 自由が欲しかった。
 自由が欲しいから戦っている。
 支配されるのは嫌だ。
 コエが聞こえる。
 ユーリは目を細めた。もっとコエを、もっと想いを。
 聞こえるこの歌を知っている。
 聞こえるこの想いを知っている。
「…………キリ……エ……」
 小さく呟いて。
 その声を掻き消すかのように、聴覚というものがあれば、それを失いそうなほどの悲鳴が上
がる。それと同時に、視界を遮る小さな体。
 その胸に深く突き立てられた、細い矢。
 血が滴り落ちて、雪を赤く染めた。純白の雪が真紅に染まっていく。
「……シオン……」
 ドサ、と重い音がして。その体が痛みにもがく。
 視界にある、肉片と化す前の人間の姿に、ユーリは動きを止めた。
「……な……ん……で」
 口から漏れたのは、彼女が持つはずのない言葉。
 屍人形は意思を持たない――知識を、求めない。
 けれど、彼女の口からは求める言葉が出た。その言葉に返すように、血を吐きながらシオンは
掠れた声を出す。
「……ごめ、お前……死んで、だよ……な。屍、人……形、有名。
 けど……けど」
 震える手が伸ばされる。
 ユーリはそれをとるわけでもなく、ただ見下ろしたまま。
「お前が、傷付く姿……見た、く……な……か……た」
 かすれる声。
 遠ざかる心音。
 知っている、これを。
「か……て、だよ……な……お……え、巻き込んっ……の、お……おれ……な、の……に」
 これはヒトの言葉で――
 これは――
 涙が滲んでいる。シオンの双眸に涙が。
「……も……すぐ……じ、ゆう……じゆう」
 口が勝手に言葉を吐く。
 それは、遠いどこかで知った言葉。
 遠い――遠い。
 あの、灰色の楽園を思い出す言葉。
「……あ、り……が……っ」
 大きく咳き込んで。
 その、大人とは違う小さな体が跳ねた。
 今にも泣きそうな笑顔を浮かべて。
 天へと手を伸ばして――まるで、請うように。
「――自由、を……主よ……憐れみ、たま……え」
 落ちる手。
 消える鼓動。
 湧き上がるのは何か。何ももたない人形になにが宿るか。
 心臓というものがあったのならば、それはきっと破裂していたであろう。
 体の奥が熱い――そんなイメージ。
 唇が震えて、夢中でその言葉を紡ぐ。
 約束、自由――二つの言葉が交錯して――――――――


「……シオ……ン……シオン……」

 歌が聞こえる。

「シオン……シオ、シ……オン」

 主よ、憐れみたまえ。

「シオン……」

 ――キリエ・エレイソン。

「…………」




 聖なる夜の空より舞い落ちる。白きもの、儚きもの。真紅に染まりてどこぞ逝く――



 歌が聞こえる。
 死を悼む歌が。

「シオン……シオン」
 主よ、憐れみたまえ。
 キリエ・エレイソン。
「シオン……シオ……」
 主よ、憐れみたまえ。
 キリエ・エレイソン。

 聖なる夜に降り積もる、純白の雪。
 白きものは真紅に染まりて、抱かれた命は消え果る。数多の願いすらも――道連れに。

「シオン……」
 聖なる夜の賛美歌が響く、遠く、遠く。
 白きものが舞い踊る。


 主よ、憐れみたまえ――


 キリエ・エレイソン――






「……ごめんなさい……」