色とりどりの花火が夜空に舞う。それはまるで大輪の花――そう言えば
隣に座る祖母も微笑んでくれるだろう。
 少年は薄笑みを浮かべて、浴衣をまとった祖母を振り返った。
「おばあちゃん、楽しい?」
「あぁ………楽しいよ………」
 嬉しそうに微笑んで、祖母は細い目をさらに細めた。
 夜空に浮かぶ花火の音はやまず、極彩色の花は咲き乱れる。
 今年がこの田舎で過ごす最後の夏――少年は夜空の向こうにあるらしい
都会を想って目を閉じた。

 どこにでもある理由から祖母の家で暮らすようになった少年を快く受け入
れた村の人々。彼らはまるで家族のように彼に接してくれた。それがどれだ
け当時の彼を救ったかなど誰が覚えているだろう。
 今はただ、去り行く友を悲しんで、その先にある幸福を喜んで。
 見送るだけ。
「いいのに…みんな、仕事あるだろ?」
 遠慮がちに告げた少年の肩を少女が叩く。野良仕事で焼けた褐色の肌が彼
女の性格を物語っている。
「何言ってんの!! アンタが都会行くなら見送らなんと淋しくなるでしょ」
「先生も一緒に来てくれたよ」
 対照的な、色白の少女が少し離れた位置で祖母と会話していた担任を指差す。
少年は俯いて、苦笑する。
「困ったな…なんか、出て行きづらいじゃないか」
「それもいいな!」
 野球を教えてくれた――昔はガキ大将だった先輩が豪快に笑う。それに合わ
せて全員が爆笑する。まるで家族の用だと昔から想っていた。
 ふいに、その空気を切り裂くベルが鳴り響く。
「…行かなきゃ」
「オイ!! いいか、よぉーく聞け」
 褐色の肌の少女がそばかすだらけの顔を歪めて必死で泣くのを堪えながら、
「絶対、落ち着いたら手紙よこせよ!
 んでもって……大人になったら戻ってこいよ! 待ってるからな、あの畑で!」
 少女の言葉に小年は深く頷いた。
 微笑を浮かべて、手を振る。
「きっと………また、ここに来るから」
 手を振った先で少女が泣く。
 それが伝染したのか他の友人たちも泣き始める。
 ふと、祖母の方を見やれば――
「………はは………っ」
 いつもと変わらない表情で見送ってくれて。
 自分を家に入れてくれた日と同じ顔で、見送ってくれて。
 電車のドアが閉まって、外の蒸し暑い空気から解放されたのに顔が熱くなる。
目頭が熱くなる。零れ落ちる涙を止めようとしないで少年はドアにもたれたまま泣
いた。生まれて初めて、こんなに泣いた。
 かすかに聞こえる声は頬を伝う涙を止めず、さらにその流れを強くさせていた。

「冬夜ー!! 絶対、負けんなー!!」

――現実に、負けるな――

 車の中で、彼は銜えていたタバコを灰皿に押し付けた。
「………現実に、負けるな………か」
 世間では夏休みとやらが訪れていて、それでも社会人になった彼は毎日汗だくに
なりながら出勤している。その忙しさに祖母のいる家に帰るどころか、手紙すらも
返していないことに今更気がつく。
 ラッシュで足止めをくらいながら、彼は数年に祖母が他界したときも帰れなかっ
たことを思い出す。きっと、冷たい人間だと思われただろう。
 それでも――
「………それが、現実なんだよ………」
 小さく呟いて。彼は都会らしい黒交じりの青空を仰ぐ。
 電車にすればよかった――そんなことを考えながら、歩いた方が早いとすら思え
る時間をかけて進んでいく。この渋滞の中を幸せな家族はどのようにして過ごして
いるのか。自分にはなかった時間を思い浮かべて彼は苦笑する。
 ふいにその顔がミラーに映り、さらに困ったような顔を浮かべる。
「ずいぶん、疲れた顔してるな。これじゃ…帰ってもわかんないだろ」
 笑い声を漏らしながら彼はようやく動き出した前の車を追う。
 あと――二時間ていどでつけたら上出来だろう。
 それにしても――どうして、自分は電車を使わなかったのだろう?
 渋滞は知ってたのに。


 相も変わらず、この村はのどかだ。
 空は澄み切って青く、山は切り崩されることもなく青々と茂っている。畑には夏の
野菜が収穫してくれー、と言わんばかりに実っていた。
「なにも変わらないな」
 小さく呟いて、彼は空家になった祖母の家を仰いだ。
「あの時のままだな。誰か掃除でも――」
 言葉を、失った。
「お、おばあ………」
 無理矢理吐き出した声は情けなく、子供のようだった。誰も座ることのないはずの
縁側に腰掛ける祖母の姿。数年前に他界したと報せが来たのに、まるで自分がこの家
に住んでいた頃のような姿で――
「おばあちゃん!」
 声を張り上げて、駆け寄ろうとすると何かに腕を掴まれた。
「冬夜!!」
「あ…え………?」
 振り返ると、そこには見覚えのある女性がザルの上にトマトを積んで立っていた。
「やっと戻ってきたのか!! ずっと、ずっと待ってたんだよ!」
 威勢のいい喋り方と、鼻の上に僅かに残るそばかすで彼は彼女を思い出した。
 過去と現在が結びついて、その名前が自然に口をつく。
「茜………」
「お前、ばあちゃん死んだときも戻ってこなかったから…都会に毒されてこんな田舎
捨てたんだって、みんな言ってたけど…あたしはずっと信じてたよ。
 約束したから帰ってくるって!」
 興奮しているのか、喋りがいつもより激しい――いや、これが今の彼女の普通なの
かもしれないが、少なくとも当時よりかは激しいように思えた。
「あぁ、ごめん…仕事がな、思ったより忙しくて………」
 ソワソワと、縁側へと目をやるがそこに誰もいないことを知ると、彼は当時よりずっ
と大人らしくなった茜を見下ろした。
「なぁ、茜。ばあちゃんの墓はどこに…」
「みんなと同じ場所だよ。案内するからついてきて」
 トマトを乗せたザルを脇に抱えたまま、茜が走り出す。今でも彼女は元気なのだと思
うと、当時よりもずっと弱々しくなってしまった自分が情けなく感じる。
 子供の頃は余裕で走っていたこの道も、今では呼吸を荒げて必死になって走る。
「ばあちゃん、最期までお前の心配してたんだよ」
 走りながら告げた茜の表情は分からなかったが、なぜか――なぜか、彼には彼女が泣
いているように思えてしまった。そんな女々しい人間ではなかったと記憶しているが。
 それでも、そう思える何かが彼女の言葉の中にあった。
「………墓、ずいぶんと増えたんだな」
 祖母の墓に水をかけてやり、軽く拝んでから彼は周囲を見回した。自分が出て行った
ときよりもずっと数を増しているその墓は決して当時の老人たちが全員亡くなった、以
外の理由を感じた。
「あー…うん。そうなんだ」
 言い辛そうに俯いて、新しい墓石へと目をやる。
「これ、みちるの墓」
「………え」
「こっちは康孝、んでこっちは祐二………あと、これが幸子………これが………美奈」
「お、おい………なんで、そんな………」
 うろたえる彼を見ずに彼女は次々と当時の友人たちの名前を挙げていく。
「智、満彦………あと…これが………」
 言葉に詰まり、彼女は口を閉ざして俯く。
「事故が、あってね。みんなその事故で………」
「………知らなかった………」
「冬夜は忙しかったから、気付かなかったんだよ」
 顔をあげて、微笑む。
「あ、そ、そんなことよりもさ! せっかく帰ってきたんだから………」
 茜に腕を掴まれ、再び走り出す。
「どこに――」
「今日、花火なの!! 一緒に見よう!」
 屈託のない笑みを向けられて、断れるはずもなく彼は何も言わずに頷いた。
 視界には友人たちの眠る墓が見えたが、すぐにそれは視界から消えて森の木々ばかりに
なる。ずいぶんと静かになった村を見下ろして、彼は都会の喧騒を思い出す。
 嫌いではないが――きっと、またすぐにあの喧騒の中へ戻るのだろう。
 掴まれた腕が熱い。今日の気温のせいだろうか。
 それとも――考えようとして、彼はその選択肢を捨てた。
「茜、花火は何時から………」
 花火の、音がする。
 打ち上げ花火の音がする。
 懐かしい音に思わず顔をあげると、黄昏の空に上がる花火があった。
「早く、ないか?」
「これはね…供養なんだ。みんなへの供養」
「………みんなへの…」
 芝生の上に腰を降ろして、彼女はぽつりぽつりと語り始める。
「事故があってね。脱線事故…その車両が駅に突っ込んできて、みんな………死んじゃった」
「大事故じゃないか…ニュースじゃなんも………」
「たぶん、冬夜は見てないよ」
「え?」
 茜の言葉に不思議なものを感じた。社会人として毎日ニュースには目を通している。それ
は子供の頃からのクセでもあり、時計がわり見ていたと知っているはずなのに――
「冬夜が………向こうでたの、いつ?」
「今日だけど………」
「今日は、いつ?」
「今日は――」
 からかわれているのかと思った。
「今日は………七月、二十日………」
「何年? 平成………何年?」
 茜の言葉に、彼は戸惑うことなくはっきりと答えた。
「平成、十四年」
「今は………十八年だよ。冬夜」
 空気が、凍りついたように冷たかった。立ち上がらずに座ったままの茜の視線は花火に向け
られたまま、遠くを見ている。
「四年前に………冬夜、電車でこっち来たよね。みんなで駅まで迎えに行って………」
「ちょっと待て、僕は今日…初めて、車で――」
「どこに、止めたの? 車。冬夜の車はどこにあるの?」
 茜の質問に答えられないことに気がついて、彼は口を抑える。何がなんだか理解できない。
「みんなで、事故に遭って…死んだよね。ただ…冬夜だけ、それに気付かなかっただけで」
 ――仕事が忙しいからね。と付け足され、彼はスケジュールを思い出す。確かにハードだっ
た。ハードだからすぐに帰らないといけなかった。祖母の墓参りを済ませて、急いで残りの仕
事を片付けないといけなかった。
「だから四年も彷徨っちゃったんだよね。みんな………探してた。
 私が一番に見つけられてよかった。ばあちゃんが呼んでたから、行ってみたらお前がいた」
 脳裏に過ぎるは縁側に座っていた祖母の姿。
 茜はゆっくりと立ち上がると、手を差し伸べた。いつの間に夜になったのか花火が闇色の空に
映える。供養のためにと打ち上げられる花火にはそれぞれの名前が入っていることに気付く。
 闇の中に打ち上げられた花には――自分の名前と、茜の名前が確かにあった。
「逝こう。みんな………待ってる。ばあちゃんも、待ってる」
「あ………あぁ………」
 差し伸べられた手に触れて、彼は顔をあげる。
「………そっか、そうだ。思い出した………」
 電車の中で友人たちを見た。
 みんなが手を振ってる中で、突然――悲劇は訪れた。視界が回って何も分からなくなった。
 けれど、次の瞬間には自分は自宅にいた。都会の喧騒の中で生きてると錯覚していた。
 そして――今日、導かれるようにしてここへと来た。祖母が、呼んでいたのかもしれない。
「ごめん、遅くなった」
 小さく告げると、茜は満面の笑みを浮かべた。
「おかえり、冬夜」

 夜空な花火が昇る。開花する大輪の花には名前。
 照らされる墓標には彼の名前。彼女が唯一呼べなかった、彼の名前が刻まれて。