天に響いた言葉は眠れる魂たちを呼び覚ます。
すべての精霊たちを骨抜きにし、その御身を捧げるに十分な魅力。
歌声が響いた。
それは、ニヴルヘイムに古くより伝わる歌。
魔族とて紡ぐことのできない想いの歌。
精霊の恋心を伝える唯一の方法。
受け取ってください、この気持ちを。
受け取ってください、この想いを。
受け取ってください――愛しい我らが王。
深き夜の闇よりも眩い光の王。魔を統べる高貴なる闇の方。
すべてを染め上げる王の中の王。
どうか我らの心を受け取ってください。
澄んだ歌声は幾重にも編まれた鎖のようにニヴルヘイムを覆っていく。
それはまるで、白いカーテンのように吹かない風に揺られ、歌声を反響さ
せてニヴルヘイム全土へと響き渡らせる。
美しい歌声が運ぶ音色は、魔神王アスタロトの言霊。
何人たりとも侵すことのできない絶対的な領域にあるもの。
すべての魔族を想い、この大陸を想う強い心。
一度は失われた強い心を求め、次々と精霊達が歌声を奏でていく。
長い時間を廻る恋心が風となり、水となり、炎となる。大地を穢す血潮を
浄化し、地に伏した魔族たちに安息のも無理を与えれば、その場所に再び
新しい命が芽吹くだろう。
命を失い、恐怖と憎悪から心を――魂を壊してしまった魔族たち。それら
を癒す白光は、傷付いた魂たちを引き寄せ、この大陸を、この国を守りた
いという想いを尊重する。
「あ――」
生き残っていた魔族の一般兵が声をあげる。
足元に積み重ねられた同胞の亡骸と、人間の亡骸。そこから浮かび上
がるのは数多もの魂。
天へと昇るのではなく、大陸に喰われるのではなく。
天を泳ぐ光カーテンに導かれるようにして一つに集まっていく。
「……アスタロト……さま?」
ぽつりと呟く一般兵が血反吐を吐く。
ガクリと力を失いながらも、まだ息のある人間の胸へと剣を突き立てる。
赤く染まった口元に浮かべられる微笑は、勝利を確信したもの。
「ニヴルヘイムに……とこしえなる、平穏を……」
重ねられる亡骸。
ふわりと舞うのは白い魂。
紡がれて、繋げられて、想いは一つになる。
幾千もの魂が集まる様子を眺めていた真が感心したように息を吐く。
「蘇った途端、精霊たちが動き始めましたね。
さすがですね……アスタロト様」
「当然だ。俺には何が起きているか見えてないがな」
胸を張っているアスタロトを横目で見遣った真は、メガネの奥の双眸を細
めた。それは呆れた笑みではない、遠い昔を思い出すかのような微笑であった。
特にずれているわけではないメガネを中指で押し上げ、彼は口を開く。
「四英雄が目覚めます。
子孫たちに自らの力を与えるべく、彼らは刹那の復活を遂げますよ」
「ほう。サルガナタスたちが起きるのか。それは楽しみなことだな――む?
俺は見えないから意味がないのか。そう考えると、俺は損だな。お前ばか
りずるい」
「私からすれば、あなたのような方のほうがずるいと思いますがね」
二人の視線がかち合う。
唇に薄笑みを浮かべ、
「それもそうだな。俺を敬えネビロス」
「はいはい」
まるで遠い時代にいるようだと思えてしまうような会話を交わす。あの頃も
――神と争っていたあの時代も、このようにして二人でくだらない雑談をした
ものだ。
三日月のように細められた真の双眸に四つの白い光が映る。忘れるはず
もない、誓いがなくてもきっと忘れられない存在たちの姿。
共にあの時代を生き抜いた英雄たちの姿。
「霧の大陸ニヴルヘイム。オレはこの国を守るため、我らが王へと忠誠を誓った」
燃えるような赤い髪。深い、紫色の瞳。
焔騎士と称され、天使との戦いでは常に前線にいた誉れ高き四英雄が一
人――サルガナタス。後に赤の一族としてニヴルヘイムの東を守護するよう
になった男の魂が降下する。
死に貧している子孫に命を紡がせるために。
続いてその形をあらわすのは、
「殿下は立派な王となられました。私は殿下の守ったこの国を守ると誓います」
空よりも青い髪を揺らし、双眸を硬く閉ざした女性の姿。氷燕魔女と称された
邪眼の始祖アガレスは、青の一族が当主を救うべくその体を大地へと向かわ
せる。
その姿が見えなくなる頃に、一際大きな光が弾ける。そこから姿を現したの
は小柄な少女。
「フラロウスのロウは正義ってわけじゃないけどね。ロウは陛下が気に入って
るの、だから血の誓いを交わすんだよ」
無邪気に笑い、白い髪を振り乱して舞う。真紅の双眸が笑みの形に歪んで、
その姿は自由に天を駆ける――まるで、鳥のように。白の一族を創り上げた
地獄天使フラロウスの姿がその場から掻き消える。
しばしの間を置いて姿を現したのは――
「……わたくしは……愛する方のために、誓います」
真が息を呑む。
胸の内に渦巻く感情は、憎悪以外の何物でもない。疾風聖女と呼ばれたニ
ヴルヘイムの中でも指折りの魔力を持つ少女――後のアスタロトの妻であり、
同時に黒の一族となったエリゴールによって、大魔導師キルケの死が早まっ
たようなものなのだから。
それを感じているのだろうか、エリゴールは目を合わせようとはせずに、そ
の姿を掻き消す。灰色の髪と、黒い双眸が脳裏をちらつく。
苛立っている真の肩をアスタロトが叩いた。
「なんだか俺の妻がいた気がしたぞ? いたのか?」
緊張感のない笑みを浮かべるアスタロト。そのような笑みを浮かべられて
は、憎悪をあらわにすることができないではないか。考えて行動しているの
か天賦の才か、それは長い時間をかけても理解できないことだと彼は知っ
ている。
無意識にすべてをよい方向へともっていくことができる男――そこに理由
も意味も一つとして必要ない。ただ事実がそこにあればいい。
魔神王アスタロトとは、そういう存在だった。
「……はぁ。あなたには負けますよ」
大きな溜め息。それは、ネビロスであった頃には吐くことのなかった生き
た生命らしさ。
「お前もちょっとは丸くなったみたいだな。
友として俺は嬉しいぞ」
白い歯を見せて笑う。
何を言い出すのかと言及したくなったが、真はメガネを押し上げるだけで
何も言わないことにした。ただ口元に笑みを浮かべ、この日が訪れるまで
に過ごしてきた日々を思い出す。
思い出に浸るには早すぎる気もしたが、思い出したくて仕方がないのだ。
「お?」
ふいにアスタロトが嬉しそうな声をあげた。
「見てみろネビロス。俺にそっくりな娘がいるぞ」
どこまで視力がいいのか、遠くの大地を指差したアスタロトが双眸を喜び
に輝かせている。
「……あぁ。アイリーンですね」
「アイリーン? ……なるほど、俺によく似たらっきーがーるだな」
「…………深山の影響を受けすぎです」
せっかく見直したというのに。
目の前にいる魔神王は相も変わらず緊張感というものが見当たらない、
否。当時よりも酷くなっている。深山結梨の能天気が伝染したのだろうか。
頭痛を感じる頭を抱え、ネビロスは双眸を閉じる。
聞こえてくるのは大地を駆けるアイリーンの声。
「前へ進みなさい! 魔神王の声を聞くのです!」
――黒の一族として生まれたメーア。王として生まれたメーアの兄、ホル
ス。そのどちらでもない半端な子供、それがアイリーンだった。容姿こそ魔
神王と瓜二つであったけれど、能力も性別も、全てが重要視されない子供
であったというのに。
「アイリーンは俺の声がよく聞こえてるみたいだな」
どの魔族よりもいち早く声に気付き、体勢を立て直して進軍している。
その様子を眺めているアスタロトの表情が何を意味しているかまでは分
からないが、アイリーンがそうしたように彼もまた、進軍するのだろう。
神に挑んだときのように。
「さて……行くとするか。ネビロス」
低く抑えられた声。
繰り返す――遠い、あの時代。
真は深々と頭をたれた。
「はい……アスタロト様」
魂は古の戦士たちを呼び覚ます。
力を子孫に。
命を子孫に。
共に戦おう。
美しいこの大地を、愛しいこの国を守るために。
最後の最期まで――共に駆けよう。
この大地で戦う限り、我らは決して独りではない。
この歌声を心に響かせるもの全てが仲間。
魔神王が声を聞くもの全てがかけがえなき同胞。
走れ。
この国に住む誰かのために。
戦え。
愛しくも儚い同胞よ。
歌声が響く。
魔族を祝福する歌。
魔神王を愛するものたちの歌。
ニヴルヘイムを愛するものの歌。
この戦いを勝利へと導く歌。
なぜだろう――歌が響かない。
全てが静寂に包まれているようだ。この手は、何をしているのだろう。
なぜ――あの手を振り払ってしまったのだろう。
心が導き出した答えは、間違ってなどいないはずなのに。
「……だめだよ……ヒューゲル……だめだって……」
血の海に横たわる体。
耳障りな呼吸を繰り返すヒューゲルの姿。
胸に開いた大穴は、彼ほどの強い魔族の命をも蝕む深い闇。心臓を喰ら
い、魂までもを食い荒らす――二度と、蘇ることのできないように。
転生も叶わない。
呆然とした表情を浮かべている夕莉はうわ言のように同じ言葉を繰り返す。
「死なないで。お願いだから……わたしは、まだ話したいことがある……だ
から。死なないで。死なないで、死んだらイヤだ。おいてかないで」
胸に巣食う闇を取り除こうにも、手が動かない。
殺したくないのに。
手は、ヒューゲルを殺そうと動いてしまう。
「ねえ……お願いだから。わたしは、お前のことが……」
「ユーリ」
体温の殆どを失っている冷たい、大きな手が唇を塞ぐ。
土気色をした顔には、いつもと同じ意地の悪そうな笑みを浮かべて、
「勘違いで、自分の心を決め付けるな。お前は、オレを殺すことを選んだん
だぜ」
掠れた声で告げるのだ。
告げられた言葉に夕莉は必死で首を左右に振った。違うのだと否定をし
たくとも、大きな手で塞がれた唇は言葉を紡ごうとしても、ただの唸り声の
ようなものにしかならない。
言いたいことはたくさんあるというのに。
胸を蝕む闇が成長して、命を喰らって、魂を破壊していく。
もう、痛みも感じなくなってしまったのだろうか。ヒューゲルは息も絶え絶
えに夕莉を見上げ、笑みを浮かべたまま告げていく。
「それに……オレじゃあ、無理だ。お前、オレの前だと泣けないだろ?
お前は、お前自身が信頼できて、泣ける相手がいるはず……だから。オ
レのことは忘れろよ。お前を殺そうとした嫌なやつなんて、忘れちまえよ」
告げられる言葉の全てが胸に突き刺さる。
憎悪からの行為ではない。
夕莉に課せられた運命を憐れんでの行為――せっかく生まれ、紡いだ命
をキルケに渡すくらいならば、人間へと引き込めないのならば、絶望的な死
を知る前に眠りを与えようと。
そのためだけにすべてを捨てた魔族。
一族も、権力も、すべてを投げ打ってまで決意していた。
そして――今度は命までも。
「ユーリ……」
優しい、青の瞳。
胸が苦しい、頭が痛い。
この感情はどうすればいいのだろう。
ただ――ただ。
「……幸せに……なれ……な?」
無音の空間に突き落とされたような心はどうすればいい。
唇を覆っていた手から力が抜けて、ヒザの上へと落ちて。
完全に動かなくなる体。命を喰らい終えた闇が夕莉の内へと還る。
耳に聞こえる精霊の歌。けれど感じるのは無限の闇。
空虚な心は求める。二度と覚めることのない眠りへと堕ちた者のぬくもりを。
「……ヒュー…………ゲル……?」
心臓が、握り潰されそうだった。
「…………ヒューゲル……」
涙は出ない。
悲しみは感じる。けれど、涙が出ない。
ただ渇いた心が軋んで痛みを訴える。
吐き気がした。
何度繰り返し、その名を呼ぼうとも。
彼は二度と起き上がらないというのに――
「わたしは……きっと、ヒューゲルのことを……」
届かない言葉は泡沫に消え行く。
精霊の歌声に包まれた大陸。
歌声の届かない場所を作り上げる二人の姿。
光と闇の存在。
「懐かしい歌声……私も……生きたい。自由に……あの方と」
光は束縛された命を嘆き、
「忘れないよ……お前のこと、忘れさせないで……」
闇は失った命の重さに嘆く。