気候が穏やかなのが自慢のニヴルヘイム。
 気候が穏やかで、過ごしやすいのが自慢のニヴルヘイム。

 気候が穏やかなのが自慢の美しい大陸ニヴルヘイム。


「なんだこの雨は!!!」


 夕莉の怒声が城内に響き渡る。
 その場に居合わせたメイドも、アシュレイドも困ったように笑うだけで何も
言おうとはしない――否、言えるほど手があいていないのだ。
 ここしばらく降り続けている記録的な豪雨のために、城に住んでいる人間
の洗濯物は乾かず、雨に弱い鳥たちが城内へと逃げ込み、城下町でも洗
濯物が乾かなくて困ってるのよ。
 うちではチーズにカビが生えたわ。
 なんてやり取りが横行している。谷間に住んでいる一部の種族に至って
は、民族大移動として城の一廓に住まいを構えてしまったりなんかしてお
り、魔王ホルスも困り果てている状態なのだ。
「あーくそ! 実はどっかの呪術師の仕業だったりしねぇか!?
 そもそも去年はこんなに降ってなかっただろ!」
 生乾きの洗濯物を炎の魔術で乾かしながら叫んでいる夕莉に、モップを
持って大忙しなアシュレイドが駆け寄る。今にも足を滑らせそうにも見える
のは気のせいではないだろう。
「天候を自由に操れるほどの術はナナセ様くらいの魔力がないと無理です
よ」
「くそー! 運動会が雨で潰れるのも、遠足が潰れるのもどうでもいいこと
だけどよ。
 ここまでザーザー降るなら前もって連絡しやがれバカヤロウ!!」
 一際大きく炎が燃え上がり、集まってきていたメイドたちの両腕に抱えら
れた洗濯物が一瞬で乾く。大喜びしたメイドたちは、次の洗濯物を取りに
駆けていってしまった。
 広い広い城の中を必死で駆け巡るメイドと、城に住む魔術士たち。
 時折り飛んでいるのは吸血コウモリだろう。きっと昼食をとりにきたに違
いない。
 血を吸われた魔族たちが驚いて悲鳴をあげる。被害がそこまでならば
笑い話だが、手にした資料の全てを濡れた床にぶちまけているため、研
究者も魔術士も絶叫を上げて資料を拾い上げている。
 資料の救出に失敗した魔族が泣き叫ぶ声が響き渡っている。
「つかよ。こんな時に限って、メーアたちは何してんだよ」
 持ち込まれた洗濯物を一気に乾かしながらボヤく。彼女たち四人がいれ
ば、この仕事も楽に終わる違いないというのに。ここ一週間ほどその姿を
まったく見ていない。
 普段ならば、用もないのに入り浸っているというのに。
「それなら――ゾンネは自邸の修繕に帰郷しました。雨漏りが酷いらしい
ですね」
「……仮にも東の守護者の邸宅が雨漏り……?」
「古い邸宅ですからね。それと、メーアは地下倉庫に浸水しないように結
界を張りに帰郷しました。あちらの倉庫には文化財がたくさん納められて
いますからね。壊しでもしたら大変ですし」
「そりゃ大変だな……」
 山盛りになる洗濯物。
 それを乾かすと、メイドたちが一気に運び出して行く。
 こんなに洗濯物があるのかと首を傾げたくなったが、普段は自分が立ち
入らない場所なのだから自分が知らないだけで本当は、日々これだけの
量の洗濯物が出ていたのかもしれない。
 それを楽しそうに洗濯するメイドたちは素晴らしい――
 そんなことを考えている間にアシュレイドは、夕莉の立っているところとド
アのところを往復して、帰郷理由を口にしていく。
「シュテルンは、自邸の一階が水に呑まれたのでその始末をしに……」
「おいおい……」
 確かに魔術を遣えば、水の浸入なんていくらでも防げるが――一階が水
に沈むまで放置していたシュテルンの迂闊加減に夕莉は思わず溜め息を
ついた。
「……ところで」
 もう、何度同じ動作を繰り返したことか。
 いいかげん気になりだした夕莉は、目の前にいたメイドへと声をかけた。
「あとどんくらいあんだよ……洗濯物」
 夕莉の言葉にメイドはとても嬉しそうな笑みを浮かべた。
「せっかくナナセ様の魔力で乾かしていただけるのですから!
 しまってあった衣服も、城下町の方々の衣服も全て持ち運びましたので、
明日の午後には本日分が終わると思います」
「ちょ……おい、色々と待て。なんだそれ!」
 城下町に住んでる魔族たちの分はいいとしよう。
 できるやつがやらないと、裸族が満ち溢れてしまう。
 しかし、しかしだ。
「なんでしまってあるモンまで出してんだよ!!」
「ですから〜。せっかくナナセ様に乾かしていただけるのですから」

――記念に――

 語尾にハートマークがつきそうな勢いで告げられ、夕莉は思わず言葉を失った。
 何の記念だ。
「ナナセさまぁー!!」
「グレイ! ちゃんと頭を拭いてからにしなさ……あわわわっ!?」
 びしょ濡れのグレイが走り回ったことによってできた水溜り。それに滑って
転んだアシュレイド。投げ出されたモップにぶつかって転んだメイドの腕から
大量の洗濯物が落ちる。
 水が良く染み込むことで。
「……おぉぉぉぉ……」
 思わず頭を抱えたくなる。
 そんな中でグレイはニコニコと満面の笑みを浮かべて、手紙を差し出した。
「はいっ。ヒンメルさまからの伝言だよぉ」
「へぇへぇ……」

 ――豪雨のため自邸のプールが溢れましたので帰郷します――


 思わず夕莉は黙り込んだ。
 プールが溢れましたので。
 プールが?
 溢れて?
 帰郷?


「ゴアァァァ!!!! い・や・が・ら・せ・かぁぁぁぁ!!!」


「ナナセさま! ボクちゃんと伝言したよっ、褒めてくれる?」
 とても嬉しそうな顔をしているグレイ。
 顔だけならば世界一の美青年の頭をグリグリと撫でて、夕莉は薄暗い空を
睨みつけた。


「とっとと止まねーと消滅させんぞコラァァア!!!」



 この後もニヴルヘイムは集中的な豪雨に見舞われ、夕莉の気苦労は耐え
ることが
なかったという。
 後にこの騒動は「ニヴルヘイム梅雨入り事件」として語り継がれることに…
…なるはずがない。