魔獣も寝静まる夜更け。
 パタパタと聞こえる足音に裕梨は目を覚ました。
「あー……もう朝?」
 眠い目はまだまだ映るものすべてをぼやけさせ、すべての光景に薄い
モザイクがかかっているようにも思えた。辛うじて見えるのは、メイド三人
組とは違う人影。
 もちろんリリスとは別人であるし、かといってもスルトはあんなに小さくない。
 ならば誰だと考え始めたところでようやく裕梨はことの異常さに気がついた。
「って、ほんとにだれだよ!!」
 叫ぶと同時に小さな人影が大きく跳ねた。
 刹那、そのうちの一つが裕梨へと向かって走り出す。つい最近まで陸上
部に属していた彼ですら目を瞠る走り、ソーマ店内の鼻先をくすぐるような
酒たちの甘い香りがいやに重い。
 薄暗い店内に響き渡った激しい足音は裕梨の目の前で停止し、
「今日こそメシをもらうからなっ! リリスババアッ!」
 甲高い声で叫んだ。
 展開が早すぎてついていけない裕梨。それでも一つだけ理解できる。
 ――振り上げられた殺意は本物だということ。
「う、うわああああっ!!」
 両腕で頭をかばう。
 そのまましゃがみこめれば良かったのだが、イスに腰掛けたまま眠って
いたことが災いした。大して回避の体勢をとれぬまま本気の殺意を浴びる
ことが確定してしまった。
 もしも今、ここに七瀬夕莉が健康な状態でついていたならば、この奇妙な
観光ツアーに同行していたならば、このような事態は起きなかったに違いない。
 全力で守ってくれる。
 たとえ目に見えないほどの危険であっても。彼女はそれを全力で消しにか
かるのだ。自らを犠牲にし、その細い手足を傷で埋め尽くして深山裕梨とい
う存在を守ってくれているのだから。
 少しでも守りたいと思った気持ちは嘘ではない。
 だが、追い詰められた裕梨はその言葉を名を口にした。
「な、七瀬っ!」
「ナナセ様でなくて申し訳ありません。
 ですが私はナナセ様よりあなた様を守るように言葉を承りました」
 短い悲鳴が響いた。続いて重いものが床の上に落下した音。
 背中を向けたままのクラリスの姿がしっかりと見える。気づけば店内の照
明は真昼のように明るくなっており、身動きとれずにいた人影たちはイリス
やカリス、そしてリリスによって取り押さえられていた。
「大丈夫ですか、ユーリ」
 イスに腰掛けたまま動けないでいると、スルトが心配そうに手を差し伸べ
てくれた。再び鼻先をくすぐる甘い酒の香り。騒がしかった心臓がとたんに
大人しくなる。
「あ、あぁ……ありがとう」
 かすれた声で呟いた瞬間、裕梨は自らの命の危機が去ったことをようや
く理解できた。モザイクの消えた世界では年端の行かない子供たちが恨め
しそうに大人たちを見上げている。
 ずいぶんとやせ細った子供たちだ。
 中には片目を失っている子供すらいた。とがった耳を泥に汚し、白かった
肌を黒く染めているのは、彼の故郷では義務教育の真っ只中と思われる子
供たち。
 それらが手にしているのは粗末な武器ばかり。
 そういったものをゲームでしか見たことのない裕梨は息を呑んだ。例え錆
びていようとも、例え折れていようとも、それは確かに誰かを殺せる。
 刃がなくても凶器は凶器に。
 鋭いのは携えられた武器ではなく眼差し。
 宝石のような瞳は攻撃的な光を帯びて爛々と輝いていた。
「おい。卑怯だぞ、リリス」
 取り押さえられている魔族の子供のうち、一番背丈のある少年が口を開
いた。尖った耳の半分が削れ、右目を失ったのか薄汚れた布で覆っている。
 外傷も激しく、身に纏っているボロ服は赤黒く変色していた。
 鼻をつく臭いは風呂に入っていないなんて理由からではないだろう。服の
下で腐り始めた肉体の悲鳴が聞こえるような気がする。
「何が卑怯なの? フォルセティ」
「お前はここに店を建てるときに言ったな? 用心棒の類は雇わないって。
 なんだこいつらは。お前の仲間か? お前の血族か? 嘘つきめ」
 年のころは裕梨と変わらない――それでも十倍近い年月を生きているの
だろうが、それにしても落ち着きすぎている。それより年上のイリスと比べる
と年齢が逆転してしまいそうなほどに。
 考え方を変えてしまえば、それだけこの少年が酷い環境で生きてきたとい
うこと。
 子供らしい仕草も、言葉も、思考も失ってしまうほどに劣悪な環境に包まれ
ていたからこそ、このような成長を遂げた。
 他の子供たちとは違い、一人で冷え切った眼差しをリリスへと向けている少
年――フォルセティ。薄汚れているとはいえど、薄紅色の髪と深い緑の左目は
見目麗しい魔族の名に恥じない容姿をしていた。だが、今の少年に言い寄る
女は一人としていないだろう。
 その冷たさに、身も心も凍て付き、果てることを本能が告げるから。
「私たちがソーマに押しかけたんです。
 リリスを悪く言わないでください」
 眼鏡の奥の双眸が光る。
 その手は攻撃の手段を失い、動揺している魔族の子供を二人締め上げて
いた。
 ちらりと目をやり、フォルセティは左目を細めた。
「……魔王陛下をつれて何をするつもりだ。
 大魔女は眠り続けているというのに、魔王陛下は女連れで遊びまわっている
とでも?」
 口に出されたのは仲間のことではない。
 物語的に言えば、彼らの手には届かない場所に住む存在。目に映すことも、
話すことも、ましてや存在を口にすることも許されいような彼女の名を紡いだ。
「陛下。なんでナナセは俺たちに会いに来ない?
 約束の一つは叶えてくれたが、もう一つあるだろう。お前が知っているかは
知らないがな」
「フォルセティ! 陛下になんて口の聞き方をっ」
「カリスは黙ってろよ。俺は陛下に聞いてる」
「フォルセティ!」
「イリスも黙ってろ。もちろん、クラリスもだ」
 口を開こうとしていたクラリスが唇を噛んだのが分かった。ある意味での最
強の名を欲しいままにしているメイド三人組を黙らせるということは、フォルセ
ティという少年は何かしらの力を持っていて、それは王の側近とも言える七瀬
夕莉を呼び捨てにできるほどの力を持っていて、さらに言えば強盗のようなこ
とをしても罪に問われるどころか逆に文句を言うことを許される身分とでも?
「答えろ、陛下」
「きゃんっ!」
「イリス!!」
 フォルセティを取り押さえていたイリスが床の上に尻餅をついた。反射的に
声を上げたのと同時に丈夫そうに見える床が深く軋んだのが分かった。
「俺は――」
「フォルセティ!!」
 錆びた刃の剣が足元を貫いた。
 怒声にも似たクラリスの声。
 耳が痛い。
 心臓が騒がしい。
 怖い。そうだ、怖いんだ。
「陛下……ナナセは、どうした? 人間とつるんで、ナナセをどうした?」
 覗き込むように見下ろす緑の眼差し。
 優しげなクラリスのものとは違い、そこに映るものは底の見えない奈落のような闇。
 身に纏う殺意は本物。突き立てられた剣へと手を伸ばし、柄を握ると垢で汚
れた手が薄っすらと白くなった。
 ギチギチと嫌な音を立てて、床を貫いた刃が抜かれる。
 錆びた刀身を目で確認した裕梨の双眸が大きく見開かれた。
「な、七瀬は……何か、約束したのか? 今は七瀬、寝てて何もできないけど、
オレでよければっ――」
 息を呑む。
 頬を掠める刃はすんでのところでスルトによって逸らされたが、鼻先を突付く
鉄の臭いは本物。感じる鈍い死の臭い。
 冷たい眼差しは忌々しげにスルトを仰ぐと静かに伏せられた。
「俺たちは魔族だからな。王の決定には従う……スルトには何もしない。
 けどな」
 鋭い殺意。
 今度こそ殺されると思った。
 すぐそこでスルトが守っていてくれているのに、傍にクラリスたちがいるのに。
裕梨は死が寸前まで迫ってきていると感じていた。
 いないから。
 誰が?
 あの人が。
 あの娘が。
「七瀬……たすけて……」
 脳裏をよぎるあの姿。
 目の前で起きるすべての事柄が現実味を失う。
 スローモーションのようにゆっくりと。
 フォルセティの手から叩き落とされた剣がスルトによって砕かれ、裕梨に死の
危険がないことを確信すると同時にイリスが床を蹴った。
 応戦しようと振り返る骨と皮の体をカリスが捉え、抵抗しようと言葉を紡ぐ口を
クラリスが手で塞いだ。
 身動きのとれないフォルセティの鳩尾に叩きこまれるのはイリスの一撃。
 大きく見開いた左目は声なき声で叫んでいた。
 それを聞いたような気がした裕梨は頭を抱え、しゃがみ込んでしまった。

――もうすぐ新しい魔王が来るからな。そうしたら変わるに違いねぇ……アイツ
はイイヤツだからよ。僕がいなくてもアイツを守ってくれよ、そうしたらお前らもこ
んなところで死ななくて済むだろ? 死ぬ場所が戦場になる、けどな。
 けど、その方がお前の言うカワイイだけじゃ物足りないから強い女。とかいうの
にも会えるだろ。すげぇんだぞ? うちのメイドたち――


「ナナセ……っ」
「七瀬っ……!!」


 まどろむ様に意識が沈めば、いっそ何も感じずにいられたのかもしれない。
 痛む頭と、認めたくない現実と。
 都合の悪いこと全部全部、見えなければいいのに。