――夢を見た。
 それは蝶を捕える夢。
 闇夜を羽ばたく、美しい蝶をこの手の中に。
 閉じ込め、押し潰す――夢。
 手の平に付着した鱗紛を愛しく感じたか。
 憎悪を抱いて、嫉妬に狂いたくなったのか。
 現実に身を置く今となっては、何一つとして分からない。
 ただ、言えるとするならば。


「お前は夢の中にいるのか?」


 大樹の幹に造られた空洞の中、琥珀色の蜜の中で眠る少女へと近づき、手を伸ばす。
神聖なる大樹はソレの侵入を拒もうと結界を張るが、名のない――意思を持ったばかり
の木が、ソレを拒むことは不可能であった。
 眠っている、少女の冷たい体を引き寄せて。
「何の、夢を見ている」
 答えぬ少女の胸には空洞。中にあるは混沌とした黒ばかり――臓器の存在しない、ヒ
トで在らざる者。骸を侵食するは母なる混沌の欠片の想い。
 数多の娘を糧に生まれた、望まれざる生命。
 その冷たき頬に唇を寄せて、ソレは眼を閉じる。

 ほのかな死臭、血の臭いは染み付いたもの。
 永い間――求めていた、探していた。
 あの、ほのくらい時代から――忘れることなく、探していた。




 血の臭いが好きだ。
 少年は血と肉に塗れた部屋で笑っていた。
 その手には、大人の扱うような銀の太刀が一振り。
 返り血に濡れた衣服は肌に張り付いて、発展途上な少年の体のラインを浮き上がらせる。
腕に付着した、赤黒い肉片を口へと運び、その味を噛み締めながら少年は狂気に満ちた笑
みを浮かべていた。
 ――それは、年端もいかぬ少年が浮かべるには邪悪すぎるほどの笑み。
「くく、くくく……いい気持ちだ。肉を斬る、この感触は」
 血と脂に塗れてもなお、切れ味の落ちることの無い剣――その刃を一舐めして笑う。
 腰を抜かしたか、つい数分前まで仲間であった者の亡骸の上に座っている、男が悲鳴を
あげる。よほど恐ろしいのか、その周囲には水溜りが出来上がり、なんともいえない臭い
を放っている。
「たす、たすけ……たすけてっ、ひぁぁぁああぁぁ!!!!」
 新しい血飛沫が迸る。それは高価な装飾を施された柱をよごし、まだ辛うじて息のある
兵士たちへと降り注ぐ。悲鳴が重なる。
「ふん、騒がしいな……死ね、耳障りだ」
 呟きながら、もう一振り。
 足を傷つけられて、逃げるに逃げられなかった雇われの兵士の軽鎧ごと、胸の肉が抉ら
れる。肉の奥にある臓物が裂け、血が噴き出る。濡れそぼった少年は、事切れた兵士が最
後に発した耳に残るような断末魔の絶叫に顔を顰めた。
 少年は血に濡れて、頬にはり付いた金の髪を指で払った。赤とグレイのオッドアイが逃
げ惑う兵士たちを睨む。とても、とても冷たい眼差しで。
「逃げるな。おまえら全員、おれの玩具になれ」
 死んだ肉に足を阻まれて転ぶ兵士たち。それらを背中から袈裟懸けに斬る。誰かが叫ん
だ――化物と。
 少年は笑った。
 どこまでも作り物のように整った顔に、異様な笑みを浮かべて。
「化物、バケモノ、バケモノ! くはは。そうだ、おれはバケモノだ! おまえらが奪っ
た純白の少女がおれの理性だ。
 すべてのひきがねをひいたのはおまえらだ!」
 咆哮――変声期を迎えていない、少年の高い声は逃げることも叶わぬ、死を待つだけの
兵士たちの絶叫に呑まれ消えていく。幾重にも重ねられる死の間際――何かを叫ぼうとす
る慟哭は、あたかもそれが一つの芸術であるかの如く響き渡り、少年が動きを止めるまで
絶える事はなかった。
 真紅の血が迸り、濡れた肉が落ちる。
 零れ落ちた眼球に愛しそうに口付け、少年はその口を半開きにする。
「おまえらがおれから奪うなど、死よりも重い罪だと知れ」
 八重歯だけが、以上に尖った歯。並びのいい歯列が眼球を噛み砕く。半分に割れた眼球
を投げ捨て、口の中に入ったそれを咀嚼する。
 まるで、美味しい料理を味わうかのように。
「くく、はは。くはは。はははははははっ!!」
 狂った笑い声を吐き出す少年。その足が死肉を、波打つ血を踏み締める。幼さを残す素
足には、すでに爪はなく。床に敷き詰められるようにして落ちている剣によってズタズタ
になってはいたが、少年はそれを気にした素振りも見せずに天井を仰いだ。
 頬を伝う血液は少しずつ凝固し始めて、赤黒い結晶となっていく――まるで、零れ逝く
涙のように。
「ま、ま……て」
 ふいに、その細い足首を掴まれる。震える手に力が入るのは奇跡に等しい、よほど運が
良かった人間か。
 その無粋な手を見下して、少年は銀の太刀を軽く振り上げた。顔に浮かんでいるのは、
全てを憎む幼子のもの。例えるならば――目前で、母を殺された、優しき子の、修羅の表情。
「な、なぜ……こどもが……そん、な……」
「おれだからだ」
 短く、一言で斬り殺す。
 新しい真紅の飛沫に頬が、鮮やかな赤に染まる。
 少年の顔が笑みの形にに歪み――そして少年は歩き出す。その足取りは決して急ぐわけ
ではなく、広い館内に充満する血の臭いと、初めてだというのに、まるでずいぶんと昔か
らそばにあったように感じる、肉を斬る感触に昂揚した横顔には子供のようであり、そし
て同時に子供と思うには、あまりにも狂気に満ちす
ぎていた。
 数多の亡骸に囲まれ、少年は自らの頬に触れた。噛み締めるように、その言葉を口にする。
「カイン。そう、おれはカイン。エルザがつけた名前だ。
 エルザ、エルザ。どこにいる? おれが来てやった。出て来い、エルザ」
 まるでかくれんぼをして遊ぶ、子供のように告げていく少年。そのオッドアイが部屋を見
回し、耳をすませる。
 周囲に生きた存在がいないと知ると、カインは広い廊下を歩き出す。広い館だというの
に、もう人間がいない。
「おまえ以外に隠れてるやつはいないぞ。あとはおまえだけ――」
 ふと、立ち止まる。まだ入っていない部屋の戸を見つけたカインは立ち止まった。半開
きの戸を見る、グレイの左目――赤い右目は髪に隠れ、見えなくなっていた。しかし、そ
のグレイの瞳は見開かれ、同じように右目も見開かれているのだろう、ということが容易
に想像できた。
 ここに至るまで、一度も太刀を手放さなかったカインの手から、太刀が滑り落ちる。
 声が、愉快だと思えるほどに震えていた。
「……エルザ、なにをしている」
 声が向かうのは、薄暗い部屋。部屋のレイアウトなんて関係ないといわんばかりに、中
央に設置された巨大なベッド。天蓋のついたそれに座り込んでいるのは、年端もいかぬ少
女だった。長い、銀の髪を汗ばんだ背中に張り付かせ、肩を落としてうつむいている。
 細く、下手な触れ方をすれば砕けてしまいそうな華奢な肩が震え、昼頃まで身につけ
ていた、白いドレスがベッドのスミに捨てられている。
 露になった白い肌に、赤い――鬱血のような跡が無数に浮かんでいた。
 カインは太刀を拾い上げて、その顔にかすかな笑みを浮かべた。友人へと向ける、優
しい――微笑。
「おい、エルザ」
 部屋へと一歩を踏み入れ、そのまま突き進む。ベッド付近へと歩み寄ったカインは顔
を顰めた。今までにかいだことのないような、異様な臭い。ゴミとか違う、生臭さに鼻
を塞ぎたくなるほどだった。
 カインはベッドの上に座り込んだままの少女の腕を乱暴に、引っ掴んだ。
「なんだ、この部屋は。エルザ、臭い。早くかえるぞ」
 強く掴まれたというのに、まったく反応を示さない少女――エルザ。その横顔は銀の
髪に隠れ、彼女がどのような表情をしているのか、まったく分からなかった。
 ただ、小刻みに震える手足は――何か、異常事態を想像せずにはいられなかった。
「おい、エル――」
 カインが口を開くとほぼ同時に、エルザの声が聞こえた。
「カイン……? アベル……? どこぉ、どこにいるの……?」
 ガクガクと震え、大粒の涙をシーツに零してはうわ言のように告げるエルザ。その緑
の双眸は何を映しているのか、限界まで見開かれていた。
「こわいの……すごく、すごくこわい……たすけて……」
「エルザ、おれはここにいるぞ。こっちを――」
 恐怖に怯えるエルザを呼ぶ、カインの言葉が止まる。息を呑み、赤とグレイのオッド
アイに浮かべられていた、感情が冷めていく。それとは別に立ち込めていく、闇。年端
もいかない少年の瞳に溢れるのは――胸が詰まるほどの想い。
 エルザが泣く理由を理解したわけではない。ただ、悟っただけ――魂が壊れてしまう
ほどの衝撃を。
 血を流すことなく、死んでいくエルザの慟哭を。
「エルザ……おまえは――」
 知らぬ内に、声が震えた。殺意にギラギラとしていたオッドアイが揺れる。
 その瞳に映るは、宝石のように澄んでいた美しい緑の瞳。
 何も知らなかった、虚無でしかなかった世界に優しく響いたあの声。
 このような世界に、天使という存在が実在したのだと思った。
 純白の少女――名を、くれた人。
「こわい……いたい……いたい……こわい、こわ……いたい」
 咽び泣くエルザ。真っ白な太ももには指のアザと、血。純白のシーツをも染める赤――
誰が、傷つけた?
 外傷の無いエルザが血を流す――その意味を少年は知らない。
 ――けれど、怒りにも似た感情を抱くことは容易だった。ただ、大切な者を傷つけられ
た恨み、壊された、恨み。
 冷え切ったオッドアイが、何かを失ったオッドアイが、まるで人間の眼球ではないかのよ
うな動きをする。
 開かれた唇が震える。紡ぎだされた声のなんと恐ろしいことか。
「――隠れてるつもりか? おれに、みつからないと思ったか?」
 瞠目する。
 真紅の眼球は蛇の如く瞳孔が縦に割れ、グレイの瞳は蜘蛛の巣状の膜を眼球に浮かべる。
 ヒトよりも美しい――否、ヒトに酷似した、作り物の顔。その本性を垣間見せ、バケモノ
じみながらも美しい、その顔に酷く歪んだ笑みを浮かべる。
 失ったものは――ヒトらしさ。
「殺して、やる。殺して。あぁ――そうだ。殺してやる」
 眼球を中心に、赤い蛇がうねる。
 それは実体をもたずに、透けた姿ではあったが、禍々しい気配だけは室内に充満しつつ
あった。
 憎悪に目覚めた少年が――否、少年であった悪鬼が唇を笑みの形にゆがめる。
 クローゼットの中から聞こえる、いびき声。どれほどまでに平和ボケした人間なのか、
顔を見てみたい気もしたが、カインは好奇心よりも――復讐心を優先させた。それは、興味
のあるものには全力で向かって行ってしまう彼には珍しいことで。
 その怒りが、それほどなのだと思った。
「よかったな、目が覚めたらおまえはブタになっているぞ。
 おまえに似合ってる……くははは!」
 声すらも変わって。
 変声期を迎える前の少年らしい声ではなく、狂気を孕んだくぐもった声。
 網目状の戸のついたクローゼットへと、太刀を刺し入れる。迷わず、躊躇わず。その太
刀に呪詛をこめ、その肉の薄い唇で呪怨を囁く。短い呻き声と共に、太った中年の男貴族
が戸を破り、倒れこむ。
「ぐぅっ、ぐ……だず……ぐぁぁ、じに……だぐ、な゛っ……」
 血を吐きながら、悶えながら、自らの喉を掻き毟りながら苦しむ貴族の男。慌てて身に
纏ったのか、高価な装飾品のついた衣服は乱れ、それすらも血で汚していく。何かを掴も
うと伸ばされた手が、ジタバタともがく足が、人間ではなく獣の――豚のそれになっていく。
 ただ、搾取されるためだけに存在する、哀れな牙無き獣へと。
 人間の声を失い、豚らしい鳴き声をあげている貴族であった豚を見下し、少年は笑う。
「エルザは、おまえにやらん。エルザは魂まで、おれのものだ」
 太刀を振り上げる。
 怯えた豚の絶叫がこだまする。
 短く、カインは告げる。
「――おれから奪うことは、だれも許されない。もう二度とな」
 斬り付けられた豚の体が膨れ上がる。まるで風船かと思ったそれは、体中の穴という穴
から血液を噴出し、眼球を飛ばし、四肢をもがれ朽ち果てていく。赤黒く染まった絨毯
の上に落ちる肉片を死臭に呼ばれてきた、餓鬼たちが貪り始める。 それらをすべて無
視して、カインはエルザへと振り返った。
「エルザ。おまえは言ったな」
 涙を流し、嗚咽をあげ続けるエルザの頬へと手を伸ばす。昨日――エルザが微笑んで、
怒って、泣いていた日々にしたように、彼女の笑みを引き出したかった。しかし血に塗
れ過ぎた手では、ただ悪戯にエルザの真っ白な肌を汚すだけ、その魂までもを汚してし
まう気がした。
 ぬめった感触が頬を撫でても無反応なまま、泣き続け、ぼやき続けるエルザ。その涙
を拭うことすらできない手を、カインは見詰めていた。人間と同じ容をした手――何も
できなかった、無力な手。
 カインは表情を硬くし、エルザへと顔を近づけた。抱き締めるようにして耳元へと唇
を寄せる。
 あの優しい香りはどこへ消えてしまったのか。
 感じるのは、あの男の腐臭だけ。カインは全てを吹っ切るかのように告げた。
「人間は苦しいと辛い、辛いと悲しい、悲しいと苦しい……と。
 おまえは悲しそうだ。壊れたのか? ……聞く必要もないな」
 太刀が、薄暗い闇の中で鈍く光る。抱き締めて、せめてその顔を忘れさせないで――と
でも言うように、真正面から顔を見たまま、カインはエルザの背中へと手を回した。
 ――銀の太刀を携えた、手を。
 もう、元には戻らない。もう、戻れない、あの頃には。
 耳元で囁いて。
 カインはそのオッドアイを濡らす感情に気付かぬまま、純白の天使を彷彿させた少女を
抱き締めた。額に浮かび上がる、白と黒の混ざり合う紋様へと口付け、
「……眠れ。おれはおまえを追う――おれが、死んでも」
 誓いを。
 その血塗れた銀の太刀に、騎士の誓いを。
 


 血に塗れ、死臭漂う館に火を放つ。勢い良く燃え盛る炎の中で佇むのは二人の少
年。片方は作り物のような顔から表情を消したカイン。もう片方は、怒りに打ち震えて
いるようだが、その容姿自体はカインとまったく同じであった。 
 細い肩を震わせ、真紅に染まったベッドに横たわって眠っているエルザを見て、歯を
食い縛る。
 必死で紡ぎだした声は――震えていた。それが怒りでも、悲しみでも、最早カインに
は興味の無いことだった。
「兄さん、どうしてエルザを殺す必要が――」
「アベル。おれは決めた」
「兄さん……?」
 アベルの呼ばれたカインの弟は、兄と同じオッドアイを見開く。
 散々、同じ時間を過ごしてきた兄の変わりよう。無愛想で、性格の悪い兄ではあった
が――エルザとアベルに危機がふれば、文句を言いつつも救ってくれた、優しい兄の顔
が消え果てた。
 その横顔からは憎悪しか感じられず。
「おれは世界を混沌に帰す。エルザが二度と苦しまない世界だ」
「兄さん、それは……」
 振り返って、狂気に満ちた笑みを浮かべるカイン。その顔を見据えるのは同じオッド
アイであっても、兄とは違い理知的な光を宿した静かな眼差し。アベルは俯いて、そ
れでも何かを決意したかのように告げる。
「兄さん。それは違うよ……エルザはそんなこと望んでなかった。エルザは……兄さん、
ぼくはあなたを止める」
 それは離別を示す言葉。
 長い間一緒に過ごしていた時間全てを失う、喪失の言霊。
 けれども、もう立ち止まれない。アベルは顔をあげた。
「ぼくは、エルザが好きだって言ったサスラを守る。兄さんから、守る」
 弱々しくなど無い、力強い声は一人の男――騎士に相応しい声。アベルの言葉にカイン
は笑みを浮かべた。
 ――この世界に、畏れるものなど一つも無い。とでも言わんばかりに。
「やってみろ」
 唇が笑い、双眸が細められる。そこから失われた理性と、情。すでに人間をやめてし
まった兄を――ヒトではなく、本来の姿として生きることを選択した兄を知り、アベルは唇を噛み締めた。
 遠い時代の、呪縛を聞いた。
「あぁ。やるよ……ぼくだって」
 鏡を隔てて、道が別れた。





 始まる、兄弟の争い。
 始まる、再び混沌に帰する旅路。
 動き始めた歯車は砕けながら、壊れながら、それでも動きつづける。
 紡がれた運命の糸は残酷なまでに“きょうだい”を争わせる。
 光と闇が入り乱れ――

 すべては混沌に。




 幾度となく繰り返される戦乱は、常に人々の歴史に刻まれつづけ、その傷痕が癒えるよ
りも前に、また新しい戦乱が訪れる。それは人々が混沌へと帰還することを無意識の内
に望んで行なう行為――長い時間を生きた、この世界そのものが消えようと働く。
 すでに忘れた、創造主――神の名を求めて争う。かつて、神に背いた者たちが争う。
 血の流れ戦場で自らを洗い、そしてまた――返り血で自らを穢す。
 穢れきった人間たちを嘲笑うかのように、ソレは人知れず動き出していた。
「お、おい……なんか、変だぞ。今回の……!!!!」
 何気なく口を開いた一人の年若い兵士が事切れる。それは敵軍の攻撃などではなく、
人間の扱っている武器なんかとは、比べ物にならないほどの切れ味をした銀の太刀が、
返り血に塗れて光る。
 それを携えるは漆黒の鎧を身に纏った青年。顔の半分近くは兜に隠れてはいるが、
その顔が作り物のように整っ
ていることは明らかだった。
 その整いすぎた顔にニタリとした笑みを浮かべ、手にしている太刀に付着した血液へ
と舌を這わせた。
 狂気を孕んだ笑みを浮かべるのは、赤グレイのオッドアイ。
「かぐわしい香りだな。供物には丁度いいと思わんか?」
 なぁ――と同意を求めたか、独り言か、隣に佇む少女へと告げる。首をかしげて、ぼ
んやりとした表情を浮かべている少女の肌は全体的に土気色をしており、決して生きて
いるとは思えなかった。
 むしろ、近くに転がっていく骸と同じに見える。
 獣の毛皮で作られた丈の短い衣服には返り血がこびり付き、元はふわふわしていたろう、
獣の毛を固まらせていた。
 騎士の言葉に反応し、唇を動かす少女。
「……血……の……ど、くは……い。ささ……げ」
 抑揚のない声で言葉を紡げば、その手は人間らしい動きなど一つもせずに、関節なんても
のが存在しないかのように振り上げられる。手にしているのは騎士と同じ銀の太刀。しかし、
それは小柄な少女らは不釣合いであり、到底片手では扱えないように感じられた。
 しかし少女は振り上げた太刀を片手で軽く握ったまま振り下ろす。
 呆気に取れられていた兵士の兜を割り、その下の頭蓋を断ち切る。鮮血の飛沫は少女の太
刀を赤く濁した。
 その様子を見て笑う騎士。
「くく……見ろ、ユーリ」
 笑いながら、返り血を浴びた手で少女の銀の髪を掴む。痛みを感じないのか少女は騎士と
対になるかのような、左右対称の色をしたオッドアイで空を仰いだ。
「人間は俺たちを畏れてるぞ。近寄ってこようとすらせん」
 騎士の言葉に少女は何も返さず、ただ虚ろな眼差しで逃げ惑う兵士たちの背中を眺めて
いた。濁った瞳でソレが見えているのか、その瞳孔は開いたままで生者ではなく、死人の
ソレにしか見えなかった。
 半開きなった口から零れ落ちるのは死を悼む言葉でも、食事を求める唾液でもなく――
「喰え」
 短い言の葉。騎士の告げた言葉に呼応して、口から飛び出る一匹の漆黒の蛇。それは大口
を開け、奥の奥まで漆黒に満ちた舌を伸ばし、牙剥いて、異常事態に腰を抜かした兵士を頭
からかじりつく。
 刹那、上半身が消え、それを追うようにして下半身が消える。身に付けていた武具すべて
をも道連れに。
「あぁぁあ、あ、あぁ!!! 悪鬼だ、悪鬼が……悪鬼が来ちまった!! 軍なんてしてる
から、悪鬼が血の臭いを嗅ぎつけてきた!!」
 仲間が喰われた瞬間を目撃してしまった兵士が叫ぶ。しかし、その躯もすぐに蛇に喰われ、
その声だけが風に残る。
 何も残さない、儚き肉体が消えていくのを眺めながら、騎士は笑う。
 歪んだ、笑みを浮かべて少女の頭を揺さぶる。
「悪鬼……くく。どうとでも呼べ、人間」
 オッドアイから垣間見えるのは蛇の姿。少女とは違う真紅の蛇が、ゆらゆらと陽炎のよう
に揺れている。
 戦場を這う巨大な蛇は、まるで古の文献に出てきた大蛇の如く、首を枝分かれさせ、頭を
増やしては人間を喰らっていく。生きた人間も、死した人間も、関係なく。
 ただ貪り食っていく。
 そうして喰らえば喰らうほど、ユーリと呼ばれた、死体にしか見えない少女の額に刻まれ
た、白と黒の混ざり合う紋様が強く脈打つ。その紋様は、歴史上にある消失事件に何度も関
わっている、曰くつきの物と酷似――否、そのものであった。
 数百年も昔に、民から評判の悪かった貴族の屋敷を中心に起きた消失事件。数多の少女を
高値で買い取っていた、人買いの街の異名を持つレッド・フックが丸ごと消失した事件でも、
空に溶けていく白と黒の紋様を見た、という声があがっている。
 同時に褐色の肌と銀髪をした少女が、空を舞うのを見た――そういった目撃例があるが、
定かではない。
「くく、はは。そうか、エルザ……貴様も嬉しいか」
 白と黒の混ざり合う紋様を指先で撫でながら、騎士は笑う。
「貴様を蝕んだ“黄の印”も玩具と考えれば悪くない……くくく」
 “黄の印”そう呼ばれた紋様は、運ばれてくる供物を呑みこんで、大きく脈打つ。まるで
中で何かを育てているかのように。
 笑っている騎士の足元が歪む。血の染み込んだ大地から姿を現すのは、漆黒の髪と漆黒の
鎧を身に纏った騎士。
「カイン……エルザの望みは――」
 そう、呟いた声は剣戟に消えて、二人の太刀が火花を散らしながら鍔迫り合っていた。金
属の擦れ合う、嫌な音が耳に。散る火花は目に。それぞれに印象付けながら、二人は大きく
立ち回る。その間にも、ユーリの口から伸びていく漆黒の蛇は、戦場を駆けていた人間を次
々と喰らっていく。
「アベル、か……くく。また来たのか、愚かだな」
 暗い笑みを浮かべ、顔を近づける騎士――カイン。その真向かいに立つ、アベルはまるで
咆哮を上げるかのように吼える。
「カインほどではない――」
 太刀が弾かれ、二人の距離が開く。だかべ、すぐに互いの距離を狭めると二人はまったく
同じ動作で太刀を振りかぶった。ぶつかる太刀と太刀、刃と刃。想いと想い。
 カインの金の髪が、アベルの漆黒の髪が、不自然なほどになびいて炎のようになる。
 それを傍観しているユーリは全ての人間を喰らい終えたか、死んだ眼差しを向けたまま、
漆黒の蛇を再び飲み下していた。額に刻まれた白と黒の混ざり合う紋様が、淡い光を放って疼く。
 それを知らぬか、アベルは鍔迫り合う双方の太刀を睨み、その奥にいるカインを睨んだ。
 あの日から、兄弟二人。別の道を走ってる。
「カイン、お前はどれほどの人間を斬った」
 アベルの言葉にカインは嘲笑を浮かべた。
「数えてどうする? 死を悼めとでも言う気か?」
 同じ動き、同じ速さ。同じ力――まるで鏡と戦っているようだ。否、鏡なのだろう。
 同じ道を歩いていた二人は別の道を、別の結末を望んでここにいる。
 かつて、遠い時代の混沌の双生児が闇と光に別れていたように、この双子もまた――光
と闇、相対する存在へと変わってしまったのだろう。古の、そして今世の呪怨によって。
 争う二人を眺めるユーリのオッドアイに、淡く。すぐにでも消えてしまいそうなほどの
生気が宿る。
 その唇が何かを囁いたが、それは誰にも届かず――消えていく。
 すぐに死んだ眼差しへと戻ったユーリは、口から顔を出している蛇を手でしまいこんだ。
「エルザが哀しむとなぜ、理解しない!」
 アベルの言葉をカインは鼻で笑い、
「貴様が俺を理解しないのと同じだ。俺はこの世界……サスラを混沌で満たすことを決めた」
 あの日とは、違うオッドアイ。
 もう、あのヒトはいないのだということを思い知らされる。
「だから……這い寄る混沌の眷属を遣うのか」
 脳裏に過ぎる、兄の姿が、昔の兄の姿が迷わせる。
 しかし、もう変わらない。戻れない――二人が目前に、ソレが有るということは。
 アベルの視線はユーリへと向けられる。同じように彼女を見たカインが、酷く残酷で冷
徹な笑みを浮かべた。
「混沌の双生児がもたらした、外界の玩具だ。かの門は閉ざされていなかったようだな」
 青く――澄み渡る、空。
 この空を覆う、門を覚えている。五芒星の刻印の門を。
 アベルは湧き上がる感情がままに叫んだ。
「私たちの母は、望まない。エルザが世界の滅びを望まぬように。
 ――ウボ=サスラはニャルラトホテプの降臨を望まぬ!」
 その叫びにカインもまた、同様に声を張り上げる。
「俺たちの父がどうしたか。アレは眠る神、動かん神に価値はない!
 ならば動く神を遣えばいい――外界にてたゆとう混沌を喚べばいい!」



 ――すべての、死と、引き換えに。



「なぜ、なぜ! こうなってしまった、兄さん! 私たちが再び生まれた理由はこんな
ことをするためではない!! あの方は監視者として、戦いを望んだわけではない。ヒ
トとしての生を――――――」
 あの日に全てが狂った。壊れた歯車が降り積もる、二人の姿を隠して嘲笑う。
 狂気に満ちた瞳は人間が作り出したもの。
 あの娘は鎖だった。
 ヒトと、混沌を結び付けておくための。
 鎖が砕け、解放された混沌が暴走する。
 すべてが――無に還る。 

 闇の混沌はカイン。
 光の混沌はアベル。

 目の前で笑う兄は、あの古の時代に死した――闇の混沌と同じ顔をしている。
 殉ずる覚悟を決めた――儚くも、憎らしい、愛しい、愚かな笑み。
「ヒトとして生きる? 生きているだろう? 俺は戦乱が好きだ、混沌が好きだ、ただ
一人の女を愛して生きている……貴様よりもずっと、人間らしいと思わんか? なぁ……」

――アベル――
――ロイガー――

 二つの名が重なる。一つは古、一つは現在――滅びた外界より降臨した、混沌の欠片。
 兄弟が争う運命を、呪縛をこの世界に撒いた元凶。寄り添い、生きてきた双子を破滅
させる、呪怨。
 あの日から――巻き込まれていた。ヒトとの繋がりを破棄した、あの時から。

 アベルは顔をあげる。決意を――初めて、愛した人の生きた世界を美しいままで。
「……兄さん。私はサスラを守る」
 カインは前を向く。終末を――初めて、愛した人を失わせた世界を消し去ろうと。
「俺はサスラを壊す」

 二人の視線がぶつかり合う。あの、幼い日々には戻れない。
 二人が手にした銀の太刀は戦いの証、遠い過去に混沌を殺したように、今度は二人を殺しあう。
 分かり合う日など来ないだろう――
 この、銀の刃が互いを刺し貫く、その日まで。

 一閃。どちらのものかも分からぬ血飛沫。立ち尽くすのは、純白の少女に酷似した、骸
にしか見えない少女。倒れこむその躯を見下ろして、抑揚のない声で告げる。
 それはどちらの耳に響いたか。
 戦場に炎が舞う。それは恐ろしいほどの勢いで燃え盛り、何もかもを呑み込んで行く。
 全てが消える。それはまるで――あの、幼い日々が消えたときのように。


 手に触れるは冷たい死肉。
 それでも求めずにいられないのは、それが同じであるから?
 宿す混沌は同じであれど、模したヒトは違う。
 冷たい死肉の手を掻き抱いて。
 ソレは口を開いた。


――善悪の彼岸……相対する存在ゆえに、正しいなど分かるはずがない。分かるのは血の温
度と、肉を斬る感触。貴様が正義で俺が悪か。
 俺が正義で貴様が悪か……何で決めるという? 誰が、決める?
 分からんだろう? 俺は悪でもかまわんがな。混沌さえ在れば――




 大樹の中で眠っているかのように見える少女。その躯の所々が黒ずんでいるのは腐敗で
はない内側を侵食する黒い蛇――すなわち、混沌の影響。この大樹で眠るは、その身をヒ
トに保つため。最低限、その混沌を包む皮の袋がヒトであればそれでいい。
 ヒザを抱え、眼を閉じているユーリを見ていたカインは、ゆっくりと立ち上がった。
「行くぞ」
 その短い言葉が、大樹を砕く。
 琥珀色の蜜が流れ出し、衣服を纏っていないユーリは恥じらい、という言葉を知らない
のか死んだ眼差しでカインを見上げ、何も言わずに頷いた。
 あれほど疼いていた白と黒の混ざり合う紋様――“黄の印”が大人しくなっている。
 死がなければ、侵食は進み続ける。
 人間では脆弱すぎたのだ、器には。ゆえに、大樹に縁ある人間が多く選ばれたのだろう。
 未熟児が産まれぬよう、その身と外界にてたゆとう混沌に、たっぷりと供物を捧げるために。
 人間の母親が、孕んだ子を慈しむように――
「次は西で戦争が起きるそうだ。供物が集まるぞ」
 栄養を、新たな生命に。与えるが為、人々は争う――サスラが、選択をはじめた。
 死んだ眼差しで一点を見詰めるユーリ。その唇が、言葉を紡いだ。
「……蝶」
 抑揚のない声――だが、単語として聞き取れたその声に目をやれば、そこには闇夜を羽ば
たく金色の蝶。
「……ふん」
 興味など、最初から無かったのかカインはすぐに蝶から視線を外した。オッドアイに映る
のは、全裸のまま蝶を見ているユーリと闇に包まれた、神聖なる森の木々ばかり。
 ――闇の中を舞う、金色の蝶。蝶を、潰す、夢。
 捕まえ、羽をもいで、潰す。
「ユーリ」
 大きな手が、ユーリの手首を掴む。
 何をされるかなんてことは考えないのだろう。死んだ眼差しのままカインを見ているユー
リは、己の手首の異変になど気付かないかのように、まっすぐにカインを見ていた。 
 黒い手袋をはめた、手の上を黒い肉が這う。
 思いのほか、簡単に潰れたユーリの手首。皮膚が裂け、押し出されたのは黒い肉――人間
の肉とは全然違う、血の通わないスライム状のものが地面へと落ちていく。
 それらは地面を這い、カインの手を這い、ユーリへと還っていく。
 まるで地を這う虫のようだと笑いながら、カインは再生されていく腕を握っていた。
「ユーリ、貴様の見た夢の中で、俺はアベルを殺していたか」
 トドメを刺しそこなった、愚かな弟の顔が思い浮かんだか。
 カインは淡々と告げた。
 その問いにユーリは答えない。それは分かりきっていた。
 ただ――――――


「ユーリを善悪の彼岸に立たせ、彼女に決めてもらう」


 突飛過ぎる、言葉を吐いた弟の姿が、その言葉が何度も脳裏を廻っていた。
 殺しそこなった理由は分からないが――トドメをさすための太刀が振り下ろせなかった。
 何か、縛られていた気がする。
 カインはそれらを笑い飛ばすかのように苦笑を浮かべた。

「ふん。勝手にしろ」


 大樹の幹に寄りかかる、弟の姿。
 人間からすればカインが悪か。
 人間からすればアベルが善か。

 そんなもの――どうでもいい。


 善が悪に堕ちるも、悪が善と崇められるも。
 すべてはうつろい、消えていく。
 一人を殺せば罪人で――百を殺せば英雄となる。
 個を滅せば悪となり――全を滅せば混沌となる。
 やがては消える善悪、今は悪と罵られ疎まれる。
 誰もが忘れてしまった、古い時代に存在した――サスラにとっての悪、不完全なる混沌にとっての善。

 すべては――混沌に溶けて消えていく。



「悪と呼びたいのなら悪と呼べばいい、あの、混沌の双生児のようにな。
 定義づけなければ不安で仕方ないか? 愚弟、ずいぶんと人間に染まったものだな、つまらん奴だ」


 青年は唇に笑みを浮かべ、血塗れた太刀を振り下ろした。