「……望んだ未来……なんて儚いのでしょうね」
「なんか言ったか? ネビロース」
 告げられた名に彼は顔を顰めた。眼鏡を中指で押し上げ、その身に集
まる黒を空いた手で弄んでいる姿に精霊が歓声を上げる。
 歌声が響き、全身に纏う黒に名がつく。
 駿河真――彼が纏う黒の名は過去。遠い昔を思い出すかのように目を
閉じるその姿は、十五歳の子供であったあの少年ではない。遠い過去の
記憶を抱いていたとしても、どこか子供らしさを残していたあの人間ではない。
 今、この瞬間よりこの場に立つのは――
 その髪は夜の闇の如く美しき漆黒。
 その双眸は知性を宿した黒真珠の如き漆黒。
 細く、頼りなく見えるその四肢には溢れんばかりの魔力に心酔した精霊
たちがしなだれかかる。魔族にしては背丈のない体に精霊たちが寄り添う。
 口々に告げる遠い過去の歌。
 口々にその言葉は告げられる。
 帰還の喜びを、争いの始まりを、終わりが始まることを喜ぶ精霊たちの
歌声。
 旋律の中に混じる小さな嘆きは誰が発していたものだったのだろう。最
早、かたちすらも留めていない小さな嘆きは、やがて音すらも消え去り、
精霊たちの歌に呑まれて姿を消した。
 黒が踊る。
 深山結梨の姿で笑うアスタロトの双眸に映るその姿は、見目こそ駿河
真のものであったが、遅くは古の時代に生きた大賢者そのものの姿に見
えているのだろう。
 肉の薄い唇に笑みを浮かべ、そしてすぐに無表情になる。
 手にした姿なき杖を真横へ一閃させると同時に地平線の向こうで爆発
が起こった。打ち上げられた幾多もの魂、それを喰らうニヴルヘイムが咆
哮をあげる。
 大陸全土を揺るがす大地の鬨の声。
「終わらせましょう……このような誇りなき争いなど」
 低く抑えられた大賢者ネビロスの自身の声。
 久方ぶりに聞いたその響きは、まさに当時を知るアスタロトにはたまらな
いものだった。
「あぁ! さっさと神を殺すぞ」
 唇を三日月の形に歪め、すべてを産む母なる海を模したかのような、青色
の双眸を細める。
 その手には、失われた魔剣の柄。
 戦争を放棄した魔王の意思により破壊された、魔剣――タナトス。かつて
古の時代に魔神王アスタロトが愛用していた死を運ぶ剣。
 刃を失ったそれは、久方ぶりに再会した主を歓迎するかのように冷たい金
属音を響かせる。
「いくぞ、タナトス」
 声に反応する金属の音。
 涼やかなその音色は、新たな刀身を紡ぎ上げる。
 その身に蓄積された魂を削り、再びその冷たい金属の体を暖かい血で浸す
ために。
 原初の魂水晶が震えた。
「いざ参らん、宿敵がもとへ」
 凛とした声。それは真――否、今はネビロスと化した少年の耳へと響き、ア
スタロトには見えることのない姿を映し出す。
 銀色の髪を揺らす魂水晶のもう一つの姿。想いと記憶の作り出す幻影は、愛
する主の手を引いて走り出す。生きた剣に導かれ、魔神王は空を往く。
 あの遠い時代のように。
 魔神王が天空を駆け、その後ろを大賢者が続く。
 あの時代のような翼の生えた馬は絶滅してしまったけれど、翼がなくとも空を
駆けることのできる力を手に入れた。
 あの馬がいない以外はすべてが同じだった。
 黄昏色の空にその姿が舞う。
 空を飛ぶ戦士はいないけれど、空を走るその姿は変わらない。
「……同じだ……あのときと」
 しなやかな両腕で掻き抱いていた年若い人間の兵士を地面へと投げ捨てる。
口の端を伝う赤い雫は、彼の食事の証。
 いくつも重ねられて捨てられている年若い人間の亡骸は、すべてみな干からび
ていた。満腹感というものを感じないのか、グレイは血のように赤い双眸を嬉しそ
うに細め、天へと手を掲げる。
 祈るように、請うように。
「ボクが……コウモリだったころと同じ……」
 絶望が空を染めたあの時代。
 すべての命が道を絶たれる刹那にいたあの時代。
 それは、公平に訪れる。
 音のない死。
 それを迎えるはずであった一匹のコウモリ。
 思い出の中に残る映像を思い出し、微笑むグレイ。
 当時はもっていなかった鋭い爪で美味しくなさそうな人間を切り裂き、真っ赤な血
を全身に浴びながら大きな翼を広げる。
 亡骸たちの仰ぐ空が小さな夜に染まる。
「アスタロトさまとネビロスさま」
 群れから外れ、食べ物もなく衰弱していた吸血コウモリを救ったのは大魔女の血。
自らの腕を差し出した大魔女――後に大魔導師と言い換えられた美しい夜は、そ
の傍らにいた大賢者にたしなめるように小言を告げられていた。
 少し離れた場所で笑う魔神王。
 目を閉じれば、その声が脳裏に蘇る。
――キルケ、あなたの血は貴いものなのですよ。
 そのようなコウモリにあげる必要はないでしょう――
――そう言うな。
 キルケだって女だしな、小動物を愛でる気持ちがあるんだろう――
――陛下!――
――……私の血をあげる、小さな命に私の命を少しだけあげる。
 さぁ――生きて――
 二人の声など聞こえないかのようなキルケの言葉。
 その腕に体を乗せ、懸命に血を啜るコウモリを見下ろす漆黒の双眸は慈愛に満ち
ており、とても天使を羽一本として残さぬほどの魔術を扱う、恐ろしい魔女には思えな
かった。
 むしろ、優しすぎるほどにすら思えた。
「……あのね、キルケさま。ユーリさま」
 整いすぎた唇が、この世界に生きるすべての生き物を魅了するかのような低く、甘
い声でささやく。その腕の中で息絶える少年兵は恍惚の笑みの中、冷たく氷のように
色を変える。
 鋭い牙から血が滴り落ち、広げられた漆黒の翼を頼りにコウモリたちが集まって来た。
金切り声のような鳴き声を発し、生き残っている人間たちすべての血を吸い尽くすべ
く飛び回る。
 激しい羽ばたきの音。
 腕に抱いた人間の亡骸を地面へと投げ捨て、グレイは黄昏色の空を思い切り仰いだ。
 欠点の見つからない美貌の顔に満面の笑みを浮かべ、
「ボク、戦えるよ。キルケさまもユーリさまも守るよ、ボクはヴァンパイアのグレイ。
 コウモリを統べる始まりだよ、ね? キルケさま」
 大きく羽ばたく。
 木の葉が舞い、細身の体が浮き上がる。
 まるで大地に足を下ろしているかのような確かな足取りで、二人を追いかけるその
姿をコウモリたちが追いかけていく。その姿は恰も夜が移動するかのように思えた。
「おい、ネビロス! 凄いなーあれ!」
 背後から近づいてくる集団に気が付いたアスタロトが嬉しそうな声をあげる。
「あいつらコウモリたちだろ? 増えたなー。グレイは元気だなー」
「……お子様は悩みがないだけですよ」
 何が気に食わないのか不機嫌そうにそっぽを向くネビロス。その真横に満面の笑
みを浮かべたグレイがついた。バサバサと大きな漆黒の翼を羽ばたかせ、心の底か
ら嬉しそうに両腕を振り上げる。
「ネビロスさま! ボクたちも戦います! キルケさまと、ユーリさまのために」
「勝手になさい」
 ツン、とつき離すネビロス。しかし彼にとっては突き放されたのではなく、自分の意
見を認めてもらえたという感覚だったのだろう。とても耽美な外見にはそぐわない喜
びのダンスを披露すると、そのままコウモリたちと共に大地へと引き返していった。
 蠢くコウモリたちの群れは夜の大移動。
 移動する夜に飲まれ、冷めることのない眠りにつく人間たちの悲鳴が旋律のように
重なる。
「コウモリたちもハデな戦い方をするな。魔神王として――」
「張り合わなくていいですから」
「……なんだよーネビロスはほんと、けーわい、だな」
「……ですから、深山の影響を受けすぎだと……」
「俺が張り切ったら脆弱な人間の体なんて四散するもんな。
 ネビロスは俺の自由よりも人間の御友達を選ぶんだよな?」
「なんでそうなる……」
「ほーんとお前は自分に嘘をつくのが好きだな」
「ですから、何でそういう話に。そもそも私が嘘を口にするようになったのは……」
「俺のせいにするなよ少年」
「ですから……」
「まあ、偉大なる俺の傍にいたら嘘の一つでもつけないと、惨めになるよな。
 言い訳たくさん用意しておかないとカッコつかないしなー。な? 大賢者さま♪」
「……あなたは……」
 ぷるぷるとネビロスの拳が震える。
 細い肩が同じように震え、遠い時代にはなかった表情が引き出される。
「あなたは! 本当にKYですね!」
「おっ、お前だって使ってるだろ? けーわい」
「……!!! …………言葉の……あやです」
「だれだよアヤちゃん」
「……我が王ながら、廊下に立たせたい気分ですよ」
「虐待だな」
「私は教師ではなくクラスメイトですから」
「イジメはカッコ悪いぞ」
「下克上ですよ……!」
 ネビロスの姿なき杖が再び一閃する。
 それは船の上で法術を紡いでいた法術士たちを見えない糸で釣り上げ、空へ
と舞わせていた。その滞空時間は瞬きをする間もなかったろう。
「ふらいんぐ、だろ? これは」
「あなたこそ。まだクラウチングスタートの姿勢にも入っていないというのに」
 自らが空を飛んでいるということに気付かぬまま、肉隗へと化した法術士であっ
たものたちが大地へと降り注ぐ。嬉々として飛び掛るのは、森の中を荒らされた
魔獣たち。
 血の雨がニヴルヘイムに降り注ぐ。
 遠いあの時代にも降り注いだ赤い雨。
 ふいにアスタロトが不思議そうに口を開いた。
「そういえば、俺たちはどこに向かってるのだ? 雲の上の城はもうないだろ」
「…………なんで空を飛んでいると思ったんですか」
「かっこいいだろ?」
「……あの船の上に、火の国の王スルトがいます。
 私たちはそこを目指して――」
「ほお」
 空気が凍る。
 精霊達が歌を止め、その表情に魅入る。
 魔神王の本性を告げる横顔。絶叫と、血を好む魔の者の特徴を宿す微笑。
 魔剣タナトスが震えた。
 その血を――知っている。
「……スルト……か、久しいな」
 笑う魔神王。
 ニヴルヘイムには絶叫が響き渡る。
 すべての存在よりも美しい叫び声が。
 幾重にも重なり、幾千の魂の舞いを見せていた。