ニヴルヘイムでいちばん有名なのは、やっぱりこの白い花ではないかと
思うのです。城の周辺に群生していて、城下町での人気も上々。さらに言
えば、かの大魔導師キルケ様が寵愛されていた花だとの噂。
これはもうグッズにしない手はないよね。
地方に住んでる田舎魔族たちカモに一攫千金……おっと。
「……どんな看板だよ!」
魔王城と城下町を区切っている門に立てかけられた看板を読み上げた
結梨は、傍らで口を噤んだまま一言も発そうとはしない人間の王を横目で
ちらりと見遣った。
呆れられているような気がする。
まさかこんなことが書いてあるとは思わなくて。
きっと、城の前の看板だから――ニヴルヘイムへようこそ!――くらいだ
と思っていたのに。魔族の風変わりな風習のことを失念していた結梨は自
らの思慮の狭さに唇を噛んだ。
刹那。
「魔族は正直なのですね」
妙に感心したようなスルトの言葉に結梨はその場で飛び上がった。黒い髪
がはねる。
「ここが火の国であれば、この看板は……そうですね、首都に来た記念にお
土産を。愛しいあの子もポッと頬を赤らめるゾ☆ というところですね」
「なんだそのノリ!?」
「綺麗事すべてを隠すのではなく、商人側の本心を曝け出すことによって消
費者との繋がりが――」
「えぇぇぇ?!」
ブツブツと勝手に分析し始めたスルトの背中に手を伸ばしたまま、硬直し
ている結梨の脳裏では頭の回転が速すぎる人間の王と仲良くなれるかの
心配会議が執り行われていた。
「やーん陛下ぁっ! ニヴルヘイム名物の笹がたっくさあんですよぉっ!」
結梨の脳内会議が強制終了される。キンキンするような高い声がした方
向へと目を向ければ、他のメイドたちよりも裾の短いスカートを翻して、まる
で太陽のような明るい笑みを振り撒いているイリスの姿があった。
かわいいんだけどなぁ――年を知ったら涙が止まらない。
「ねぇ、ねぇっ! ほらぁ〜笹を見に行きましょうよぉ」
愛らしく腕を引っ張るその姿。
ちなみに身長は結梨と同じ。むしろイリスのが少しだけ高い――涙。
魔族は男も女もとにかく長身が多い。成長途中のアイリーンは小柄ではあ
るが、姉のメーアの発言からするに彼女は将来的にの日本人男性の平均身長
くらいまでは伸びるという。
結梨自身がそこまで伸びないという保証はないが、できれば隣に立つ女性には
小柄でいてほしい、結婚式とかそういう類でもその方が――そこまで考え、結梨は
自分の顔が熱くなったのを感じた。
「いやっ、オレとアイリーンはそういうのじゃないしっ!
確かにアイリーン可愛いけど! けど、けどっ、年の差がっ!!」
「陛下……?」
きょとんと首をかしげているイリス。
そのまん丸な緑の双眸に見つめられると、とてもとても罪悪感のようなものに
駆られるのはなぜだろうといつもいつも思う。
何も悪いことはしてないのだが――
「あっ、そっかぁ♪ へーかっ!」
キャハッ。と聞こえた。
誰が口に出したわけでもないが、確かにキャハッと笑い声が聞こえた。
結梨がそれを突っ込もうと口を開こうとした瞬間には、イリスの小さな――あ、
小さくない手は、見た目よりもずっと強い力で結梨の両手を握っていた。
女の子らしい柔らかな――あ、わりと硬い――感触にどぎまぎしている結梨を
頑張って上目遣いで見上げるイリス。その艶やかな唇がゆっくりと、まるで誘惑
するように、
「愛があれば、年の差なんて関係ないですよぉ」
「年の差ありすぎだろ! なに百歳以上の差って!」
「百歳なんて楽勝ですよぉ。わたしだったら千歳までの差はへっちゃらです!」
「えー!? イリスさん広すぎだろ!!!?」
「クラリスはこの際結婚できれば誰でもいいってこの前酒盛りのときに言ってまし
たばすこっっ!」
「タバスコ!?」
物凄い勢いで地面へと突っ伏したイリス。
その背後では、夕莉の世話をしているというメイド――クラリスが穏やかに微笑
んだまま、その右手の拳を握り締めていた。きっとあの顔は三人くらい殺している。
ガクガクと膝が笑っている結梨を見遣るクラリスの双眸は冷たくも、冷たく……
「何も聞きませんでしたよね? 魔王陛下」
今までに感じたことのないような威圧感でそう言われ、結梨は今すぐに土下座
をして逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。だが、今はスルトというお客さんが
いる、そんな無様な醜態は晒したくない。
勇気を。
勇気を!
「何も聞きませんでした!」
土下座はしなかった。
ちょっと上半身を直角に曲げただけで。
土下座はしてません、自分の情けなさに涙が出ます。
「ですよね、陛下」
クラリスの声音が優しい普段のものへと戻る。それに安堵した結梨は看板の
前でブツブツ独り言を呟いていたスルトの姿がないことに気付き、目を見開く。
「あれっ、スルト……さん?」
「こちらです!」
「スルト……さああああぁぁぁぁん!?」
結梨が振り向いた方向には、巨大な植物。目に優しいはずの緑色は煮詰まっ
てなんだかビリジアン、そこはかとなくピーマンを彷彿させるような形をしているも
のの、なぜだかその先端には鋭い牙と長い舌と思われるもの。そして、これが気
のせいでないのならば――スルトは、長い舌に巻きつかれたまま、口と思われ
る場所へと吸い込まれているような気がする。
じゅるりと涎が地面に零れ落ち、嫌な臭いとともに白い煙を上げているのに気
付くと、結梨は大慌てで今にも食われそうなスルトへと駆け出した。
「陛下! あぶなーいっ!!」
走り出した結梨の足を払うのは、地面に突っ伏していたイリス。
「むぎゃっ」
無様な悲鳴とともにスッ転んだ結梨の視界で二つの影が交差した。
「超絶秘奥義! 母なる夜なべの手縫いドレス!」
「秘儀! 大地を巡る命の抱擁・パートツヴァイ!!」
変な掛け声と、変な煙が見える。
父さん――オレ……刻が見える気がする。
黒い視界。
頭に触れるのは柔らかく、暖かな感触。
鼻先を擽るのは甘い香り。
「あ、あれ?」
「目が覚めましたか?」
どうやら気を失っていたらしい結梨。それを介抱してくれていたのが、短く髪
を刈った茶色い髪の女性だった。服の上からでも分かるほどに引き締まった
体つきは、何かのスポーツ選手を彷彿させるが、ニヴルヘイムのスポーツは
そういった類のものが少ないので、恐らくはまったく違う職業の人なのだろう。
服装からして兵士でもメイドでもない。かといってパン屋の娘というわけでも
ないだろう。
やや困惑している結梨の視線に気がついたのか、茶色い短髪の女性は明
るい笑みを浮かべ、
「私はニヴルヘイムきっての農婦。
エアリス=ゲルヒルデ。今日は来年の七夕に使う笹の様子を見せに来ました。
どうですか? 素晴らしいデキでしょう!? これならぱ、あの白い花よりも
よっぽど人気が出ますよ!」
キモカワイイ〜とかの部類でだろうか。
あまりにも嬉しそうにしている農婦だという女性――エアリスを見上げ、結梨
はふと自分の後頭部の下にあるものの正体に気がついた。
「あっ?! 膝枕!?」
男の憧れ膝枕をしてもらっていたらしい。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
急に恥ずかしくなった結梨は、大慌てで飛び退く。その様子にエアリスがな
にやらクスクスと笑ってはいたが、そんなことを気にしていられるほど結梨の
心臓はタフではなかった。
「あ、てかスルトさんはっ」
「この白い花は美しいものですね」
「マイペースだなあっ!!」
とてもつい先ほどまで笹――どこからどう見ても巨大な食虫植物――に食
べられそうになっていたとは思えない。人間の王様はこのような人間でない
と勤まらないのだろうか。
自分には無理かもしれない――悶々と考えている結梨の視界に白い花が入る。
「あっ」
白い花。それはまだ花開かぬ蕾ではあったが、その儚くも美しい姿はどこ
か懐かしくもあり、見ているだけで心が癒されるような、淋しくなるような。不
思議な感覚をもたらしてくれた。
「……なんか……懐かしいな」
ぽつりと告げた結梨の肩に触れ、エアリスは小声で告げた。
「この花は、キルケ様が愛でた光なんですよ」
「キルケさんが――」
「キルケさまが愛でた光が花となり、その花をアスタロト様が植え、そしてこの
種をネビロス様が守ったのです。この白い花は、いわばキルケ様の欠片で
もあるのです……ですから、ニヴルヘイムでは白が高位にあり、この花は長
き時に渡って愛されているのですよ、陛下」
だから――
「キルケさんは、あの時ここにいたんだ……」
七瀬夕莉の体を乗っ取ったキルケが消えたのもこの場所だった。
真――前世ではネビロスという大賢者だった友人が、時折り訪れるのも
ここだった。
結梨は無意識に蕾を抱き締める。潰さぬよう、大切に、愛しく。
「……この花は、三人の宝物なんですね……」
小さく呟いたその言葉に、エアリスは穏やかな微笑を浮かべていた。
背後で笹とイリスが戦っていることになんて気付かぬまま、結梨とエアリス
はしばらくの間を白い花とともに過ごしていた。
美しくも、儚い。
記憶の花とともに。