ニヴルヘイムを捨ててどれほどの時が経ったか。
 それはとても短いものだったのかもしれない、それはとても長い時間
だったのかもしれない。すべてを推し量ろうにも、故郷とは違うこの国の
時間は彼の肉体には果てのない時間のようにも思え、五感のすべてを
狂わせていた。
 たどり着いた最初の一日は激しい眩暈に襲われ、翌日からは全身を
襲う疲労感と言葉を発することのできないほどの激しい渇き。
 その原因を突き止める頃には、逞しかった彼の肉体はやせ衰え、周
囲の住民たちの侵入を容易くさせていた。
「お、お前さんっ、ま、ま、魔族だろ!」
 粗末な武器を片手に飛び込んできたのは初老の男。
 それへと目をやると、彼は静かに頷いた。
「魔族は、まぞっ、魔族は殺さなくちゃなんねぇ!」
 ニヴルヘイムにいたならば、この程度の人間は一ひねりだった。頭の中
では必要な言葉が渦を巻いている、だがそれを実際に口に出せるかと聞
かれれば何も答えられない。
 ただ、分かるのは一つだけ。
 ここで死ぬわけにはいかない。すべきことがある、彼以外には成し得な
い事をしなければならない。
「悪く思うなよっ!」
 振り上げられる粗末な武器。
 あんな鈍らでは、陽が暮れても死なないだろう。ただ悪戯に苦しみを長
引かせるだけだ。
 それでも、彼の四肢は動かない。
 息をするのも億劫なほどに。死にそうだ、死ねないのに。
 ぼやけた視界に鈴の音が反響し、人間たちの悲鳴が響き渡った。
「ひっ、ヒィィイ……な、なんで魔族をかばう!」
 渇いた音が聞こえ、少し遅れて水滴が滴る音が聞こえた。
 眼球を動かすのにこんなに労力を使うとは。彼は懸命に、突然視界に
現れた人物を仰いだ。
「彼に聞きたいことがあります。あなた方はここを去ってください」
 凛とした女の声。
 人間たちがなにやら喚いていたが、故郷とは違うその言葉を翻訳する力
すらなくなってきたのか、ただただ叫んでいるようにしか聞こえなかった。そ
れでも、女か何かを告げているということだけは理解できた。
 怒気も殺意も、静かに散らばり、やがては夜の闇のような静寂が二人を
包み込む。
 その中で女は表情らしい表情を浮かべない、冷え切った顔で口を開いた。
「最初に、あなたの名前を」
「……ヒューゲル」
「ヒューゲル=グリューン=ベレス、ですか」
「……なぜ、その名を」
「あなたには関係のないことです」
 唇の端が持ち上がる。笑っているのだと理解するのに時間がかかった。
 女の言葉に彼は目を閉じ、その名を否定した。
「オレは……ヒューゲルだ。魔族じゃねぇ……」
「そうですか。それでは、これは必要ないですね」
「っ!?」
 何かを掴まれた。
 それは肉体的なものではなく、もっと深いもの。まるで魂そのものをつか
まれたような感覚に、彼は思わず双眸を見開いた。
 体が弱っていなければ、この女を斬り殺していた所だ。
 だが、すぐさま体の様子が変わったことに気がつき、女を仰ぐ。
 女は笑んだまま、その手の中に何かを掴んだまま、妖艶な唇を開いた。
「魔族の魔力は必要ないでしょう? ムスペルヘイムで生きるのならば、相
応の魂を持っていてください」
 ムスペルヘイム――その名を人間が知っているはずがない。それは古い
名だ、人間が誕生するよりもずっと前の名だ。
 彼の青い双眸が揺れた。
「お前……いったい……」
 女はただ笑う。妖艶に、美しく。
「ティファ=レトミカ=エルオール……
 ようこそ魔族を捨てた同胞、あなたの目的が何にせよ歓迎しますよ。
 ――あなたが死ぬ、その時まで」


 火の国の王スルトの部下として城に住むことになり、彼の生活は一転した。
人間と魔族では習慣も、時間の流れも違いすぎたのだ、彼が一週間くらい
のつもりで過ごしていれば、同僚に渡そうと思っていた果物が見るも無残な
姿に変わり果てていたし、一ヵ月くらいかと思っていれば、教会で引き取られ
た赤子が立って歩いて、なおかつ流暢に喋れるようになっていた。
 混乱する彼を笑うのはいつもティファ。
 人間の食べるものを教え、人間の寝る道具を教え、人間に関するすべての
知識を教えながらも彼をからかうことだけは忘れない。
「ヒューゲル、人間の男は家事ができないと存在する意味を失うのですよ。
 あなたも何か覚えてはどうです?」
 魔族の男が家事をできないと思われているのが癪だった。だったらやってや
る、と意気込んだ所で彼は自らの行いに苦笑してしまった。魔族であるというこ
とを捨てたはずなのに、慣れない――魔族として誇りを捨てきれていない。
 それに気がつくたびに彼は溜め息を吐き、大人しくティファに笑われた。
「そういえばヒューゲル、あなたが成すべきこととはなんですか?」
 笑い声を押し殺しながら問われたその言葉。
 彼は答える言葉をもってはいた。だが、すべてを答える気にはなれなかった。
 それが魔族としての誇りだったのか、ただティファという女が気に食わなかっ
ただけなのかは分からない。すべては過去のこと、起きたことの意味を探った
として何ができるか。
 分かっているのは、酷く物憂げな表情で答えた――それだけだった。
「死ぬために生まれる命なんてあっちゃいけねぇだろ……」
 ティファがなんて答えたかも覚えていない。
 笑っていたのか、同意してくれたのか、それとも反論されたのか。
 短い時間の中で色んなことが起きすぎた。全部覚えていられない、そんなも
のにに記憶容量を割くくらいならば、人間たちの料理を覚えた方がよっぽど建
設的だった。
 ――少なくとも、あの少女を目にするまではそう思っていた。
 夜の闇よりも深い黒をその身に宿した少女。光を映さない眼は何を見ている
のか、ただただ鋭く尖り、自分以外のすべての存在を憎んでいるようにも思えた。
 それは、伝承に聞く大魔導師とは似ても似つかない憎悪。
 呪われた運命を背負い、憎まれるためだけに生まれた少女のなれの果てか
と思えば納得もできた。
 だが――
――緑の一族、大魔導師の復活祭を行うことが決定しました。その時が来るま
で、あなた方は彼女の墓を守り続けなさい――
 そう告げた大賢者の転生体。
 復活祭の意味を問うた彼は、そのことを後悔しなかったものの、代わりに魔族
への憎悪を芽生えさせた。
 大賢者の転生体は他者を見下すような眼差しで静かに告げる。
――彼女の魂を宿した転生体を軸に大魔導師を復活させます。その際、転生体
は死にますが、たいした損害ではないでしょう。大魔導師が復活するならば――
 大魔導師は魂が壊れすぎて転生できないと聞いた。それがようやく転生できる
というのに、たとえ無理のある形だとしても別の人生を歩み、その中で自らの望
みを叶えていくはずなのに。
 それを一方的に奪おうというのか。
 数ばかり増やす人間と永きに渡る膠着状態に決着をつけたい気持ちは分かる。
だが、だが、それでもやっていいこととやってはならないことがある。
 大魔導師だってそれを望んでなんていない――代々墓守を続ける彼は断言できた。
 だからこそ、止めるために。
 いずれニヴルヘイムを訪れる少女を人間側へと引き込むために、ニヴルヘイ
ムを捨てたのだ。
 一族すべての命を引き換えに。
「……アイツが……そうか」
 フェンリルに連れられ、走り出す少女。その瞳が懐かしいものを見たと認識し、
細められることにすら胸が痛む。それはお前の記憶ではない、それはお前のも
のではない。
 生贄として生まれた事に気付くよりも前に、この国を出て行け。
 さもなくば――


 出て行かないのならば、せめて苦痛で終わらぬように優しい眠りを……


 血に染まったその両手を哀しく思った。
 人を殺すことに躊躇いをもたなくなった心が悲しかった。
 周囲に騙されていることに気付かずに生きる彼女が悲しかった。
 たとえ、そこに本当の情が潜んでいても。
 魔族である彼らは、大賢者の選択を跳ね除けることができないだろうから。
 結果的にあの少女は消えてしまうのだ。
 まるで、最初から存在しなかったかのように。
「ずいぶんと哀しい顔をしているのですね。
 なにかありましたか? と、おやおや? どういうことです、この料理は」
 いつものように姿を現したティファの顔に驚きが走る。それもそうだろう、物憂
げにニヴルヘイムの方角を眺めている彼のテーブルには数え切れないほどの
料理が並び、しかもそのどれもが自らをアピールするように芳しい香りを放って
いたのだから。
「考え事してたら手が勝手にな。食いたけりゃ食え」
「それでは遠慮なく」
 席について食事を始めるティファ。
 食物を口に運ぶよりも前に、味を噛み締めるよりも前に、
「大魔女の食事はさぞかし豪勢でしょうね」
「…………ふん」
 スープの中の肉が姿を消す。
 ティファが何を思って彼女の話題を出したのかは分からない。だが、それが決
して気まぐれか何かの類ではないことは彼が一番よく知っていた。ただの人間で
ありながら、魔族の情報にも天使の情報にも優れている女。
 ただの法術士かと思えば、槍を用いた接近戦を得意だという女。
 決して正体を見せることのない霧のような女は、テーブルの上にならんだ料理
を平らげながら、時折り思い出したようにあの少女のことを話し出す。
「部屋で優雅にとる食事、羨ましい生活だと思いませんか?」
「思わねーよ」
 光を捨てても捨てても、焦がれずにはいられない眼差し。
 正面からぶつかれる相手を欲する腕。
 優しく抱き締めて欲しいと願う心。
 死ぬために生まれた少女は、あんなにも生きたいと願っている。
「アイツが欲しいのはよ……」
 黄昏が西の空に見えた。
 ニヴルヘイムの空の紅は、独りで食事を取る彼女に何色として映るのだろう。
 いい味に仕上がったような気がする肉を口に含み、彼は自嘲気味に笑った。
「笑いながら、飯を楽しみたいんだろ。誰かと話しながら、誰かと同じ時間を過ご
したいんだろ……まるでガキだぜ、アイツは」
 だって、ガキだ。人間だということを抜きにしても、子供なのだ。あの少女は。
 過酷な運命を背負うには小さすぎるほどに。
「あなたがなれば良かったじゃないですか」
 ティファの言葉に彼は息を吐いた。
「今更だな。アイツはもう、オレじゃだめだぜ……そうだな……アシュレイドが、
いい。
 アイツが安らいで、甘えられんのはアシュレイドしかいねぇよ」
「悔しいですか?」
「……どうだかな」
 彼の答えにティファは笑っていた。
 笑い声に気を悪くするでもなく、彼は黄昏色の空を見上げ続ける。
 もしも彼女がこちらへ来ていれば、共に過ごせたかもしれない食卓。
 バカ話に花を咲かせて料理を振舞えたかもしれない、友達のように――恋人
のように。
「オレも甘いもんだ」
「そうですね」
 食器を置いて、ティファが立ち上がった。
「そうそうヒューゲル」
 振り返るその顔には薄笑みが貼り付けられたまま。何を考えているのかまったく
分からない。
「今日の味付けは今までで最低でしたね、もっと精進しないといつか死人が出ますよ」
 完食しておいてなにをいうか。
 自分の分まで食べられたことに軽い怒りを抱きながら、どうせすぐにその怒りは
冷めるだろうと空になったスープ皿を持ち上げた。
「……一度くらい、食わせてやりたかったな」
 一滴も残らないスープ。
 彼女が好みそうな食材で味付けをしたのだ。
 すべて、彼女のことだけを考えて作り上げたのだ。
 味も、栄養も、込める心も、すべて彼女のためだけに。
 可哀相な――生贄の少女のために。


「オレがいなくなっても……幸せになれよ。幸せに、なれないはずがねぇんだからな。
 この世界に生まれた以上、お前には幸せになる権利があるんだからな」


――忘れるなよ――