正面突破の良く似合う男――それが魔神王アスタロト。彼は一度たりと
も裏口というものを使ったことがない。たとえ遅刻しても正面から乗り込ん
でくる、その先に何があるとしても。
 彼は回り道なんてものはしないのだ。
 理由なんて今更考えない。それですべてが上手くいくのなら、いいではな
いか。
「時の巡りを忘れたか……嘆かわしいものだな」
 魔剣タナトスが言葉を吐く。それは遠い昔にはあり得なかった現象。魂水
晶に宿った無数の魂がただの剣に言葉を持たせたのか、気の遠くなるよう
な年月が無機物に命を与え、思考を与えたというのか。
 自立し、自らの思考を用いて動くことができるのは、七瀬夕莉が所持する
カロンだけだと思っていたというのに。予想外の出来事にネビロスは思わず
眼鏡を押し上げた。
「ネビロス殿。我はカロンの兄でもあるのだ。カロンにできて我にできぬこと
などない。
 若輩者の大鎌よりも、長寿の我の方がスルトに説教をたれることができよう。
 のう? 驕りに己を忘れた神よ」
「ククク……フハハ、たかだか剣風情が大きな口を叩くものだな。
 神に逆らう愚かで未完成な生命体に何ができるか」
「……なにと会話してんだ? スルト」
 タナトスの声も聞こえないのだろう。アスタロトは不思議そうに首を傾げ、
流れた金の髪を指ですくい、耳へとかける。今から神を倒そうとする男には
とても見えない。
 いつだって余裕な魔神王――だからこそ、今もなお支持され続ける。
 魔力も持たぬ無能だというのに、すべてを魅了し味方へと変えるその力は、
すべての存在の憧れとなり、この国の民すべての希望を一身に抱くことを苦と
思わない。
 王の中の王。
 それと対峙するは、火の国を治める人間――その、はずだった。
「情報を整理したけどな、俺の頭じゃあこれしか分からなかったぜ」
 彼の言葉にスルトがニタリと笑った。
「お前は――」
 タナトスを構え、空の如き青き双眸を細める。
 全身から発せられるのは精霊たちを骨砕きにする甘い香り。
 ヒトにも魔族にも感じることのできないもの。
 精霊の歌声が聞こえる。
「愚弟、私の国はどうだ?」
「なんとも思わないな。俺は俺の民のことしか考えない。
 天使も神も、どうでもいい。俺とは関係がないからな」
 スルトとの距離を測るアスタロトの背後で、ネビロスもまた方陣を組み始める。
スルトには法術士がついている、何が起こるか分からない状態ならば、万全を
尽くすべきだと考え行動に移した――ものの、彼は違和感に顔を顰めた。
 ティファと名乗っていた法術士は何をするでもなく、ただただスルトの背中を見
つめたまま動こうとはしない。ヴェールに隠された顔に何の感情を浮かべている
のかも読めない。
 何が目的なのか、彼女は。
「そのような考えだから堕ちるのだ。私が創りし地を這う生き物の世界にな」
「何を言ってんだかな。
 お前が堕としたんだろ? 俺の力を恐れ、ムスペルヘイムから生まれたばか
りのニヴルヘイムにな」
「……なんですって?」
 アスタロトの口から信じられない言葉を聞いた気がする。方陣を組む手を止
め、ネビロスは聞き返した。
「ん、言ってなかったか。俺は元々魔族じゃなくて、神だぞ。
 スルトの双子の弟で、ムスペルヘイムのニューヒーローだったんだけどな」
 鋭い視線がスルトを射る。しかしその視線をものともせずに、玉座に腰掛け
たままのスルトは傲慢な眼差しでそれに応えていた。
「意地の悪い兄貴に嫉妬心から堕とされてな。
 偶然、死産を歎いてた女の前に着地したわけだ。スルトが俺を抵抗できないく
らいに細かく切り刻んでくれたおかげで赤子からやり直ししちまったけどな」
「どこまでもしぶとい男だ」
「お前もしぶといだろ。俺に一度殺されたのに、こんな所で何をしてるんだか」
 目の前で信じられない会話が繰り広げられている。
 魔神王と呼ばれたニヴルヘイム一の英雄が魔族ではないだと。神の双子
の弟だと、ありえない。あってはならない。
 そんなことが――
「あぁ、ネビロス」
 底冷えするような声。
「なん、ですか……?」
 空の青よりも澄んだ青。
 神と瓜二つの容姿。
 すべての存在が恋焦がれる魔神王は、その手に魔剣を携え、その身に精霊
を纏い、どこまでも自信に満ちた顔で告げる。
「生まれはムスペルヘイムでも、俺の故郷はニヴルヘイムだけだぞ。
 あそこはお前がいる、キルケがいる。俺の大事な民たちだってな。余計なこと
考えるなよ、俺が信じた民は俺が何であっても驚かない、たとえ神でも、だ。
 お前も変な心配してないで働け、ネビロース」
 ――なんて傲慢な王だ。
 絶対的信頼をもたれていると勝手に思い込んで。
 純血の魔族がどれほど神を憎んでいるかなんて、気付きもしない。神の血を
引くものならば今すぐにでも殺したいくらいだというのに。
 そんなことにも気付かない。
 なんて、傲慢な魔神王。
 だからこそ――
「あなたには驚かされてばかりですよ。陛下」
「そうか? じゃうもちっと驚かせてやるよ」
「程ほどに」
 子供のような無邪気な顔で笑う王に忠誠を誓える。
 すべてに愛される世界の宝。
 その愛の元で、彼は満面の笑みを浮かべた。
「というわけで! 俺は魔族として生きたことも、ニヴルヘイムに堕ちた事も何
一つとして後悔してないぞ。あのままムスペルヘイムにいたとしても、退屈で死
にそうな毎日だったろうしな」
「よくぞ言った! 我が主!」
「お? 今、誰かに褒められた気がする」
 タナトスの声は聞こえていないはずなのだが、どうやら褒め言葉には敏感らし
い。ニマニマとした笑みを浮かべ、青の双眸を再び細める。
 標的は玉座に腰掛けたままの男――双子の兄であり、同時に天使たちを治
める王であった男と同じ名前をもった人間。
 そして、自らと同名の人間を己と信じて疑わない、今は滅びた天使たちの王
スルト。
 あの時から一秒たりとて動かぬ時の中を生きている存在へと、その切っ先が
向かう。
「ふん、時間を無駄にしたな。
 アスタロト……今度は再生できぬように魂の一欠けらまですり潰してやろう」
 ゆっくりと、その身を玉座から持ち上げる。
 ――ここが船の上だということを忘れそうになる光景だとネビロスは思った。
 純白の羽が舞い、スルトの触れた箇所から緑が芽吹く。まばたきをしている合
間に足元は青々と茂る草原へと変わり、まるであの戦の終わりのようだと。
 美しい草原で、魔神王が神を切り伏せたあの瞬間が脳裏を過ぎる。
「懐かしいな。この風景……兄弟喧嘩の終わりを迎えた場所にそっくりだ」
「何を言うか。終わりはこれからだ、お前の死という結末でこの戦は私の勝利と
なる」
「……スルト」
 ささやくような声。
 音のないその一歩。
 魔剣のその柄が触れたことにスルトは気付いただろうか。
「……動けぬ、だと?」
 至近距離にある双子の弟の顔を見ながら、青空を思わせる双眸を見開くスル
ト。その顔はやはり、アスタロトと酷似していた。
 口の端から血を流し、信じられないものを見るような眼差しで背後へと目をやる。
「ティファ……なんの、つもりだ」
「我らが王、まだ気付かぬのですか」
 スルトの背中に抱きついているティファが愁いを帯びた笑みを浮かべる。その
細い腕はアスタロトの背へと伸ばされ、二人の胴体はタナトスによって一つに繋
がれていた。
 自ら刺されにきたのだとネビロスが理解するよりも前に、アスタロトは小さく息
を吐き、
「願いは叶ったか? ミカエル」
「えぇ……これでよいのですよ」
 遠い過去の名を告げた。
「……ミカエル。あなたの望みは――」
「主に忘れられた狗に生きる意味はありません。
 ならばせめて、共にヘルヘイムと往こうと……スルト様、二人で血の道を往き
ましょう?」
「ミカ……エル……? ティファ、私を……うらぎっ……!」
「違うぞ、兄貴」
 タナトスを握る手に力を込める。
 アスタロトが無意識に念じれば、ネビロスの組んだ方陣までもが勝手に動き出
す。それを構成していた精霊たちが歌いだし、まるで遠い日の決着のように青の
焔を刀身に宿させた。
 チリチリと焼け焦げる肉体を見据え、とても優しい声で告げる。
 ――家族に、最期の別れをとでもいうように。
「ミカエルは兄貴に現実を受け入れて欲しいだけだろ。
 もう、兄貴はこの世界には存在できないってな。ヘルヘイムで仲良くな」
「そんなこと……しんじ、られるかぁ…………っ!!!!」
 断末魔の声を呑みこむ青の焔。
 残されたのはただの人間であるスルトの姿。古の魂に憑依され、今まで動いて
きたのならば目を覚ましたその瞬間から彼の地獄が始まるのかもしれない。
 だが、これで戦は終わりになるだろう。
 そもそも魔族と人間では生きる長さも、その力の大きさも、すべてが段違いなの
だ。人数で押すしかできない人間が一番間の強みであった法術士を失い、これ以
上何ができようというのか。
 たとえできたとしても――
「後は素直になれない大魔女がやってくれるだろ」
 アスタロトの言葉にネビロスは静かに頷いた。
「そういえば、ネビロスはあの大魔女のことが嫌いなのか? キルケと同じ魂の持
ち主なのにな」
「同じだからこそ……ん?」
 喋っている最中のネビロスの耳に声が聞こえた。
 それはとても小さな声、それでも彼はその声が告げた言葉が自分に向けられて
いるものだとすぐさま理解できた。
「ありがとうございます、魔神王と大賢者。そして警告を……夜が動き出しました。
夜に恐れる者もまた同じように……」
「ミカエル……分かりました。不本意ですが最善を尽くしますよ」
「お、ネビロス独り言か? ボケるのはまだ早いぞ」
「陛下!」
 声を張り上げると、ミカエルと思われる声が遠ざかるのか分かった。
 チラチラと見えていた光の粒がニヴルヘイムへと向かっていく。静かになったこ
の船の生存者は、ほぼゼロに等しいが王を救助するために人間が戻ってくるかも
しれない。
 先ほどの青の焔で人間たちであろうとも気付いただろう。
 負けたのだ――と。
「ネビロス、俺に客人だ」
「……そうですかね?」
 空を仰ぐアスタロト。その双眸が見遣るのは、真紅の髪と今は一つだけになっ
た真紅の眼をもった大魔導師。かつては、大魔女と呼ばれていた少女だった。
「キルケ、久しいな」
「アスタロト……様」




「お前ら、もうすぐ故郷だからな。頑張れ!」
 カロンに限界まで魔族を乗せ、発進する。まだ息のある者から順に回復の魔
術をかけてもかけても、息絶えるものの方が多いこの現状をどうすれば打破で
きるのか。
 そんなことを考えながらも、彼女は全力で大鎌のコントロールを解かぬように
気を張り詰めていた。自立思考をもっているカロンに任せるという手もあるが、
今の状態だったらば夕莉自身がコントロールした方が早い――そう判断しての
ことだった。
 そうすることによって、寄り道もしなければ、重いからと振り落としたりはしない。
「くそっ、人間の生き残りはいねぇだろうな?」
 深い森に一番近い村。
 そこへと大勢の魔族を運び込んだ夕莉は、用心のためにと薄い結界を施して
はある。だが、人間たちの中に法術士が混じっていれば話は別だ。
 簡単な結界などすぐ破られ、すぐさま息絶え掛けている魔族を殺しにかかるだ
ろう。
 それだけは避けたかった。
 生きているのだ、まだ。生きている、終わっていない。その命を散らせてたまる
ものか。
 仲間の命を――
「……まただ」
 胸の奥で何かが重く圧し掛かる。
 心臓の鼓動の一つ一つが重く、全身に響く。
 体の奥に感じる違和感。胸の奥に感じる違和感。
「なんなんだよ……これは……っと!?」
 胸を抑えるとほぼ同時だった。
 背中に強い衝撃をうけ、カロンから振り落とされたのは。
「い、ててて……」
 魔族を積む前の軽い大鎌だったから良かったものの、もしも誰かを乗せていた
ならば巻き込んで大惨事になっていたことだろう。強かに全身を多い茂る木々に
打ちつけた夕莉は、特に痛む胸へと手を当てた。
「……ぅ……」
 小さくうめき、背中に衝突した何かを調べることも、その背から何かが侵入して
くるというのにそれを拒めないまま、きつく双眸を閉じた。闇の中で光が弾ける、
青い焔が揺れては弾ける。
「ぁ……か、カエ……レ……コノヤミ……ヘ」
 何の意味を持つのか分からない言葉。
 夕莉の口をついて出る、他人の言葉。
 息苦しい、頭が痛い、胸が重い、真っ暗だ。
 何も、見えない。
 何も見えない。終わったような予感はするのに、終われない。
 出口のない迷路に迷い込んだような、底のない沼に足を踏み入れたような。
 そんな不安ばかりが募っていたせいだろうか、誰かが駆け寄ってきたことにも
気付かぬまま、夕莉は深い闇へと堕ちていった。
 どこまでも、深い闇。
 前も後ろもない闇の中で、彼女は独りで佇んでいた。
「独りは淋しいか?」
「誰だ、お前」
 目の前に誰かがいる。
 凄く、見覚えのある、誰か。
「独りは淋しいだろう」
「だから誰だよ。僕はお前なんて知らない」
「独りだからな。お前は自ら望んで独りになる」
「望んでなんて……」
 顔をあげ、息を呑む。
 見覚えのある顔なんてものではない。正面に立っているのは、低くくぐもった声
で囁いているのは――
「僕……?」
「そうだ、僕はお前だ。独りが悲しいお前だよ」
 闇に溶けるような黒い髪、光のない漆黒の双眸。
 その手は真っ赤に染まりきり、全身からは強い死の臭いが漂っていた。
「深山結梨は大切な友達だ。だけどアイツは王であり、仕えるべき相手。
 ニヴルヘイムにも大切な仲間はたくさんいるけれど、それは友達ではない。仲間、
傍にいてくれる友達は誰一人としていない。
 だってお前は独りだからな」
 自分はこんなに冷たい声をしていたのか――と思わせるような心を感じぬ声。それ
は、まるで自分の心を吐露するかのように次々と言葉を告げていく。
 本心だかわからない、自分で見ない振りをしていた部分なのかもしれないと思えば
納得できたし、幻術の類と思えばそれはそれで納得できた。
 心を揺さぶり、惑わせる。
 けれど、けれど。
 これを嘘だと思うことはできない。
 ただの偽りだと思うことも。
「友達になれるかもしれなかった男はこの手で殺してしまった」
「やめろ、そいつの名前を言うな!」
「恋にも似た感情、その逞しい腕の中で眠れたらよかったのに」
「やめろ、やめろ!!!」
 緑色の髪の毛が、青い双眸が、殺意に満ちた腕が、あの男のすべてが全身に蘇る。
 その体が体温を失うその瞬間までもが、まるで目の前にいるような気分にすら。
「殺してしまった。独りになると分かっていながら、愛しいあのお人を……」
「名前を、呼ぶな! お前の口が、アイツの名前を……ッ!!!」
 強がる口とは裏腹に、両手は耳を塞ごうと伸びる。
 漆黒の闇の中だというのに目の前に立つ自分の唇の動きがイヤになるくらい、よく
見える。その唇が何を紡ごうとしているのか、その声が紡ぐ名前が誰なのか。
 耳を塞いでいても聞こえてしまう名前。
「ヒューゲルを、殺してしまった」
「ッ――――!!!!」
 その名前を聞いただけで、体が重くなる。
 深く、深く引きずり込まれそうになる。見知らぬ場所へ、見知らぬ腕の中へ。
「友達になりたかった。ライバルとして競い合いたかった」
「うるさ……い……うるさい……もう、いない。いないんだよ、あいつはっ……あいつ
は、あいつは……そうだよ、僕が、殺した。僕は……独りに……?」
 ヒザをついて、頭を抱える。
 甘い囁きが首筋を伝い、正しい判断をできなくさせようと惑わす。
 おいでと誘う蛇の魔手は夕莉の双眸からいとも容易く意思を奪い――
「ナナセ様!!」
「……アシュ、レイド……?」
 ぼんやりとした光が見える。
 半ば無意識だった。その光へと手を伸ばしたのは。
「……独りでもいいの?」
 背中へと投げかけられる言葉。
 その言葉を聞かないフリをして、彼女は光へと駆け出した。
 頭の中でヒューゲルの言葉が繰り返される。

――オレじゃダメだ。お前はオレじゃ泣けない――

 その言葉の意味をかすかに理解できた気がする。
 ヒューゲルの前では強くありたい心。
 その強い心が疲れたときはどこで休めばいい? 誰が、休ませてくれる?
 泣けない子供は誰の胸で泣けばいい?
「……お前」
「ナナセ様! ご無事で……」
 情けない顔をしたアシュレイドが視界いっぱいに映った。夕莉の体を支えている腕
が一本しかないと思えば、もう片方の腕は半壊した状態で地べたに置いてある。
 頑丈なつくりにしたはずなのに。
 こうも簡単に破損するなんて、彼はどんな戦い方をしたのだろう。
「ったく……ムチャしやがって」
 呆れたように息を吐く。
 不思議と、息苦しさはなかった。
 胸の重みも、頭痛も、むしろ満たされているくらいだった。
「あなたこそ……あまり心配をかけさせないでください」
 泣き出しそうなアシュレイドの笑みを見たのは初めてだということに気付いて、夕莉
は苦笑を浮かべる。破損した義手へと目をやり、
「あんまり僕の仕事増やすなよ、バーカ」
「すいません……」
 あまりにも素直に謝罪するアシュレイドの目を見つめ、先ほどの闇を振り払うかの
ように頭を振る。
 血の滲んでいる胸へと額を擦りつけ、今にも消え入りそうな声で呟いた。
 彼に聞こえていなくても構わない。むしろ聞こえていない方がいい――そんなこと
を考えながら。
「……ありがと」
 片方しかない腕が背中を抱き締めてくれる。
 土を踏む足の音、小さく揺れる体。

 大丈夫、独りじゃない――少なくとも、今は。



「終わりましたね」
「あぁ、終わった」
「終わりましたよ。キルケ」
 三人が立ち去るとほぼ同時に人間の船は国へと向かい始めた。敗戦を知ったと
同時に逃げ出すのは、彼らが心底魔族を恐れていたのだということを知ると、今ま
での強気の態度がどう変わっていくのかが気になった。
 しかし、それよりも先にすべきことがあると言わんばかりにアスタロトは、真剣な眼
差しでキルケを見つめた。澄んだ青に黄昏が映る。
「帰るぞ、ニヴルヘイムへ」
 伸ばされた手。それをとることは不可能ではないはず――だった。
「私は、汚い」
 彼女自身が拒絶さえしなければ。
「お前は汚くなんてないだろう。むしろ綺麗なくらいだ」
「それは過去の話です……今の私は――」
 俯くキルケをアスタロトが抱き締めた。目の前の光景に息を呑むネビロス、まただ。
また、先を越された。そう思う心があっても、それを噛み殺して表情を消す。
 彼の従者として、彼の邪魔だけはしないと決めていたから。
「ニヴルヘイムに戻って来い、キルケ。スルトはもういないからな」
「……それでも」
 キルケの両腕がアスタロトを押し戻す。
「……もしも、赦される日が来るのならば……そのときは」
 感情を押し殺した声で呟き、そのまま姿を消す。
 漣の音だけが聞こえる場所に取り残されたアスタロトは、苦笑を浮かべて周囲を
見回した。
「ままならないよな。俺もお前も……みんな」
 倒れている人間と、魔族と、すべての魂を喰らうニヴルヘイム。
 その言葉が誰に向けて、何の意味を孕んでいたか、考えれば答えは見つけら
れそうだったが、今のネビロスはなるたけ思考の世界に入り込みたくなかった。
 よからぬことを考えてしまわぬよう。
 最初から最後まで良い部下であるために。





「ようやく眠れる……我らが主と共に。オォ……我らが母、闇に病む母。
 抱き締めてくれますか、その昏き腕で……オォォ……イトシキ、母……」

 

 

 

 タ ダ イ マ