それは酷く美しく、酷く儚く。

 触れてしまえばたちまちに壊れてしまうようなもの。

 はらはらと舞い落ちる紅の葉は、黄昏の空を仰ぐ少女の額へと降り立つ。

「まったく……カインは私が言っても聞かないのだな」

 その木の葉を取り払い、漆黒の騎士がぼやく。

 その言葉に少女は首をかしげた。話を聞くよ――そう、言うかのように。

 騎士は少しだけ困惑すると、少しだけ――本当に少しだけ微笑んだ。

 「アフトゥ、お前の死んだ肉に傷はついてないか? 無事なら景色を見てくるといい。

  私はここで待っているから、一つだけ。キレイなものを持ってきてくれ」

 小さく頷いて、歩き出す少女。その背中を見ていた漆黒の騎士が苦笑する。

 「アフトゥ……か。しまったな、あの双生児に毒されていたようだ」

「そうだな。あれはアフトゥではない。巫女の一族のユーリだ」

 いつの間にか隣に立っていた、金の髪をもつ漆黒の騎士。その頬をつねりながら、

 「彼女を見ていろとあれほど――」

「俺といるほうが危険だが――いいのか?」

 ――鈍い音が、山頂付近の山小屋で響いた。

 

 赤。

 戦場で触れる赤とは違う赤。

 何も感じることのない、死んだ皮膚と肉で構成された手の先にあるのは、

大自然の恵みの一つ。森の動物たちの食料でもある木の葉を拾い上げ、

陽に透かして見ていた。

 ぽかんと半開きのままの口の端から、唾液でも零れ落ちないとものかと

思いそうなものだが、そういったものが存在しない少女は、感情のない顔

で何度も何度も繰り返して木の葉を見ていた。

 好き嫌いを言わず――否、感じない彼女が唯一、好んで入っていく場所。

木のたくさんある場所へ連れて行けば、彼女は何かを思い出すように、探

すように歩き回る。

 陽が暮れ、闇が訪れるその時間まで。

 それを知ったうえで彼女を一人で散歩させた、漆黒の騎士の心遣いに気

付いているのかいないのか少女は、なるべく傷のついていない木の葉を選

んでは陽に透かせて見ていた。

「あら。珍しいところで珍しい子に会ったわ」

 頭上から聞こえた声に顔を上げると、少女は左右色の違う瞳を少しだけ見

開いた。銀色の髪が隠している、額の白と黒の渦のような紋様が軽く疼く。

 「あなたでしょ? 不完全なる混沌の母より生まれ出、混沌の双生児が造り

出した、這いうねる混沌によって死んだまま活動を続ける――屍人形さんは」

 額の紋様が疼く。

 頭の奥で誰かが叫んだ。

「恐がらないでよ。あたしは偶然、旅行しにきてるだけのアザトースの欠片だから。

 ほら、あなたを造った双生児のお母様も、這いよる混沌の欠片だものね、わか

るでしょ?」

 告げられていく言の葉。

 それを理解しているのかいないのか、少女は感情のない顔、体温を感じさせない

土気色の顔のまま、サヤをつけずに背負っている二本の太刀へと手をかけた。

 「あら? あの子たち、教育してないのかしら――? そうよね、いくらなんでも……」

  アザトースの欠片――そう、告げた女性の白魚の如き美しい指が、少女の額の紋

様を突く。  まるで、そこに心臓というものがあるかのように疼く紋様は、微かに熱を

帯びていた。

「まあ。造ってそのまま放置なんて……あなたは物入れじゃないのにね」

 微笑まれ、元々呼吸をしていないのに息苦しい気分になる。

 ――これは。この、肉体の持ち主の知っていた感情を探り出す。

 死体に寄生した、擬似的な心。それが持てることのない感情を、探り出す。

 「悔しい、とか思わない? 弄ばれて腹立たしい、とか」

 甘美な囁きは耳の奥に響いて、それは聴覚とは違うもので音を認識している少女の

頭を揺さぶった。額の紋様が疼く、疼く、熱を帯びて、まるで生きた人間に変化するの

ではないかと思うほど、全身が発熱していた。

 少女は無意識に、手の中の木の葉を握り締めた。

 握り締められたか弱い木の葉は、少女の冷たい手の中で跡形もなくなっていた。指先

が、不自然に黒ずむ。

「まあ。凄いわね、造られた存在なのに混沌と同化してるの? アフトゥ、あなた一緒に行

かない? 私と二人で外の世界に。きっと楽しいわ」

  まっすぐに向けられる笑顔。

 ずっと昔にも同じ笑顔を見たことがある。

 それは――それは。

 少女は光の入らないオッドアイを見開いて、

 「わた……し……は……」

 上手く紡ぐことのできない言葉を懸命に吐き出した。

「なに? アフトゥ。私と来たほうが、楽しいことができるわよ」

 「わた……巫女……いち、ぞ……く」

 震える手はすでに人間のそれとはまったく別のものになっており、指の一本一本はなくな

り、黒く太い触手が肩から生えているようにしか見えなかった。

 その触手を指先で撫でながら、アザトースの欠片は唇に妖艶な笑みを浮かべた。

「それは、その屍のことでしょう? あなたはアフトゥ、混沌の双生児が造り出した這いう

ねる混沌なのよ」

「ちが……」

 首を振る。感情のない、本人の意思など不必要とされる、屍人形に存在するはずのない

ものが頭をもたげる。赤とグレイのオッドアイには、存在するはずのない涙か浮かび、呼吸

をしない口は大きく開かれ、細い両の肩が上下している。

 その姿にアザトースの欠片は不思議そうに目を丸くした。

 「あなた……本当に、造られたアフトゥ?」

 しなやかな指先が額に触れる。

 熱い。熱い。熱い――

「――やだ、なに……この子」

 ずるり、と顔が落ちる。凹凸のない、黒い卵のような、顔であった場所には赤とグレイの

オッドアイと黒と白の混ざり合う紋様が残っている。

 纏っていた、黒い何かの動物の皮で作られた上着が、滑らかな象牙のような――決して、

皮膚ではない何かの上を滑り落ちる。ドレス状に広がっている、足であった場所には頭皮と

一つになった銀色の長髪と、マスクのようにも見える顔。そして――

 漆黒の滑らかな表面には、苦悶の表情を浮かべた数多の少女の顔が浮かび上がっていた。

 「暴食ね。不完全なる混沌は、ずいぶんと贄を欲するのね。あなたは物入れというよりも

――食料庫だったのかしら」

 アザトースの欠片の指先が苦悶の顔を浮かべている少女たちに触れていく。触れれば

それは、くぐもった声でうめく。まるで今でも生きているかのように。

 何かを求めるかのように、黒い触手が地面を叩く。そのたびに地面に降り積もった木の

葉が黒い触手に取り込まれ、呑み込まれていく。

 まるで何かを探しているかのような仕草だというのに、実際に行なっているのは無差別な

食事。その姿は不完全な混沌――双生児の母を思わせた。

 「ふぅん……アフトゥ。あなたも不完全なのね。ま、私が楽しければいいわ。きなさい」

  卵のような頭部を鷲掴みにするアザトースの欠片。掴まれた場所を見ようと、オッドアイが

ギョロリと動く。

 「あ、う、う、う、う、う!!」

 「なに!? 何をするの! 不完全にアフトゥ風情が、私に!」

 左右の黒い触手――先ほどまでは腕であった場所がアザトースの欠片に絡みつく。同性か

ら見ても魅惑的だと思える四肢に絡み、その人形のように整った顔へと張り付いた。

 「この……っ!! 面白そうだからつれて還ろうと思ったけれど……赦さないわ」

 きつくつり上がった双眸はかろうじて、人間の姿を保ってはいるが人間と呼ぶには図々しい姿

へと変わり始めていた。

「アザトースの姿を見たものには破滅を――」

 凛とした声が途中で止められる。

 アザトースの欠片の腕が震え、その震えは全身へと伝わっていく。

 「……なに、これ……」

「あは……あはぁ、あははは、あははははは、あははははははっ!!!」

 黒い表面に浮かび上がる、顔の一つが盛大に笑い出す。

「囚われた囚われた! 世界の法則に囚われた!」

 「もう戻れない!」

 「仲間が増える、囚われる!」

 次々と声がこだまする。

 それは周囲で舞い落ちる、紅葉した木の葉を血の雨と間違えそうになるほどの狂気を

振り撒いて――アザトースの欠片の戦意を完全に失わせていた。

 「閉鎖世界……? 外から侵入者を受け入れた理由が、そんな……計算外よ。そんな……」

 立つ力すらも失って、その場に座り込むアザトースの欠片の耳元で誰かが囁く。

 「……そういうこと。そういうこと……不完全な、双生児」

 口の中で何かを呟いて、滑らかな漆黒へと手を差し入れる。どこまでも続く闇に抱かれるよ

うに、女性らしい躯が沈んでいく。

 上も下もない黒の海。

 そこで聞こえる声は――――

「あら……そう、そういうこと。あなたが本当のアフトゥ?」

 夕暮れ。

 迎えたのは漆黒の騎士。

「傷はないか? いや、むしろ逆か……」

 一人でブツブツ言い出す漆黒の騎士の鎧へと、手を伸ばす。

「どうした、ユー……」

 「……きれ、い……」

 差し出されるは薄紅色の花。確か名前はコスモスと言ったか――

「はは、ありがとう。ユーリ……お前はこの花がきれいだと感じたのか」

 「……秩序の……花」

 「――」

  光のない、死んだ眼。そこに一瞬だけ宿る光。

 生きた人形――そう呼ばれるだけではない。生きているんだ。

 そう言い聞かすようにして、漆黒の騎士は少女を抱き締めた。冷たい、氷を抱いているよ

うだった。それでも――この世界で知りうる存在の中では一番暖かいと知っている。

「アベル、秋の味覚とやら食いたい」

 戻ってきた金の髪の騎士。少し間を空け、悪戯っ子のような笑みを浮かべる。

 「アベルも男か。だが、ユーリは渡さん。行くぞ、ユーリ」

 伸ばされた腕を漆黒の騎士が叩く。しばらく二人で睨み合い――刹那、ほぼ同時に抜刀する。

 騒がしい二人を見ていた少女はやがて、秋晴れの空を仰いで目を閉じた。

 「……いい、色。風も……いい」

 いつか理解できる日を信じてる。

 優しい色の木々が包んでいる中で、少女は密かに微笑んだ。