古の神はそれを忌み嫌っていた。
 堕天した存在すべてを。
 自分たちで勝手な名をつけた大陸で暮らす民すべてが憎かった。
 憎悪は伝染し、やがてすべてを黒に染め上げる。
 いつの日からか、彼らは大地に住まう民すべてを憎んでいた。
 理由すらも忘れるほどの長い年月を、彼らを憎んで根絶やしにすること
だけに消費してきた。
 すべてを見失うほどの長い時間を――


「どこへ行っていた、ティファ」
 玉座に腰掛けている王が口を開く。その声と言葉にティファは若干、表
情を歪めたように思えたが、その顔を覆うヴェールによって表情の判別を
することはできなかった。
 しかし、決して機嫌が良いわけではないようだ。
 鈴の音を響かせて歩くその姿は、今にも王の首をその手でもぎ取ってし
まいそうな気配すら感じたのだから。
「大魔女に会ってきました」
「キルケにか? ここにいればいくらでも会えるだろう」
「……――えぇ、そうですね」
 七瀬夕莉の存在を知らないわけではない王。それでも大魔女と呼べば、古
の存在のことを指す。現在では大魔導師と呼ばれる彼の魔女のことを。
 遠くの空を見据える青い双眸を見遣る。
 遠い歴史の中でなおも色濃く記憶に残っている色とまったく同じ色を宿した
人間、しかしそれは当人ではない。七瀬夕莉がキルケではないように、まして
やこの人間の王と彼女らが王と崇めた存在はまったく別の存在。
 転生体でもなければ、造られた命でもない。
 ただ、魔族と敵対している種族の王――それだけ。
 二人のつながりはそこだけなのだ。
 無理やり繋がっている他者の魂は、本人の魂をも侵食していく。
 人間の王――スルトと七瀬夕莉は顔を合わせ、言葉も交わしている。それで
も記憶に残らないのは、侵食する魂が過去の記憶のみを映しているからだろう。
 見えない、見ない。
 現在も、未来も。
 青空の如く澄み渡った双眸には、存在するはずのない未来だけが浮かんでいる。
 ――神々が支配する汚れのない世界。
 大地には命そのものが存在しない世界が。
「スルト様、魔神王と大賢者がこちらへと近づいているようですが、どうしますか?
 我々の兵はもう――」
「キルケがある。キルケにニヴルヘイムを襲わせろ。
 そうすれば頭の悪いアイツのことだ……大局を把握せずに引き返すに違いない。
 その背中を我らが億の兵で叩けばいい」
 億の兵――かつては、そう呼んでいた。
 白い羽の軍勢。
 今は存在しないもの。今、この国に存在するのは真っ赤に染まった血染めの
亡骸ばかり。
 白い法衣を纏った法術士たちだってティファを残して全員が死滅してしまった。
ニヴルヘイムに乗り込んだ人間たちだってどれほど生き残っていることか。
 この船を動かすことすら困難な状況を、彼は何と認識していることか。
 雲の上の王国と――?
「……承知しました」
 頭を振り、自分がなすべきことをすべく手を伸ばす。
 王の命令が直接キルケの頭に響くように、愚かなことこの上ない戦いを終わら
せるために。
「……病み色の子守唄……誰に芽生えたかは教えません、漆黒の人」
 小さな声で歌うように告げ、双眸を閉ざす。
 透き通るような鈴の音が大気へと溶け込み、一直線に古の大魔導師へと向かっ
ていった。


「……!! は、あぁぁ……っ! わたしは、私は……拒絶、する。したい……!
 この大陸を、この……国を、傷つけて……」
 一度は失った命。
 繋ぎとめるのは奪い取った魂の片割れ。まるで呪いのように偽りの躯に根付い
て、忌々しい声と音をとめどなく流し続ける。
 裏切れと、命じる音も声も振り払うことができない。
 血の流れない躯を巡るのは、この声と音だけ。まるで蜘蛛の糸のように、獲物
を絡めとる憎たらしい音。
 抗えば抗うほど苦しみは持続することになる。
 自分ではない誰かが手を動かし、自分ではない誰かが言の葉を紡ぐ。
 太古の言葉、彼女だけが知りうる知識のすべて。
 拒絶の言葉は涙とともに呑み込んで――
「眠りの柩 汝が絶望染め笑う 死神の宴」
 大気が歪む。
 精霊たちを破壊しながら、侵食しながらそれは強大な力となり大地へと降り注ぐ。
 その色は真紅。
 降り注ぐ真紅のつぶて。
 今は失われし太古の魔術。
 すべてを消し去るために作られた創生の言葉。
「嘆きの歌よ ……ひびっ……」
 唇を噛む。
 血の滲まない唇に、痛みを感じない躯。
 止まった言葉が力を失っていくのを肌で感じた。耳の奥で聞こえる鈴の音も、忌
まわしい声も、すべて無視してしまえたらいいのに。
 この大陸を汚すことなど、この国を壊すことなど。
 誰に許されたことでもない。
 たとえ許されていようとも、壊したくない。
 ここが――
「私の……たった一つの……居場所……っ」
 すべてを失った汚らしい子供を受け入れた風変わりな王。
 限られた生活の中で愛情を注いでくれた賢者。
 強さを認め、その存在を認めてくれた民たち。
 美しい自然の中で胸の奥に芽生えた闇を包み込んでくれたぬくもりすべて。
「壊してなるものか……壊させて……など……!!」
 痛みを感じなくとも腕が引き攣る感覚は好きになれない。この腕が千切れてしまっ
たらどうなるのだろう。古の時代のように再生するだろうか? 否、きっと朽ちてしま
うだけだ。
 この躯は祝福されてなどいない。
 この身を包んでいるのはどす黒い呪い。呪われているだけだ。
 もう一度朽ち果てようとも、
「私は……あなたの思うままの人形ではないっ……!!」
 音のしない心臓が叫び声をあげる。
 胸の奥に存在しない闇を揺り動かすような響き。
 それは確かに告げた。

――終焉ノ歌ヲ――

 雫が一筋、頬を伝う。
 それが何であるかを理解するよりも前に口が動いた。
「眠りの柩 汝が絶望染め笑う 死神の宴
 嘆きの歌よ」
 止められない。
 力の及ばない部分を支配されたこの躯では、何も、止められない。
 大気が歪む。
 精霊たちの断末魔が呪歌となる。
 やめてと叫ぼうにも声が出ない。
 定められた言葉しか出てこない。
 この大陸を滅ぼしてしまうくらいならば、敬愛する王に背くくらいならば。
 この死した肉体すべてを獣に喰らわれてしまえたほうがどれほど救われるか。
「ひび――――!!!」
 祈りが通じたのだと思った。
 青白い毛並みの狼が視界に入ったときは、魔族にも祈りを叶えてくれる神がい
るのだと思った。面白がるだけではなく、救いの手を差し伸べてくれる神が。
 獣臭い。
 首に深々と食い込む牙は死臭を嗅いでもその力を抜くことはなく、傍で見守って
いたヴァンパイアは酷く悲しそうな顔で微笑んでいた。
「あのね」
 開かれた唇は血の色。
 細められた瞳と同じ色。
「キルケさま、聞こえたよ。
 キルケさまの願いと祈り。ボク、叶えにきたんだ。
 キルケさまはもうたくさん傷付いたから。苦しんだから……だから」
 獣の双眸四つ。
 喉笛を破壊されたとはいえど、まだ術の全てが失われたわけではない。
 紅雀が青白い毛並みの獣へと襲い掛かり、その刀身を煌かせる。
「させないよ」
 金属同士がぶつかる音と同時に紅雀が大地へと叩きつけられた。その傍らに落
ちるのは銀のナイフ。ヴァンパイアが苦手――吸血コウモリたちが苦手とする銀を
用いたナイフを、彼が持っているのはなんて不思議な話だろう。
「キルケさま――」
 酷く悲しい微笑。
 赤い双眸に迷いはない。
 守るべきものが見えている強い眼差し。
 まっすぐな目に見据えられ、まっすぐな力に噛み砕かれ、頭の中で響く声と音が遠
ざかっていくのを感じた。
 代わりに聞こえ始めるのは胎動。
 始まりを告げる終わりの足音。
 耳に響く心地良い声は、その始まりを感じているようにも思えた。
「もう、休んでいいんだよ? ボクはグレイ、あなたに助けられた弱いコウモリ。
 あなたに会うために生きてきた。けれど今、ボクはあなたに会えた。
 これからのボクはあなたを守るために生きていく。あなたの転生体を守るために。
 あなたの守りたかったすべての存在を守るために生きていくから――苦しまないで、
もう眠っていいんだよ……大好きなキルケさま」
 鋭い爪が振り上げられる。
 この程度の力で終わるとは思っていない。しかし、しばしの休憩にはなるかもしれない。
 キルケが目を閉じた刹那。
「こいつは僕の獲物だ、邪魔すんな」
 低く、抑えられた声が間近で聞こえた。
「黒い……私」
「よぉ、なに泣いてんだよ。テメェらしくねぇーなぁ!」
 吐き捨てるように告げられた言葉と共に黒いブーツがキルケの額を蹴り上げる。獣
の鳴き声が響いて、牙が引き抜かれる感触と骨を伝っていく痺れに思わず顔を顰めた。
「ナナセ様! いくらなんでも今のは――」
「うるせぇフェンリル! どーせあと数秒もしねぇうちにテメェは口開けてただろ。
 ちょっと早まったくらいでガタガタ抜かすな!」
 早口で告げられる罵倒の言葉は、その裏に何かしらの感情を抱いているようにも感
じられた。伝わってくるのは戸惑いと、悲しみに似た感情、そして喪失感。
 この娘は何かを無くしたのだろう。
 魂の半分だけでは受け止めきれないほどの大きなものを。
「黒い私、あなたは何を失ったの。
 何があなたを変えるの、私とあなたを変えていくのは何」
 告げながら夢浅葱を振りかぶる。
 失った右目がじくじくと痛んだ気がするのは――きっと、七瀬夕莉が失ったものの痛
みを分け与えられているのだろう。
 光を奪われた心にさらなる黒を落として、闇へ闇へと染まっていく彼女の叫びなのだろう。
「テメェが泣いてる理由教えたら教えてやんよ!」
 カロンで夢浅葱を弾くと同時に夕莉は身を屈め、キルケの懐へと入り込む。以前とは
違う体の動きに成長以外の何かを感じながら、キルケはそれに応じようと胸の前で手を
合わせた。
 空洞の開いた喉へと肉が集まり、瞬時に再生する。
 そして紡がれるのは他者の意思ではない、彼女自身の意思による言葉。
「荒ぶる魂を呼び覚ます呪いの子守唄
 石榴の血に呑まれ溺れる
 悲しみの歌よ 響け」
 古の大魔導師が宿していた魔力、そのすべてを受け継ぐ転生体。小さな器に宿った
大きすぎる力、その力の半分を魂と共に奪っていた者が告げる言葉、純粋な力を穢す
白く、輝く力。
 黒と白が混ざり合い、そこにあるすべてを塗り潰していくかのような濃い力を感じる。
 鼻先でそれを感じた夕莉の顔に、今まで浮かべたことのないような部類の表情が浮
かび上がった。歓喜に満ちたかのようにすら思える顔、しかしその手が宿すのは激し
い憤怒。
「……なぁ」
 漆黒の双眸がキルケを見据える。
 彼女は気付いたろうか、背筋を伝う感覚に。
 遠い昔に感じた、あの――気配を。
 闇に潜む彼の存在に。
「ずいぶんと遅くねぇか? アンタ」
 漆黒に愛された大魔女を包み込むかのように両腕を伸ばしている、あの存在に気
が付いた?
「――ッ!!」
 歯を食い縛り、その場を飛び退く。機動力では空を飛べる夕莉に劣るが、瞬発力だ
けならばもともとの体のつくりが優れているキルケの方が勝っている。一時的に距離
をあけたものの、そんな差ではすぐに追いつかれてしまうだろう。
 最早、光という光を見失っている双眸は、貪欲なまでに光を追い求める。あの漆黒
の双眸がキルケから目を離すことはない、彼女自身が失った光を宿しているゆえに。
 彼女自身がようやく手に入れた光を奪った肉体を滅ぼすために。
「すげぇ、不思議なんだけどよ。
 さっきから体が軽いんだ。テメェを殺したくてウズウズしてるのに頭は冷え切って冴
えてるし、カロンも重くねぇ。少しは強いとか認めてたテメェも強く感じねぇ。
 なんだろうな、この感覚。終わりが見えねぇよ。いくらでも出てくる」
 蠢く、闇。
 病んだ心に芽生える種子。
 やがて大いなる滅びもたらそうか。
 遠い昔に感じた滅びの予感。それはある方法で食い止められた。
 そして、封じられた。
 箱と鍵として、二つに分けた。
 一つの中で、二つに。
「なぁ、キルケ」
 大きく見開かれた漆黒の双眸、闇色の眼。
 正気を保っているのか、いないのか。決して笑みを浮かべてはいないものの、そこ
にある表情は笑みだった。
 何がおかしいのか、何を喜ぶのか。
 感じても、理解はできない感情。限りなく虚無に等しい感情。
 構成された古の呪歌が喰われていく。
 その力にこの国の者たちは気付いただろうか。
 争いが生み出した恐ろしい結末を。
 未来は――――
「テメェの魂は元々の僕のだろ? 返せよ。とっとと消えろ、ウゼェんだよ……これ以
上、僕を僕から変えんな」
 こんなにも滅びに等しい。
「消えるのはあなた」
 存在しない右目が疼く。
 深すぎる闇に喉が乾いた、食欲なんてものは存在しないはずなのに。
 見えない力が互いにぶつかり合い、牽制しあう。古の大魔導師と現代の大魔女の
ぶつかり合いは、魔術ではなく魔力同士のぶつかり合い。
 剣も、杖も、余計なものは何一つとして必要ない。
 力一つ。魔力一つあればそれでいい。
「ウゼェ、ウゼェ、マジでウゼェ! 消えちまえ、テメェなんかッ!」
 激昂する声。震える心はそこで眠る闇を揺り動かす。
「――冷静ではないあなたに勝っても意味はない……頭を冷やすことね」
 その闇が伸ばす腕から逃れるようにその身を翻す。
「待ちやが――ッ!?」
 追いかけようと一歩を踏み出した夕莉が悶絶する。
 今まで勝負の行く末を見守っていたグレイとフェンリルが駆け寄り、抱き起こそうと
手を伸ばした瞬間、その異変に顔を顰めた。
「キルケさま、これは……?」
 背中に投げかけられる疑問。
 しかし彼女は何一つとして答えずに歩き出した。
「まちやがれ……僕は、テメェを……ブッ、ころ……」
 震える手を伸ばして告げられる言の葉。
 それは誰の望みか。
 七瀬夕莉そのものの望みだったのか、病んだ心に芽生えた闇の望みだったのか。
 もはや誰にも分からない。
 何も見えないくらいすぐ近くまで闇は迫ってしまっていたから。



「……体が、軽い……?」



 呪縛の糸が途切れたような気がした。
 懐かしい死の匂いと共に。