心臓の鼓動が重い。
 精霊たちの歌声が耳障りなほどに煩い。肌に張り付くような音色を引
き剥がそうと爪を立てる。けれども感じるのは爪が皮膚を裂く感触と、
胸の奥を抉られるように痛み。
 何かを失った心が叫び声を上げて何かを求めている。
 そのどれもが答えのわからないもの。
 感覚で理解しても言葉にすることができない。この感情はなんだろう。
 寸刻前の自分は何を告げようとしていたのだろう。
 鈍く痛む胸の奥で、何かが大きく音を立てた。


――この闇はお前の自身の闇。病める心と体と魂がすべてを呑みこむ――


 ふいに聞こえた声。それは決して空耳などではない。どこかから聞こ
えてきたのだ。とても近いようでとても遠い。それこそ、目の届かない場
所、手の届かない場所から。
 夕莉は光のカーテンが揺れる空を仰いだ。
「……ヒューゲル」
 足元で永い眠りについた男の名前を呼ぶ。
 その身に宿っていた魂は闇が喰らってしまったけれど。その肉体はこ
こにある。この大陸に溶け、この美しい大陸の一部になる。
「お前が眠るニヴルヘイムを人間になんかやらねぇからな。
 いいか、見てろよ……ヒューゲル、僕は双黒の大魔女……黒き咆哮
七瀬夕莉。
 ……ニヴルヘイムを守る戦士だ」
 静かな声。けれども力強い声で告げ、夕莉は大鎌を握り締める。
「行くぞ、カロン!」
 夕莉の魔力に共鳴するように大鎌が啼く。それは遠くまで響き渡るか
のような美しい音。精霊たちの歌声にも劣らない力強さと美しさを兼ね
備えた音なき歌と呼べるもの。
 ざわざわと精霊たちが移動を始める。夕莉と大鎌を中心に風が動き、
その身を空へと舞い上げた。空中で体勢を立て直して前へと進む。
 気付けばニヴルヘイムからは法術の膜が完全に消えている。
 地に伏した同胞たちが雄叫びを上げ、人間たちを迎え撃つ音が聞こえ
る。一度は潰えた勝利への篝火は、再び魔族を導くために灯された。
 それを見下ろす夕莉の口元に笑みが走る。
「よし、これなら――」
「まさか法術を打ち破るとは思いませんでした」
 全身に鳥肌が立った。
 ふいに聞こえた声と、目の前に現れた人間の姿。その格好は見覚えこ
そあったものの、それが自分自身の見たものではないということは確か
だった。
 まるで踊子のようなその格好。薄いヴェールに覆われた口元は表情を
隠しているのか、はたまた自らの顔を隠しているかは分からない――け
れど、揺れる金色のツインテールも、笑みの形に細められた青い瞳も、
確かにどこかで見ている。
 今とは違う場所で。
 今とは違う時代で。
 確かに二人出会っている。
 夕莉は息を呑んだ。嫌な予感がする。
「おや? また自己紹介しないといけないようですね。
 私はティファ=レトミカ=エルオール。火の国に仕えし法術士です」
「ウソ吐くんじゃねーよ」
「ほう?」
 ティファが不思議そうに瞠目している。だが、驚きたいのは夕莉のほう
だった。
 口が勝手に動いたのだ。目の前にいる女のことなんてしらない。ティファ
なんて名前に聞き覚えすらない――けど、この女が火の国に仕えている
ということも、法術士だということも、本当とは思えない。
 限りなく嘘に近い。
 なにをもってそう判断したのかは夕莉自身分からない。しかし、口を吐
いた答えが間違っていないことを彼女の心は確信していた。
「……殺気、ねぇな。アンタ」
 自分に確かめるように告げる。
 その言葉にティファはしなやかな手を口元に当てて笑った。
「えぇ。私は大魔女キルケを殺めることは考えていたとしても、あなたの
ことは殺めようとなど思っていません……いえ、むしろ」
 不意に傍らに現れたティファの手が夕莉の頬を撫ぜた。
 殺気はない――けれど、心地よいものではなかった。振り払おうか、
切り落そうか。
 どちらを行動に移そうかと考えている夕莉の傍でティファはしとやかな
笑みを浮かべていた。
「我が王の暴走を止めて欲しいと思っているのですよ」
「――火の国の王、スルトの暴走?」
「えぇ。
 我らに億の兵はもういない。現存しているのは私と王のみ……それを
王は気付いていないのですよ。そう――自らが肉体をもたないということ
すらも気付いていない」
「はぁ?」
 突然の言葉に夕莉は顔を顰めた。
 意味が分からない。火の国の王スルトの姿は何度か見たことがある―
―もちろん、ちゃんと肉のついた人間で、とても偉そうな面構えをしていた
ことをよく覚えている。
 それが肉体を持たない?
 ありえない。もしもそうであれば、夕莉はもちろんのこと魔族が気付かな
いはずがない。
 人間とも魔族とも違う雰囲気と臭いに違和感を感じることだろう。しかし
それがなかったのだ。つまり、あれは正真証明スルト自身であり人間だっ
たのだ。
 ――なのにこの女は何を言っているのか。そのような戯言で魔族が騙さ
れるはずもないというのに。
「アイツは人間だろ。バカげたこと言ってんじゃねーよ」
「大魔女とキルケとあなたのような関係といえば理解されますか?」
 トーンを落としたティファの言葉に瞠目する。夕莉とキルケの関係――そ
の言葉の意味するところを感じ取り、同時に自らが勘違いをしていたことに
も感付いた。
「……アンタ……人間のクセに、いいのかよ? 魔族にんなこと教えて」
 このような情報が魔族の手に入ってしまえば、人間側に勝機はないに等し
い――人間に向けられる憎悪よりもはるかに強い憎悪がニヴルヘイム全土
を包み、すべての魔族が怒りに我を失うことだろう。
 そのことを人間が知らないはずはないというのに。ティファは妖艶な笑みを
浮かべると、纏った羽衣をなびかせて夕莉に背を向けた。
「私は我らが王に気がついて欲しいだけですよ。
 我々に勝ち目はない。この世界はすでに魔族を選び、ユーミルは我々の勝
利を予言したりはしないと」
「ユー……ミル? おい!」
 ニヴルヘイムの古い本に記された名前と同じもの。
 人間がそれを知るはずはない。この本はニヴルヘイムにある一冊だけがこ
の世界に現存しており、この知識をもつのは魔族か――または。
「アンタ、もしかして――」
「今はさようなら七瀬夕莉。また会いましょう……我が王の死で再会を果たし
ましょうか」
 白い羽が舞う。
 この光景を知っている。
 白い羽を散らせる金の髪と青い瞳の存在。
 魂が刻んでいる光景、遠い昔の――キルケの記憶。
「ティファレト……」
 夕莉の唇が震える。魂に刻まれたその名前を囁いて、その手に滾る自分自
身の感情ではないものを噛み締める。
「ミカエル……!!」
 彼女はキルケを大魔導師ではなく大魔女と呼んだ。
 ティファと――否、大天使ミカエルと戦ったキルケは大魔女と呼ばれる存在
だったのであろう。それが何故、大魔導師に変わったのかは分からない。
 どの書物もそのことには一切触れておらず、それどころかキルケの死につ
いても深く言及している書物はないに等しいのだ。唯一、大賢者ネビロスの
手記に記された言葉だけがキルケの死と、その悲しみを綴ってあるという。
 この国の歴史を調べている際にそれを聞いていた夕莉は舞い散る白い羽
を乱暴に掴み、握り締める。
「……大天使ミカエルとの戦闘、双紅の大魔導師キルケ死す。
 魔族は神の打倒を誓い、最終決戦へと臨む……か」
 背中を何かが這うような感触が伝う。
 虫ではない、もっと太く、冷たいもの。もっと巨大な――
「……なんだ?」
 胸が痛い、息が苦しい。
 頭の奥で声がする。
 胸の奥で声がする。
 二つの声が重なって、混ざり合う。
「……煩い、黙れ」
 その言葉が何を意味するのかは知らない。
 知らない言語のようだけれど、とても懐かしい言語の気がする。
 夕莉はかぶりをふり、大鎌の柄を軽く叩いた。
「カロン、止まるのは早いだろ」
 大鎌が慌てて動き始める。生温い風が頬を撫ぜ、歌い狂う精霊たちを押し
退けて火の国の王スルトがいる船へと向かう――互いに最終決戦だと確信
しているのだろう。王自身が共に戦場に出ている。
 もっとも、ニヴルヘイムの王は深山結梨ではなく魔神王アスタロトが出陣し
ているが。
 しかし火の国の王スルトに彼の者が宿っているとするならば、話は別だろう。
古の大戦を再び行うだけのこと。
 あの時代に魔族が勝利したように、この時代でも魔族が勝利すればいい―
―それだけだ。
 胸に巣食う痛みを押し退けて、夕莉は血生臭い空を駆け抜けた。


――この闇はお前の心。喰らうのはおまえの存在――