平和だった。毎日毎日、よく分からない言語と睨み合いできるくらいに
平和だった。
 城に居座っていた四英雄の子孫たちも、各々が治める領地へと帰った
らしく、城内は背筋が寒くなるほどに静かだった。それはまるで、嵐の前
の静けさとでも言うように――
「いや、嵐はこなくていいけどさ。せめて何か変化が欲しいよな? 駿河」
 書類の山にサインをした結梨は、バルコニーで紅茶を啜っている同級
生へと声をかけた。だが、同級生はとても友人とは思えないような冷めた
様子でティーカップを白いテーブルの上へと置く。眼鏡の奥にある漆黒の
双眸を細め、肉の薄い唇には見ているだけて胃がぐつぐつ言い出しそう
なほどに嫌な微笑。
 できることならば、あの唇を摘んでそのままゴミ箱にポイしたいくらいだ。
 結梨に握り締められたペンが悲鳴をあげる。どうやらニヴルヘイムで愛
用されているペンとは無機物ではなく、生物――厳密には植物であるらしい。
 ペンの木、通称ペンキから時々収穫されるというペンは、一部の愛好家
に人気であるらしく、きっと魔王陛下もお気に召すだろうと少し前にイリスが
持ってきたのだ。
 イリス――夕莉専用のメイドがクラリスという眼鏡メイドであるならば、ロ
リメイドと呼び名の高いイリスは、結梨専用のメイドだった。
 小さいながらも懸命に家事をこなし、時にはよく分からないお菓子を作っ
てきて、激務に追われる結梨をさらに追い込んでくれる。とてもとても優しい
メイドなのだ。
 それだと言うのに、バルコニーでなんだか黄昏ている同級生は鼻で笑い
ながら、
「どれだけ外見ロリで萌えー! でも、年は深山の十倍以上だよ。ばーさん
だよばーさん」
 なぜか不機嫌そうに告げる。
 その理不尽な物言いに反論しようにも、イリスの年齢が結梨の十倍以上
ということは知っているし、年齢だけで言えば確かに老婆だ――それも、長
寿万歳急の。
「イリスさんに失礼だろ、駿河」
「煩いなー、そんなにメイドが文化の極みだって叫びたかった世界の中心に
行ってきなよ」
「それは違う叫びだろ! それを叫ぶんだったら海だろ!」
「何だお前、リリンがどうとか言うつもりかい? 自分の顔のレヴェル考えなよ」
「無駄に発音よくしてんなよ! ウザい通り越してキモいよ!」
「ボクの発音が素晴らしいのは生まれつき! お前はせいぜい巻き舌で頑
張るんだね」
「なんでそんなに機嫌悪いんだよ」
 さすがに苛々してきた結梨の反論に、真の表情が一瞬だけ曇ったような
気がした。スネたように尖った唇がぽつりと言葉を漏らす。
「七瀬が目を覚まさないそうだよ、薄情な魔王様」
「へ……」
 予想だにしない言葉に、結梨はここしばらくの出来事を思い出す。
 真と何かを話している際にウッカリねこけてしまい、気付いたら戦争は終
わっていて人間たちからは何の連絡もなければ、体勢を整えて襲ってくる
様子もないとグレイたちが言っていた。
 事実上、戦争は魔族側の勝利で終結した。それはつまりどういうこと?
「人間の領土はいらない、だもんな。お前」
 呆れたように呟く真の双眸が遠くの空を仰いだ。向こうには確か、火の国
があったような気がする。人間という人間に崇められていたスルトは、戦
いの後はソソクサと逃げ出してしまい、結局何かを話すことはできなかった。
 それゆえに、本当に自分が剣を持って前に出たなんて話を信じられない。
 しかも相手は全知全能の神。勝てる筈もないのに――そんな戦いに奇跡
的に勝利してからしばらく、夕莉の姿を見ないとは思っていたが、別の仕事
で忙しいのだと思っていた。
 まさか眠ったまま目覚めないなんて誰が思うか。
 学校でだって常に起きていた夕莉が、幼稚園で昼寝をしてくれなくて先生
を泣かせていた夕莉が、眠ったまま目覚めないなんて、都市伝説に近かった。
 信じられないが、こんな状況でそんな嘘を真がつく理由が思い当たらない。
からかうことが目的とするならば、友情を込めた拳をお見舞いしなくてはいけ
ない。夏休みに見たアニメで修正だとか若さだとか言っていたが、もう両方組
み合わせてワカセイとか呼んでおこう。
 どうも集中力の続かない結梨の耳に、真の声が飛び込む。その響きは普
段の天真爛漫な眼鏡少年ではなく、もっと――もっとずっと年上の大人のよ
うにも思えた。
「ずっとアシュレイドがついてるみたいだけど……」
「オレ、見舞いに――」
 慌てて立ち上がろうとした結梨を真が静止する。
「残念。お前にお客様、入ってどーぞー」
 先ほどの大人っぽさはどこへ消えたのか、真は明るいというよりも小生意
気な口調でこげ茶色のドアへと親指を向けた。
「客?」
 首を傾げる結梨。
 その漆黒の双眸は、静かにドアを開けて入ってくる姿を捉えた瞬間、眼球
が零れ落ちるのではないかと心配したくなるほど、大きく見開かれた。
「え、ちょっ、お」
「日本語は計画的にね」
 冷静な真を凝視し、結梨は叫びたくなった。
 計画的に日本語を使ったって、この混乱は何も解消されないと思う。
 ドアを開け、軽く頭を下げる。それはもう、何かの漫画で読んだ紳士のよう
に、それが恐ろしく似合うのだ。
 一本一本が輝いているかのようにも見える金の髪と、穏やかでなり、その
中に深い知性を称えた青い双眸。城で見た魔神王の絵画となんとなく似て
いるその姿。
 彼がその姿を直に見るのは二度目だった。そのときと比べれば、目付き
はあのときよりもずっと穏やかになっており、ふてぶてしいあの笑みは顔か
ら消えていた。
 まるで別人のようだ――とはとてもいえないが。
「怪我の治療に専念していたら遅れてしまった。
 どうかお許しを」
「どう答えるの? 深山」
 真の言葉に結梨は自分を指差し、
「お、オレ!?」
 全力でうろたえる。
 こんな芝居じみたセリフは文化祭の演劇でしか聞いたことがない。もしくは、
だいぶ前にプレイしていたゲームくらいなものだ。
「えっ、えっと……!」
 妙な既視感を覚える。慌てながらも頭のどこかは冷静なんだなと思いなが
ら、既視感の正体を探り当てようと考えてみた。
「……分かった! 初めてニヴルヘイムに来た時と似てるのか!」
 産まれて初めて、美形オンリー女性にとっても男性にとってもハーレムな世
界に迷い込んだあの日、結梨は夕莉に会うまで本気で居心地が悪かったこと
を覚えている。
 むずがゆくなるような、なんだか虚しくなってくるような。
 周りが美形過ぎて自分と比べたら失礼に値するといううほどのレベルなの
に、魔族の人々は口々に結梨のことを美しいと褒め称えるのだ。一瞬だけ
皮肉かと思ってムッとしたのをよく覚えている。
 たいして時間は経っていないはずだというのに、ずいぶんと昔のように感
じられた。その時の様子をシミジミと思い出していると、いつの間にか前へ
と歩みを進めていた金髪碧眼の男の声が頭上から降り注いだ。
「……魔王殿?」
 顔もよければ声もいいのか。
 魔族の男たちが腰の骨に響くような美声の持ち主ならば、目の前で僅か
に首をかしげているこの男は、晴れ渡った大空のような美声の持ち主だった。
「あ、ごっごめんなさい!」
「いえ、許しを請うのは私です。
 敗戦したというのに私の領地も民の命もこれ以上奪わないと約束してくだ
さった魔王陛下に何も言わずに長い時間を過ごしてしまったのですから」
「長いって……」
 少なくとも、あの戦いが終わってから二週間も経っていないはずだ。この
世界でいう人間は、体感する時間がとんでもないほどに早いのだろうか。
そんなことを考えていると、金髪碧眼の美形――ようは、火の国の王スル
トは右腕を胸の前まで持ち上げ、軽く瞼を伏せさせた。
 長い睫毛が影を落とす。
「私、スルト=レーヴァティン=ムスペルヘイム。火の国を治める王、そし
て人間の王として魔王陛下と話がしたいのです」
「深山、お前も名乗りなよ」
 真に肘でつつかれ、結梨は慌てて前を向いた。
 頭一個分は高い目線へと目を向け、緊張で上擦った声を吐き出す。
「え、えーと。深山結梨、ニヴルヘイムの魔王です。よ、よろしく」
「こちらこそ、ミヤマ様」
「あ、ごめんなさい。結梨で、ただの結梨がいいです」
 年上、美形、王様、なんか色々揃った人に様をつけられるのは、遠慮し
たい。結梨は両手を激しく振って早口に言葉を告げた。
 その言葉にスルトはしばし考えるような素振りを見せたが、勝利者の意
見に従おうと思ったのか、まっすぐに眼差しを結梨へと向けて微笑んだ。
「では、ユーリ。私のことはどうかスルトとお呼びください、あなたにはその
権利があります。
 私の命、魂、すべてが勝利者であるあなたのものです」
「えっ……」
 穏やかな微笑。告げられる言葉は、敗者から勝者への服従の言の葉
――永久の誓いにも似たその響きに結梨の表情が歪んだ。直接言われ
たわけではない、そういった事柄を体験したわけではない。
 ただ――
「あなたの命は、あなたのものです。
 あなたの命は、あなたの……国のみんなのものです」
 穏やかに告げられた死を喜ぶ言葉が彼女たちと重なった。
 難しいことはよく分からないが、同じ魂を共有しているという二人――夕
莉と、キルケの姿を思い出して仕方がない。あの二人もまた、自らの命を
まるで道具のように差し出す。
 見たくない、聞きたくない。
 彼女が息絶えるところなど、二度と――見たくない。
 あの命は、魂は、
「オレのものなんかじゃ、ありません」
「……ふーん。完璧な転生が崩れるとこうなるんだ? 完全も不完全も
似たようなものだね」
 眼鏡を指で押し上げ、真は冷ややかな眼差しを結梨へと向ける。もし
もこのような表情を浮かべていることを、あの大魔女が知ったらどうなる
ことだろう。
「怒るんだろうね。アレは深山ばっかだし」
 吐き捨てるように告げ、スルトと結梨のやり取りを見守る。こんなにも努
力しているのに、どうも運がない、いつも上手くいかない。人生はなんて不
公平だろう。
 歎く真のことなんて知らずに、結梨は今にも泣き出すのではないかと思う
ほどに漆黒の双眸を潤ませていた。その姿を見ていたスルトは、穏やかな
微笑を崩さぬまま、優しく結梨の頬へと触れる。
「御慈悲に感謝いたします。
 これで私も安心して和平を結べる……魔族と、人間が共生できる世界が
作れます」
「魔族と、人間が……?」
 口に出してから気がついた。
 できると思っていたのに。戦わなくても大丈夫だと、戦争なんて必要ない、
話し合いで解決できると豪語していたのに。今の一瞬は、スルトの言葉を
疑っていた。できるはずがないとすら思ってしまった。
 できると信じていたからこそ、夕莉を危険な目に遭わせてしまったというのに。
「できますよ。あなたなら」
 優しい響き。
 敵対していた王とは思えない。人間たちを統率し、魔族を滅ぼそうと画
策していた人間になんて見えない――
 頬に触れる手に自らの手を重ね、結梨は強い眼差しでスルトを仰いだ。
「約束してください。二度と、こんな戦争を起こさないって。
 オレたちは、種族が違っても兄弟です。人類皆兄弟って、母さんも言ってたし。
 だから――オレに誓ってください! ずっと平和でいられるように!」
「あなたの、意のままに。
 魔王、ユーリ……スルト=レーヴァティン=ムスペルヘイムは、人間は
魔族の兄弟です。
 この誓いが、永久に続きますよう……祈りを」
 目を伏せ、胸の前で手を組む。
 まるで神に祈るように――最早滅びた神に何を祈るというのか。毒づき
たい気持ちを堪え、真は祈りを捧げている二人の姿を眺めていた。
 眼鏡の奥の双眸は遠い空を仰ぎ、ありえない未来の話を夢想する。
 もしも――もしも、あの時代にこんな交渉ができていたら? そんな、あ
りえない未来を。
「ユーリは疑わないのですか? 人間である私を」
 ふいに開かれた唇。その言葉に結梨は双眸を見開いた。
「何で」
「私の息子は、魔族に殺されました」
「……!! そ、それは」
 うろたえる結梨を見下ろす眼差しは冷たいもの。先ほどまでの穏やかな
微笑など、幻のようにも思えた。
「……ご、ごめ――」
「深山! お前が王じゃない時代の話だよ! お前が謝ってどうするわけ!」
「でも、スルトさんの子供が――」
「ボクたちは戦争をしてたんだよ。こっちだってどれくらい死んだと思ってるの?
 それとも、お前が謝ったらスルトの子供は蘇るわけ? バカバカしい! 
死人は還って来ないよ、巡らない限りね」
 死人は還って来ない? ――否、還ってきたではないか。環からはずれ、
土くれの体を得て。脳裏を過ぎる姿は、目の前で口を閉ざしているスルト
への怒りを増徴させる。
 余計なことを、余計なことを。
 よくも汚したな、よくも。
 激しい感情が腹の中で煮え滾る。できることならば、この場で殺してやり
たい。
「……かえってこないけど……残された人には、ちゃんと言わないとだめだ
と思う。
 だから――ごめんなさい」
「みや……ほんとにお前はできそこないだな! アスタロトとは大違いだよっ!!」
 けたたましい音を立てて立ち上がり、部屋から出て行く真。乱暴にドア
が閉められると、結梨は肩を落としたまま唇を噛み締めた。
 間違ったことはしていない。そう思うが、本当に間違っていないのかは
分からない。
 どれだけ信じた答えでも、現実は簡単に不正解の判を押す。
 拳を握り締め、泣き叫びたくなる声を押し殺していると、穏やかな声が耳
に響いた。
「ありがとう……ユーリ。我が友よ……もう、顔も思い出せない私の息子は、
やがて巡った先で再会できると信じています。ですから――どうか顔をあげ
てください。
 私にこの国の事を教えてください。私の国にないこと、この国にないこと、
助け合って、生きていきましょう。
 残された者は、そうして未来へと繋ぐのが役目です」
「スルトさん……はいっ!!」
 浮かんだ涙を乱暴に拭い、元気な笑みを浮かべる。
「それでこそ、魔王です」
 嬉しそうに微笑むスルトの背後で見慣れた白髪が跳ねた。
「よぉ! 相変わらず地味なカッコしてんなぁ、ムスペルヘイム! ちったぁ
若返ったかぁ?」
「シュテルンさん!?」
 スルトの背中を思い切り叩いて床へと着地したシュテルンは、まるで悪戯
好きの小坊主のような笑顔を浮かべて胸を張った。
「……ん? なんだ。息子の方か」
「あなたがフラロウス卿ですか……ふむ」
 まじまじとシュテルンを見つめるスルト。何か気になることでもあったのか、
決して性格が良さそうとは思えない笑みを浮かべている顔を凝視している。
確かに美形ではあるが、顔のよさではスルトも負けてはない。
 まさか、スルトに限って自分の容姿の方が美しいと主張したいわけではな
いだろう。そうでないと言って欲しい。
 そわそわしている結梨の目の前で、スルトは小首を傾げて呟くように告げた。
「私が子供の頃、あなたによく似た娘を見たことがありますが……あれは、
あなたですか?」
「……そうかもな、なんだ? 惚れたか?」
「いえ。それはありえませんが……不思議なこともあるものです。人間と魔
族の容姿が似ているとは」
「スルトとアスタロトみたいなもんだろ。テメェじゃねーぜ?」
「分かっていますよ。しかし……まぁ、いいでしょう」
 本当に思いついただけだったのだろう。特に何を追及するでもなく、スル
トはシュテルンから破線をそらし、そのまま結梨を見た。突然美形に見つ
められた結梨はどうしていいのか分からず、とりあえず手を振ってみた。
「ニヴルヘイム観光をお願いします」
「は、はーい……って言いたいけど、オレもまだあんまり――」

「私たちにお任せください!!」

 紙ふぶきが舞う。
 ラッパの音が鳴り響き、開け放たれたドアには三人のメイドの姿。
 向かって右側の愛らしい顔立ちをした何となく外見は幼いものの、くすん
だ灰色の髪が年相応な何かを感じさせる魔王陛下専属メイドこと、イリス=
シュヴェルトラウテ。
 向かって左側にはフレームのない眼鏡と、七三に分けられた前髪が目
印と言いたいところだが、それよりも目に痛い水色の髪の毛と、紫色の双
眸の方が目立つ料理専門メイドことカリス=グリムゲルデ。
 そして、真ん中でポーズを取っている形のいいデコと、目に優しい緑のス
トレートロング、そして眼鏡が目印の大魔女専属メイドことクラリス=ブリュ
ンヒルデ。
 魔王城の中でも有名なメイド三人組が揃い、なにやら特撮的な何かを感
じさせながら一枚の紙を取り出した。
「魔王陛下とスルト王のニヴルヘイム観光は、私たちにお任せください」
「わたしがぁーすっごくたのしいところにつれてってあげるねぇっ♪」
「わたくしたち三人が夜なべして考えた歓迎会です。そして、これが新作の
ケーキです、どうぞ」
 差し出されたカップケーキを食べながら結梨は、横に立つスルトへと目を
やった。魔族独特のノリに引いてたらどうしよう――不安が胸を過ぎる。
「なんて親切な……! ユーリ、私は感動しました。ありがとうございます!」
 感動された。
 結梨は何も言わずにメイドに任せることにした。きっと、スルトは肝っ玉が
凄い人なんだと思い込もうとするかのように、遠くを仰いで盛り上がる四人
の会話だけを聞くことにした。直視する勇気がない。
「それでは、まずは――」
「あのねぇ、スルト王さまぁん。わたしって何歳に見えますぅ?」
「人間の国ではどのような調味料が手に入るのですか?」
「――ところで、ニヴルヘイムのメイドたちは不思議な衣装ですね。レース
をふんだんに使ってますし、ヘッドドレスも手の込んだ……使用人なんです
よね?」
 スルトの言葉に三人のメイドは声を揃え、そこいらの男であれば骨抜きに
なるだろう極上の笑みを浮かべた。

「文化の極みです」
「文化のきわみですよぉ〜」
「文化の極み、ですね」


 こうして、今更ながらに結梨のニヴルヘイム探検が始まった。
 パーティーメンバーはスルトと、メイド三人娘。
 それでは、いってきます。