血が踊る魔の大地。
 眠れる骸を踏み締める足は絶望に力尽きて。
 天に願いを請うならば――
 生きとし生けるすべての魔族は告げるだろう。
 ――魔神王の再臨を。


 魂喰らいの大陸ニヴルヘイムに絶望が満ちる。
 それは、かつての神との戦のように。


 血染めの大地に大剣が落ちる。それを握っていた手首から先を拾い
上げて夕莉は笑う。漆黒の双眸を細め、凝固した血液と泥が付着する
唇を歪めた微笑は、すでに彼女が人間を辞めているのではないかと思
うほどに禍々しいものであった。
 それを仰いだヒューゲルが息を吐く。
 アゴの輪郭を血がなぞる。ぽたりと落ちれば、その血の雫は大地へと
飲まれて消えていく。
「強くなったじゃねえか」
 掠れた声で呟けば、大鎌を振り上げたままの夕莉の笑みがより深いも
のへと変わるのが見えた。僅かな表情の変化を眺めていると、彼女が最
初に出会ったときよりもずっと人間らしく――否、感情の表現に人間も魔
族も関係ない。
 七瀬夕莉の顔に浮かぶいくつかの感情は、出会ったときのような凍てつ
いたものではない。
 様々な感情に触れ、また自らそれを表現する術を得た幼い子供のよう
なもの。僅かながらに成長している証だった。
 それに気がついたヒューゲルは、どこか安堵を帯びた言葉を漏らした。
「……ほんとに……強く、なってくれるぜ」
「当たり前だろ。僕はニヴルヘイムを守んだよ、テメェら人間に荒らさせた
りしねぇ」
 夕莉のブーツが大地を踏み締める。
 大鎌の刃先をヒューゲルへとあてがうと、その表情が僅かな動きを見せ
た。漆黒の双眸はどこを見ているのかせわしくなく動き、唇はきつく結ばれ
たかと思えば、息苦しそうに開かれる。
 首筋へとあてがわれている大鎌にもそれは伝わっているのか、落ち着か
なさそうな様子で夕莉を伺っていた。
「殺さねえのか? 今だったらさっさと殺せるぜ」
「……あぁ、そうだよな。さっさとテメェを殺して、他のヤツら助けねぇとな」
 吐き出す言葉が揺れる。
 つい先ほどまでとは違う何かが彼女を揺さぶっているのだろう。自覚して
いないわけではない感情と、それを認めようとしない心が。
 小刻みに震える夕莉の手を見遣ったヒューゲルの唇が笑みの形に歪め
られる。
「殺せねえんだろ?」
「殺せる……!」
 歯を食い縛り、瞠目する。
 しかし彼女の手はヒューゲルの首を落とすどころか、その薄皮一枚を傷
つけることすら叶わずに震えたまま動かずにいた。
「動け……動け! なんで動かないんだよ! 僕の腕だろ、僕の思ったよ
うに動け!」
「コイツに命じりゃいいだろ?」
 ヒューゲルの手が大鎌の刃に触れる。突然触れられたことに大鎌は嫌
そうに身をよじるが、大きな手に刃をつかまれてしまい、それ以上動けな
いらしく困ったように刃先をたれさせていた。
 そんな状態になっている大鎌が目に入らないのか、夕莉は今にも泣き
出しそうな顔でヒューゲルを見つめる。
 瞠目したままの瞳が濡れて、揺れる。
「カロンに……? あ、あぁ。そうか。おい、カロン、こいつを……ヒューゲ
ル、を……」
 言葉に詰まる。
 何を言えばいいか理解しているはずだというのに。
 息を呑み、言葉を吐き出そうと息を吐く。しかし漏れ出すのは音もない吐
息だけ。
「どうした?」
「……う……」
 青い瞳が夕莉を仰ぐ。深い、深い色をした青は、ニヴルヘイムの海とよく
似ている。全ての命を飲み込むと同時に、様々な命を抱き、繋ぐ母なる水
――目の前にいる、この男は決して抱き締めてなどくれないだろうけれど。
 大きな手でこの首を絞める事はあれども、決して頭を撫でてくれたりはし
ないだろうけれど。
 低くて耳に心地良い声で殺意を囁いてくれようとも、心が震えるような愛を
囁いてはくれないだろうけれど。
 震える手から力が抜ける。
 解放された大鎌が困ったように夕莉を振り返り、指示を仰いでいる。頭の
中を命令が過ぎった。
――裏切者、ヒューゲルを抹殺しろ――
 口に出せば一瞬で終わる。
 まばたきをして、次に目を開けた時にはヒューゲルは物言わぬ骸。血を流
し、息をしない、冷たい肉の塊になる。
 そうなればこの国のためになる。この男を始末して、味方を援護して、この
戦いに勝利をもたらす。それが役目――
「……お前が動かねえなら、オレが動くぜ」
「――う、ぐっ……うぅ」
 先ほどまで大鎌を掴んでいた大きな手が首へと伸ばされる。地面へと引き
倒され、指の一本一本が気管を圧迫しているのが分かる。
 息苦しさに顔を顰め、真正面にあるヒューゲルの顔をまっすぐに見つめる。
 胸が痛みを訴える。
 何度もこの男に殺された。
 時には刺され、時には斬られ、時には折られ。
 けれど、その時に感じた痛みよりもずっと痛い――胸が、痛い。
 名を知らない感情が湧き上がるを感じた。どうしようもないほどに狂おしいこ
の感情、どうすればいいのかも分からないというのに暴れまわる。
 胸を裂いて取り出してしまえばいいのか。
 それとも、頭蓋を砕いてしまえばいいのか。
 分からないことばかりが廻る。その間にも、ヒューゲルの手は夕莉を殺そう
としているというのに。
「残念な話だな。お前が人間側に来れば、オレと一緒に魔族討伐ができたのによ」
「お前と……一緒……?」
 二年前に人間を選んでいれば、ヒューゲルと二人でいられた?
 ありえるはずもない未来を告げられ、夕莉の胸が激しく痛む。もしもあのと
きの選択が今と違えば、あの手を取っていれば、ここでヒューゲルと争うこと
なく、殺しあうこともなく二人でいられた――そう考えると、激しい胸の痛みが
よりいっそう激しいものへと変わった。
「そうだ。オレと、お前の二人で魔族を滅ぼす。素晴らしい話じゃねえか! い
いコンビになれたと思うぜ? オレとお前ならな」
 どこまで本気だか分からない言葉。
 この言葉に呑まれてしまっても良い――そう考えたこともあった。けれど、魔
族側に残ることを選択した。友のために、大切にしてくれた魔族のために。こ
の国を守ると自らの意思で決めて選択した答え。未来がこのような痛みをも
たらしたとして、後悔するべきではない。
 頭では理解できた。
 深山結梨はもちろんのこと、アシュレイド、グレイ、メーア、ゾンネ、ヒンメル、
シュテルン、グレイにクラリスたち。守るべき存在がいるからこそ、ニヴルヘイ
ムを選んだのだから。そして、一度も後悔などしていないのだから。
 例え、大魔導師キルケを転生させるための道具だったとしても。
 この国を守れれば、それで――――
「今からでも遅くねえ。オレと来いよ、ユーリ」
 欲しい声が名を囁く。
 胸が痛い、震えるのは胸のもっと奥。
 目頭が熱くなるのは気のせいではない。全身が熱を帯びるのも、声が出ない
のも。
 きっと、この感情の仕業。
「ヒューゲル……わたしは……」


 本当はずっと前から知ってた。
 認められなかっただけ。
 この感情を、この想いを。




「駿河……」
「どうしたんだい、深山」
 イスに腰掛けていた結梨が立ち上がる。
 その双眸に宿る色に気がついた真は、怪訝な表情を浮かべて傍へと寄った。
「オレ、無力かもしれないけど……やっぱりここで黙ってらんねーよ!
 みんなが苦しんでんのに! 七瀬だって戦ってるのに!!」
 全ての命の源、すべての母、ニヴルヘイムにおける海は人間のいう大地の神
のようもの。海のように深い青は敬われる――それは、魔族が黒を崇めるのと
同じ理由で。
 その青を瞳に宿している結梨は、自らの頭を乱暴に掻いて叫ぶ。
「守られてばっかいれるかよ! オレは魔王なんだ! オレだってみんなを守りた
いんだ!」
「お前にできるわけないだろ? お前は魔神王の魂を補完しておく器でしかない、
言ったはずだよ、ボクたちが守るのはお前じゃなくて魔神王の魂だって」
「だからって――」
 結梨の双眸に涙が浮かぶ。
 ほんの一瞬、真でなければ見逃していたほどの刹那に浮かび上がるのは、懐か
しい姿。金色の髪と青の双眸をもった美しい魔王の姿。
 完全な形で行われた転生を壊すつもりかと顔を顰めたが、すぐにそれは勘違
いだと気付く。
「……それが、お前の望み?」
 小さく問う。
 その言葉に結梨は深く頷いて、金色へと染まっていく髪へと手を持っていった。
「七瀬が苦しんでるんだよ……オレ、地球でも七瀬を助けられなかった。
 今度こそ、助けたいんだよ……七瀬がオレを守ってくれたみたいに、オレも七
瀬を守りたいんだ」
 声が重なる。
 魔神王アスタロトの声。
 魂の内に蓄積された記憶に押し潰されることも、淘汰されることもなく残り続け
ていた最初の記憶。長い時を眠って過ごしていた原初の記憶は、現在の姿が望
む言葉に応えるように目を覚ました。
 守りたいのは、かつての己と同じもの。
 結梨の顔つきがアスタロトと似たものへと変わる。その姿を見ていた真は大きく
息を吐き、
「本当に……あなたには驚かされてばかりですよ。
 ――アスタロト様……」
 空気が震える。
 精霊たちの歓声が法術の網を千切り、侵食していく。もう数分もすれば法術によっ
て弱っている魔族たちが活気を取り戻すことだろう。
 魔力をもたない王、精霊を骨抜きにさせ忠誠を誓わせる。
 すべては無意識でのこと。
 金の髪をもつ魔神王が窓を開け放つ。
「行くぞ、ネビロス。俺の大切なニヴルヘイムを汚す不届き物を成敗だ」
「深山の影響を受けすぎですよ、アスタロト様」
 真の言葉に結梨――否、魔神王アスタロトが笑い声を上げる。緊張感のない姿
を見せているにもかかわらず精霊たちは歓声をあげて法術を打ち消していく。
 今ごろ法術士たちは驚愕のあまり、腰を抜かしているに違いない。
「ニヴルヘイムに住まう同胞たち!
 俺と共に行くぞ、この大陸と国を守るのは俺たちだ!」
 その言葉は、ただの言葉。
 その声は、ただの声。
 しかし心酔した精霊たちによって、その言葉と声は力あるものへと変容していく。
それは、死した魔族をもこの世界へと蘇らせる力。
 刹那の命をもって国を守ろうとする意思を蘇らせる。
 真は身震いした。久しぶりに感じたこの力、彼が唯一頭を下げる相手。
 魔神王――アスタロト。
 まるで遠い昔のように。二人の姿が戦場へと舞い降りた。