―二つの混沌に響くシチリアーノ―


 螺旋描く世界の列。
 その中央には、世界となりうる娘を産み続ける大いなる母――否、それは父で
もある存在が在る。それは始まりの混沌にして、終わりの混沌である。
 生まれた混沌の娘たちは世界を創造し、気の遠くなるような年月を生きる。
 そして――やがて、“死”を迎え、母へと還る。

「お母様、アブホースお母様、お久しぶりです」
「お還りなさい……愛しい私の欠片、あなたは何を見たの?」

 母子の会話は繰り返される。
 ただ――その混沌だけは違った。

 生まれてすぐに球体となる娘たちとは違い、永い時を平たい海のまま過ごした
娘。他の娘たちの声も、音も、鼓動すらも聞こえない深遠の闇の中で――ずっと、
孤独であった。
 混沌ではなく、闇としか言いようのないそれは永き孤独に疲れて果てていた。

――サミシイ……サミシイ……ヒトリハイヤ……ヒトリハ……――

 零れるはずのない涙は波紋を浮かべ、揺れる水面の波がぶつかり合って弾
ける。
 それらが繰り返され、一度、大きく黒い水のようなものが跳ねる。
「母様? 何を泣いておられるのですか?」
「母様、淋しくなんてないでしょう?」
 跳ねた雫の一つは少年に。
 跳ねた雫の一つは少女に。
 対を成すかのような色彩の少年と少女は、互いに微笑み合って揺れる水面
へと手を伸ばす。
「私はカオス、母様の子」
「僕はケイオス、母様の子」
 二人の手か合わせられ、浮かべられる笑みは母を求める子供の笑み。
「母様が寂しいと嘆くならば、私はその孤独を埋めましょう」
「母様が寂しいのなら、僕は兄様と一緒に門を造りましょう」
 寄り添う、双生児。
 不完全なる混沌の娘が孤独により生み出した、対の双子。
「這い寄る混沌――」
「ニャルラトホテプ」
 二人の声が重なる。
「混沌の双生児、ニャルラトホテプ母様のため、旅立ちましょう」
 水面が揺れて――二人の姿が掻き消える。
 再び静かになる黒い海。ニャルラトホテプという名を思い出した混沌は、小さ
く――泣いた。




 数多の人間を率いる、神童と呼ばれる子供がいた。
 金の髪にすけるような白い肌。青い瞳は空の色そのもの。
 少年は穏やかに微笑んで、民たちを率いては他の部族を潰していく。
「さぁ、救いの手を彼らに。母様の御許へと還ることが唯一の救いなのですよ」
 少年の言葉に数多の民――信者たちが声を張り上げる。白い衣服を纏った
少年と同じ衣をまとい、その手には一振りの銀の太刀を持って、その白が赤に
染め上がるまで戦う。
 抵抗されようと、無抵抗であろうと、かまうことなく。
 その様子を眺めていた、褐色の肌と銀の髪をもつ赤い双眸の少女は、傍らに
佇む側近の青年へと顔を向けぬまま呟いた。
「ツァール、キミはどう思う? 僕たちの存在を」
「私は……私は、己が役目をまっとうするだけです」
 黒い鎧を身に纏う青年へと振り返り、少女は銀の髪を手で払う。
 浮かべられた笑みはすべてを見下すもの。この世界のすべてを道具としてしか
見ていない、その眼差しに射貫かれ、ツァールと呼ばれた青年は動きを止めた。
「キミはバカじゃないみたいだね。悪くないと思うよ……そうだね、兄様もそう思うよ」
 ちらり、と壇上で信者たちに演説をしている兄へと目をやる。
「母なる混沌へ帰すため、私たちは刃をとります。
 すべては救済がため――さぁ、行きますよ」
「ほら、どうやら出撃のようだよ。行くかい? ツァール」
 ふわり――屋上から飛び降りる、少女の姿に信者たちが声をあげる。
「ケイオス様だ!」
「闇の神童が――」
「カオス様と瓜二つって本当なのね」
 向けられる声は、決して歓迎されるものではない。
 それもそうであろう――
「光の兄様の半身、闇のケイオス。キミたちに力を与えに来たよ」

 この世界の人間は、闇という言葉を嫌う。

「皆さん、ケイオスの力を抱いて私の言葉を胸に」

 光は疑うことなく信じる、愚かな子羊たち。

 その魂は母様の孤独を癒す玩具となる。
 漆黒の混沌の海を満たすは、金色の魂。
 螺旋の世界に生きるヒトではなく、離れた外界に在る創造主の違う世界。
 この世界の住民は“サスラ”と呼んだか。
 ケイオスは唇に笑みを浮かべ、青く澄んだ空へと視線を向ける。広い空に走る
亀裂は稲光の如く、人々の記憶に深く刻まれた。
 外より這い出た侵入者を神童と崇めるほど、暖かい頭をもった人間たち。
 民にする、というならば拒否したであろう。しかし、必要なのは民ではない――
魂。それも一時の間、そこに身を置いて休まるだけ。
 ヒトからヒトへの転生のサイクルを行なう場所として、母様の御許を訪れればいい。
 それだけのこと。その刹那の時こそが母様を、孤独に喘ぐ混沌の娘を癒すこ
とができる。
「ケイオス、任せましたよ」
 兄――カオスに手を握られ、ケイオスは微かに微笑む。
「うん、任せてよ。兄様」
――たくさんの玩具を母様へ――
 二人の誓いは胸に。
 心臓という、鼓動を奏でるものの存在しない、空虚な場所へと秘めて飛び出す。
 ケイオスを筆頭に、その傍らにはツァールを。
 砂漠の向こうへと走り抜けていく、妹の姿を見守っていたカオスは静かに残っ
ている信者たちを聖堂へと集める。二つの方法で玩具を集めると決めた。
 ケイオスは戦場での死人の魂を。
 カオスは――
「今日の洗礼者は決まりましたか?」
 カオスの言葉に、一人の少女が前に出る。
「貴女ですか。アンドラダ……貴女は、頭の良い子でしたね」
 カオスの手が少女の頭へと触れる。
 アンドラダと呼ばれた少女はまっすぐな瞳でカオスを見詰めていた。
「カオス様、あなた様からは私の信じる神に似た香りがいたします。今は浅いお
眠りに就かれていますが、あなた様たちの訪れでいずれ目覚めましょう」
「アンドラダ、貴女の信じる神の名を教えてくださいませんか?」
 嬉しそうに微笑むアンドラダ。幼い修道女の手には黒い石の欠片――
「ウボ=サスラ様です」
 アンドラダの言葉にカオスは瞠目する。
「カオス様……外界より訪れる、混沌の双生児をウボ=サスラ様はどう思ってお
いででしょうか?」
「さあ、私には関係のないことです――アンドラダ」
 刹那。
 アンドラダの姿が掻き消え、金色の球体が浮かぶ。それを掴み取ったカオス
は、瞑目して言の葉を紡ぐ。その言葉に導かれるようにして消えていく魂を見守
ることなく、青い瞳が聖堂に集まっている大勢の信者へと向けられる。
「眠りの時間が訪れます。滅ぶよりも、私と共に新たな世界を見たい方は目を閉
じてください」
 戦場で死に行く人々の魂を回収するより効率は悪いが――確実に、魂を回収する。
 それがカオスの選んだ方法。それを望む人々の魂を生きたまま取り出し、母様
の御許へと贈る。魂を抜かれた人間は消滅するが、苦痛も何もない。
 戦場に出ない、女子供には適した方法だとケイオスは笑っていた。
「私たちはカオス様と共に在れるのならば――」
 信者たちの言葉にカオスは口元に笑みを浮かべる。
 まるで天使のような微笑に、信者たちがざわめく。
「ありがとうございます――みなさん」

――愚かな人間。それでも魂だけはいただいておきますよ……母様のために――



 天を刺そうと上を向く槍の塔。貫かれた人間が力なく手足を投げ出して、血の雨
を降らす。その足元には塔には登れずに力尽きた人間たちが、転がっている。
 血の臭いというものが理解できないケイオスには感じることのない死臭。
 傍にいるツァールはどう感じているのか、表情を引き締めたまま何も言わない。
「ツァール、キミは何が見えてる? この赤い世界で」
「……役目を、まっとうする時が訪れたのではないかと……思いました」
 ツァールの瞳の色が変わる。
 その様子にケイオスが笑う。
「あぁ――やっぱり、キミはいいね。僕を楽しませてくれる」
 浮かべられた深い笑み。その幼い子供の顔が銀の刃で削られる。
 一瞬の出来事に反応ができなかったのか、わざと避けなかったのかの判断をす
るよりも前に、削がれたケイオスの顔が黒い液状のものへと変質し、地面へと溶け
込んでいく。
「酷いよ。僕の顔を……せっかく、母様が造ってくれたのに」
 削られた部分を補うかのように黒い何かが蠢く。
「……ウボ=サスラ様と同様の、混沌より生まれ出た存在。私の役目は――」
 告げている最中のツァールの体を地面から生えた、黒い棘が貫く。棘を伝う赤い
鮮血にケイオスが口笛を吹いた。
「へぇ。ウボはキミたちに人間と同じ肉体をあげたんだ?」
 新しく造られた顔を手の平で確認しながらケイオスが問う。
「じゃあ……魂も、あったりするんだ?」
 金の髪を掴んで引き寄せる。屈んだ体勢のツァールは苦痛に息を漏らしながら、
棘から腕を抜こうと必死でもがいている。
 しかし、深く突き刺さった棘には丁寧なことに、返しまでもがついており、もがけば
もがくほど――その傷を深いものへとしていた。
「キミの魂なら僕も楽しめるね。おいでよ? 母様の御許に」
 人間と同じ、腕が――褐色の肌が夜の闇の如き黒へと変わる。骨も筋肉も関係
ない、触手のような腕が漆黒の鎧を這いずり、侵食し始める。
「けっこう気に入ってるんだ。キミのことは」
「う……ぐ、わ……私、は……」
 鎧を突き抜けて、肉体への侵食を始める。体内の奥にある魂に触れようと蠢く。
それは苦痛は伴わなくとも、異物感に吐き気程度はおぼえるであろう。
 顔を顰めるツァールを見上げ、ケイオスは満足そうに笑う。
「苦しい? 人間は大変だね。苦しい、とか痛い、とか」
 赤い瞳に闇が潜み、唇に浮かべられた笑みが消える。
「あぁ、でも。母様は混沌なのに、神なのに、寂しくて苦しい、んだ。不思議だね、僕
にも兄様にもないものが母様にあって、母様にあるものがキミたちにあるんだ。
 ずるいなぁ。兄様は光だから迷わない。僕も闇だから……って思ってたのに。キミ
を見ていると変になりそうだよ。同じ、混沌から生まれた存在なのに」
 ケイオスの右手がツァールの左腕を引き千切る。鮮血が迸り、ケイオスの銀色の
髪を赤く染める。頬に付着した血液は顎を伝い、首筋を伝って落ちていく。
「あぁ。分かった。これが羨望とかいうやつだね? 僕はキミが羨ましい。流れる血
潮の暖かさも、感情のもどかしさも知ってるキミが羨ましいんだ」
 ――同じ人形のくせに、生意気だよね。
 ケイオスの双眸が見開かれ、その姿が人間ではないものへと変わる。
 その姿はツァールの記憶にあるものと同様である――混沌の姿。ウボ=サスラと
よく似たその姿は及ばないながらも、それに近い力を感じる。
「逝くよ。あの門を越えて母様の御許に」
 顔だけが浮かぶ混沌の娘の姿。
 棘に捕らわれた体が、冷たい黒に覆われていく――刹那。
「兄を連れて行くことは許しません」
 銀の刃が突き立てられて。人間と違って急所の存在しないケイオスは笑みを浮
かべたまま触手を伸ばした。
「キミも双生児? 名前を教えてよ」
「ロイガー……覚悟を、闇の混沌。光の混沌は今ごろ、我らが始原にして終末で
あられる、あの御方によって滅されていることでしょう」
 ロイガーと名乗った、もう一人の漆黒の騎士にケイオスは笑った。
「あははっ。キミに何ができる? できたとしても相討ちがいいところだよ」
「それで――いいのです」
 迷いのない瞳。
 人間とは違う、けれど人間と同じ瞳。
 ケイオスは真紅の双眸で二人の姿を見比べた。
 そして――
「いいなぁ。羨ましいなぁ……人間って」
 消え入りそうな声で呟いた。
「母様に頼んだらしてくれないかなぁ、なってみたいなぁ……人間に」
 触手がロイガーを捉える。侵食していく触手に恐怖を感じているのかいないの
か、ロイガーはツァールへと手を伸ばしながら、口の中で何かを紡いでいた。
「私は……ウボ=サスラ様以外の混沌に帰するのも、悪くないと……」
「――ははっ。言ってくれる」
 口元に笑みを浮かべて。
 ケイオスはツァールとロイガーを完全に呑み込んだ。
「あー……こういう、こと?」
 口から何かを吐いたように気分になり、手を当てるが何も付着しない。ただ――
 ケイオスは青い空を仰いだ。
「死ぬ、って……こんな感じなのかぁ。やっぱり、人間になってみたいなぁ……僕」
 人間の姿に戻ると同時に視界が揺れた。
 何も見えなくなり、何も聞こえなくなった。


「ケイオス……?」
 空を仰いで、カオスが呟く。
 遠くの空から聞こえる爆音――ランダルフェンと呼ばれる場所に向かった妹の
気配を感じ取れなくなったという事実に、カオスは少なからず動揺していた。
「……すぐに、私も母様の御許へ向かいましょう」
 顔をあげ、懸命に祈りを捧げている信者たちへと両手を伸ばす。それは黒い網
へと変わり、信者たちの頭上を覆っていく。
「……母様……私たちをお迎えください」
 溶け始めるすべて。
 ヒトがヒトの姿でなくなり、カオスの腕の中で溶けていく。
 漂うのは金色に輝く魂。
 意思を秘めた魂はすがるようにカオスへと寄り添い、混沌の海を泳いでいく。
「母様……ケイオス、もうじき――」
 目前まで迫る門。カオスが手を伸ばすと同時に、音が途切れる。
「侵入者よ……おいたが過ぎたようだ」
「ウボ=サスラ……?」
 脇を通り過ぎていく魂たち。目の前で門を通り、母様の御許へと還るその姿を見
ながら、自らもそうしたいと言うのに身動き一つできない状態のまま、カオスは口を開いた。
「私を、どうするつもりですか? 始原にして終末」
 カオスの言葉にウボ=サスラは笑みを含んだ声で告げた。
「最も残酷な罰を与えてやろう……光の混沌、そなたと闇の混沌に争いの運命を」
「――私と、ケイオスを……? やれるものならやればいい……あれは、闇そのも
の。何にも染まらない、迷わずに私を解放してくれます」
 まっすぐなカオスの言葉にウボ=サスラが笑った。
「そうであればよいな……ふふ、ふふふ」
 今までに見た闇よりも深い闇が訪れる。
 光を隠してしまうほどの強い闇。
 囚われた光は次第に浸食され――何になるというのか。
 ただただ、耳に聞こえるは母の声。

――お還りなさい、混沌の一欠片よ――
 

 金色の海。
 人々の魂で溢れた母様は数多の声が響く中で、微かに残った自我で死んで還っ
てきたケイオスを労わるかのように抱き締めた。
「母様……」
 小さな声で呟く。
「僕、人間になりたい……あの世界で、人間になりたい。いいかな? 母様」
 手を伸ばせば、共に道連れにした騎士と手が触れ合った。
「兄様も、つれて還るから……お願い」
 波が寄せて、ゆらめいて。
 母様は優しい声で告げた。
――行ってらっしゃい……可愛い、私の子。きっと還ってくるのよ――
 人間味を帯びた母の言葉にケイオスは満面の笑みを浮かべた。
「ありがと、母様。いってきます」
 母にキスをして、旅立つ。




 小さな村で女の子が産声を上げる。
 喜ぶ父と母。
 二人の愛情に包まれて、陽の元に誕生した赤子は学者である母によって名づけられた。

「この子は……ケイオスがいいわ。きっと賢くなるわよ」
「そうか、ケイオスかー……ケイオス、いい子に育てよー」

 サスラのランダルフェンに誕生した一人の赤子。
 語り継がれる神話の中に存在する名前と同一の女児。
 今はただ――温かい腕に抱かれて眠る。
 母の御許で、そうしていたように――――