ニヴルヘイム自慢の夕闇ですよ。
 自然という自然を汚すことのない魔族の大陸は、こうした風景が
とても美しいのです。
 人間は知らないでしょうけれど。この大陸はいまや、この世界の
どの大陸よりも美しい場所なんですよ。
 どうですか。
 美しいでしょう。
「ほんと……キレイだよなあ」
 故郷へと帰るエアリスを見送った後、ニヴルヘイムでも絶景と有
名な場所――地球で言う、なんとか岬的な場所へと足を運んだ結
梨たちは、そこから見える素晴らしい光景に息を呑んだ。
 地平線の向こうまですべてが茜色に染まる。
 魔族たちの暮らす街も、獣たちの暮らす森も、ニヴルヘイムという
存在自体が黄昏の中に沈んでいくような感覚すら覚えるこの光景。
 先ほどまで騒がしかったメイド三人組も大人しく、この絶景に魅入っ
ていた。そうしていればいるほど、彼女たちの美しさが際立つのだと
いうことに気がついた結梨は、慌てて目線を茜色の空へと向けた。
「……まるで、原初の世界のようだな」
 スルトの端正な唇が囁くかのような小さな声で呟いた。
 その言葉にクラリスが目線を落とし、眼鏡の奥で黄昏を浴びている
紫苑の双眸を軽く伏せた。
「発展とともに人間が失ったものがニヴルヘイムにはあります。
 魔族はそれを守るために命をかけ、そして生きていきます。すべて
は己の信ずるもののために」
「私たちが伝え聞いていた魔族とは、本当に幻だったのだろうな。
 野蛮で、同族であろうとも容赦しない――そのような種族だったのは」
「人間、の方ですよねぇ」
 イリスの言葉にスルトが深く頷いた。
「わたくしたちは人間を見続けることになります。
 人間が汚した世界も、人間が殺しあう瞬間も、すべて」
「永遠にも近い時を眺めてきて、どう思った? 私たちの種族は」
「それは――」
 クラリスの双眸が微笑む。
 それはイリスやカリスも同じであり、どこか哀しそうな顔をしていたスル
トを慰めているようにも思えた。
「わたくしたちの決めることではありません。
 ね? 陛下」
「陛下っ♪」
「陛下。私たちはあなたと人間の王が永久の交流をもつことを応援します」
「みんな……」
 優しい微笑に胸を打たれる。
 美しい黄昏。呑まれるニヴルヘイム、微笑む人々は優しく――
 自分が守るべき民を見遣り、結梨は力強く笑んだ。
「当然っ! まだまだ新米魔王のオレだけど、みんなと一緒ならいくら
だって頑張るよ!
 だからスルトさんも一緒に」
「えぇ。素晴らしい世界を、つくりましょう」
 互いに微笑みあう。
 刹那。
「あぁ。ようやくみつけました」
「うお!?」
 突然の訪問者は、初めて見る顔だった。
 金色の髪を右耳の上で縛り、兎を思い出すような真っ赤な双眸はまっす
ぐに結梨を見ている。顔立ちは魔族の娘らしく、やはり美しい――ものの、
少しばかり無愛想な気がしないでもない。
 その顔を眺めていた結梨は、その魔族の少女が彼女に似ているような
気がしていた。
 眠ったまま目覚めないという、大切な友人とどこか似ていたのだ。
「陛下、お初にお目にかかります。
 僕はクリス。クリス=ロスヴァイセ。清廉部隊所属の新米です、以後お
見知りおきを」
 淡々と喋る所は似ていないが、一人称は同じらしい。
 ますます似てる――そう思ったからか、結梨は自然とクリスへと笑いか
けていた。
「クリスか。よろしくな!
 オレは深山結梨。みんなの魔王で、ニヴルヘイムの新米魔王だから、
新米同士仲良くしような」
「っ!!」
 握手を求めた所でクリスの表情が強張った。
「あれ? あ、そっか。ごめん、なんか七瀬に似てたからつい……普通、
年下にこんな馴れ馴れしくされたら嫌だよな」
 眉尻を下げて差し出そうとしていた手を引っ込める。
 そうだった。魔族は見た目の十倍は年を重ねているのだ。夕莉と似て
いると思ったクリスだって、本当は百をゆうに越えているというのに、こん
な若造に馴れ馴れしくされたら不快だろう。
 考えの及ばない自らを苦々しく思いながら、結梨は頭を掻いた。
「いえ。まさか僕のような下っ端にお声をかけていただけるなんて……」
 俯いて、両手で口元を隠す。
 その仕草には見覚えがあった。


「これ、七瀬が作ったのか?」
「ああ。そうだな」
 家庭科室の片隅で皿を持ったまま立っていた夕莉。なにをしているのか
と近づけば、班員とは違う材料で作った卵焼きが白い皿の上に乗っかって
いた。
 他の班員が野菜やウインナーで飾り立てているのに比べて、夕莉の卵焼
きはただ卵だけという代物ではあったが、焦げを知らない黄色と甘い香りは
空腹状態の結梨の腹を疼かせた。
「な。一口もらっていいか?」
「不味いと思う」
「大丈夫だって」
「あ、深山!」
 手づかみで一口。
 まだ温かい卵焼きを口に入れる。その瞬間の夕莉の表情は不安でいっぱ
いだったのか、どこか弱々しく感じられた。こんな顔だってするのに、どうして
クラスの連中はそれに気付かないで彼女を虐めるのだろうと、いつもいつも
疑問に思う。
 もぐもぐと口の中で咀嚼して。
 絶妙な甘さの卵焼きに舌鼓を打つ。
「うまっ! 普通に美味いよ七瀬!」
「ほ、ほんとか?」
「ほんとだって! ほら、お前も食べてみろよ」
 指先で摘んだ卵焼きを唇に押し当てると、夕莉は驚いたような顔をして、そ
のまま固まってしまった。もぐもぐと卵焼きを咀嚼しているものの、味が分かっ
ているのかは分からない。
 ただ大きな双眸がさらに大きく見開かれて、あまり色の良くない頬が軽く紅
潮している。
「美味いだろ?」
 顔を近づけて笑う結梨。それを見ていられなくなったのか、そっぽを向いた
夕莉は口元に手を当て、
「……甘い」
 と一言だけ呟いた。
 その瞬間の妙に掠れた声はいまだに覚えているし、今考えるとあの時の
夕莉は照れていたのだということもなんとなく分かる――最も、分かった理
由は真の茶々入れではあったが。
 そのときの夕莉と似たような表情をしているクリスは、まるでニヴルヘイム
に彼女が生まれていた場合という、もしもを見ているようでなんだか嬉しかった。
 きっと、仲良くなれる。
「――は。そうじゃない、リリス姐が店の準備ができたって言ってたよ、クラリス姉」
 ハッと顔をあげてクラリスを見遣るクリス。
 どうやらお使いできていたらしい。リリスという名に聞き覚えがないわけで
はないが、結梨の記憶が正しければリリスのお店とは――
「じゃあソーマへと行きましょうか。
 お酒が入ればもっと仲良くなれますよ」
「いや、クラリスさーん。オレって未成年ですから」
「大丈夫ですよう、陛下っ! ソーマにはミルクもありますからぁ」
「ソーマのミルクは背徳的で美味しいのですよ。陛下」
 メイド三人に言われ、結梨は助けを請うようにスルトを見遣った。
 だが、
「ニヴルヘイムの酒……きっと、人間からは想像もつかないような美酒揃い
なのだろうな」
 清楚な見た目に反してずいぶんなお酒好きらしい。スルトはまるで少年の
ように目を輝かせて、メイド三人組の後ろへとついていた。
 引き摺られるように連れ去られる結梨は、せめて最後の抵抗とばかりにク
リスを見遣る。
「いつか、僕が出世をしたら……そのときは、ナナセさまのように友と呼んで
ください。ユーリ陛下」
 頬を紅潮させた美少女にそんなことを言われたら嫌とはいえない。
 ――違う。そうじゃないんだ、助けて。アルコールは苦手なのよ。
 思わず脳内で女言葉が飛び交う。けれども誰も結梨の脳内の絶叫なんて
知るはずもなく、ずるずるとその体は引き摺られていった。
 この態度、本当に王様として崇められているのか玉に不安になる。


「あらん、陛下? 陛下はミルクでいいのよね、きちんと冷やして待ってたわ」
 星の光のような白銀の髪の一部をピンク色に染めている美女。クラリスた
ちも本当に美人だが、比べ物にならないレベルだと咄嗟に思った。
 クラリスの顔を一般的とすれば、このリリスという美女はハリウッドスターレ
ベルだ。スタイルももちろん伝説レベルに素晴らしい。出るところが出てて、
締まるところが締まっているというのはこういう体を言うのだろう。
 十代半ばの結梨には刺激が強すぎた。
 思わず鼻を抑えていると、イリスがニヤニヤと脇腹を突付き始めた。
「陛下ってばぁ、ボインちゃんが好みなんですかぁ〜?」
「ボ……そ、そんなことないですよ」
「またまたぁ〜! だからナナセさまのことも大好きなんですよねぇ?」
「なんで七瀬が出てくるんだよっ」
「だってぇ〜ナナセさまってけっこ――」
「イリス、ここは大人のお店ですから。静かにね」
 パタリと倒れこんだイリス。その後頭部に深く突き刺さっている鋭いものを
見た結梨は息を呑んだ。知っている、これを知っている――氷を砕くときに
使う、ピックとかいうやつだ。
 それを平気で友人の後頭部に突き刺したクラリスも怖いが、平然と復活し
ているイリスも怖い。
 できれば早く逃げ出したい気分になってきた結梨は、目の前に出されたグ
ラスを見下ろし、
「スルトさん、できればはや――って、はやっ!」
 早く帰ろうといいたかったのに、すでにリリスといい雰囲気で会話を楽しん
でいる事に気付いて、結梨は思わず絶叫をあげる。長い間スルトという神に
のっとられていたとは言えど、大人は大人。酒を片手に美女と語らう姿はサ
マになっていて、同性の結梨でも思わず惚れ惚れしてしまうほどだった。
「あぁ。ユーリ、ユーリも一緒にどうですか? 彼女の話は本当に面白い」
「ふふ。褒めても何もサービスできないわよ? 特に、あなたのようないい男
には」
「あなたのような美しい方と語らうこのひと時こそが、何よりも素晴らしいサー
ビスですよ」
「あらあら、お上手ね」
 大人の雰囲気があたりに立ち込めている。
 とても入れない。
 逃げ出したくなった結梨だが、体にある勇気という勇気を振り絞って席を移
動した。せっかく誘ってくれてるのに、逃げ出したら失礼だっ、国交問題だ。
 下心がないとはいえない。
「あ、あのー……面白い話って、なんデスカ?」
 声が裏返ってしまった。
 緊張しすぎだと思いながらも、リリスの顔をまっすぐに見られないどころかリ
リスという存在すべてを直視できない結梨は、椅子の上で正座をしたまま硬直
していた。
「昔話ですよ」
「むかし……?」
 首を傾げる結梨。
 アルコールを帯びて、やや顔を赤らめているスルトはやっぱりカッコイイ。大
人の魅力全開だと感心していると、横から白くしなやかな腕が伸びてきて、結
梨の頬へと触れた。
「そう。ニヴルヘイムの昔話よ……聞いていく? 陛下」
 全身の力が抜けるのが分かった。特に腰。
「ぜ、ぜひ……」
「正直ね。そういう陛下は嫌いじゃないわ……もちろん、スナオになれないナ
ナセ様も好きよ。可愛い子はみんな好き」
 妖艶な笑みを浮かべ、リリスは真っ赤な口紅を塗った唇を震わせた。
 澄んだ声が紡いでいく昔話は、まるで歌のようだと思う。知らない話なのに
知っているような気にすらさせる昔話。これはきっと、アスタロトですら生まれ
ていないくらいに昔の話なのだろう。
 世界がまだ、何もなかった頃。
 二人の神が仲違いをした。
 光り輝く神は天上にこそ自らが眷族が生きるのに相応しいと主張し、勇まし
き神は興味ないとそっぽを向いた。そうして生まれた翼のある子供たち。
 その様子があまりにも面白そうに見えた勇ましき神は、それを真似て翼なき
子供を作り上げた。だが光り輝く神の怒りを買い、日に千の子供を殺されるこ
とになる。
 その行いに腹を立てた勇ましき神。自らを世界の一部と変えることで子供た
ちを守り始めた。
 そうして精霊王が生まれ、精霊がこの世界を飛び回るようになったという。
 光り輝く神とはスルト――翼ある子供とは天使。ならば、魔族にも神がいるの
だろうか。
 この世界へと姿を変えてしまったという神は、どのような思いで今を見ている
のだろう――結梨はアルコールの匂いで火照った頬を氷で冷やしながら、うつ
らうつらと重くなってきた瞼を下ろした。
「……あらあら」
 眠ってしまった結梨へと毛布をかけるリリス。
 その様子を眺めていたスルトは小さく、
「字も存在しないような時代の出来事を伝えることができるなんて……ニヴル
ヘイムは、素晴らしいですね……我々も、見習いたいものです」
 呟くように告げた。
 その言葉にリリスは微笑んで、
「文字なんて必要ないのよ。
 魔族には、血さえあれば――それで伝えられるの。原初の神の血を引くス
ルト様には、少々酷かもしれないけれど」
 スルトの頬へと軽く口付けた。
 静かな夜が更けて行く。
 魔王様が訪れたならば野次馬の一人でもいそうなものだが、魔族は早くに
眠るもの。一部を除いて早寝早起きが基本の彼らは今頃ベッドの中で、親愛
なる魔王陛下への祈りをしているに違いない。
 客の集まらない店を見回してリリスは目を細めた。魔族に口付けられた頬に
触れ、何かを考えているような素振りを見せているスルトなど興味ないかのよ
うに。
「……私が、原初の神の血を?」
 ぽつりと呟いた疑問は本心のもの。欺こうとしているのではなく、真実を隠す
のではなく、彼は本当に知らないのだろう。その身に流れる血の意味を――
神に体を奪われた意味を。
「えぇ。あなたには原初の神の血族なのよ……私たちの血がそう告げている
わ。
 気が遠くなるような過去に争った……光り輝く神の血を、感じるの」
「そうか……」
 一口、甘い酒が乾いた唇を湿らせた。
 甘い匂い。
 酷く酔いそうだ。
 記憶を失くしてしまうほどに。
 人間の歴史のように、過去を忘れてしまいそうだ。
 体の奥底に響く声は冷たくて――悪酔いしそうなほどに甘かった。


「勇ましき神の血族は忘れないわ。
 何もかも、すべてを。何一つとして忘れないのよ……恨みも、恐怖も、悲しみも」