七瀬夕莉はこう語る。
 きっとあれは、新手の呪術であり儀式である。あの竹に似たよく分からない
食虫植物に幾万の虫を投げ入れて、その魂をもって術を完成させるという。
太くて粘着性のある液体を垂れ流している茎に貼り付けられているのは、きっ
とそのための言葉を書き記したものに違いない。
 アレがあることによって術の強さが変わるに違いない。
 だから決して「家内安全」だとか「魔族万歳」だとか「自給アップ」なんて書いて
あるわけではないのだ。準備係のクラリスがどこかで見たことあるような衣装を
持ち歩いているはずもないのだ。
 織姫とか彦星とか聞こえないこともないけれど、これはきっと地球の風物詩を
懐かしく感じる自分の心が生み出した幻聴で、実際に彼女らが口に出している
わけではないのだ。
 そのはずなのだ。
 だってここは――――

 魂喰らいの大陸ニヴルヘイム。
 魔族の住まう土地。人々はこの大陸のことを呪われた大陸とも呼ぶ。
 そしてそこに住まう魔族を忌み嫌い、常に滅ぼそうとしてきた。
 それに応戦している魔族たちは疲弊しているものの、行事には全力で取り組む
らしく地球の暦でいう五月には魔族の子供たちの誕生を盛大に祝った。
 明らかに呪われていそうな武具を身に付けさせ、近場で掴まえてきた手軽な獲物
を子供たちに仕留めさせる。
 血生臭い催し物と、まるで手の平のような形をした葉に包まれた、人間の頭くらい
の大きさをした餅の姿を覚えている。二つほど入れられた巨大な豆は、まるで眼球
のようで齧った瞬間に血の気が引いたのはとても悪い思い出だ。
 つまり――つまりだ。
 地球の暦でいえば今は七月。
 気候の安定しているニヴルヘイムでは、極端に暑くなったり寒くなったりはないもの
の、季節の移り変わりと称して森に生息する木々がガラリと姿を変える。
 もっとも、北や南の末端まで行けば極端に暑い地方と極端に寒い地方があるらしい
が――中央は常に過ごしやすい気温と湿度を保っている。
 そんな住みやすい地方に建設された魔王城。どこか禍々しい雰囲気を漂わせつつ
も住民魔族からは親しまれており、時折り夕飯の作りすぎたカレーを持ってきてくれる
魔族一家がいるくらいだ。
 それにしても昨晩のカレーは実に美味かった。きっと三日間は煮込んだのであろう
――カレーの味を思い出して舌鼓を打っていた夕莉は、自分が現実逃避をしている
という事実に気がついて、慌てて視界を天井から垂れ下がる謎の食虫植物へと向けた。
 忙しそうに走り回るメイドたちは、皆が皆どこかで見たことあるような服装をしている。
 だから。
 織姫とか彦星とか牽牛とかは聞こえてません。
 きっと幻聴です。
 頭を抱えたくなった夕莉の耳元で、常人ならば腰が砕けて三日は立てなくなりそう
なほどの甘い美声がささやく。
「ナナセさまぁ。ナナセさまはお着替えしないの?」
「うおっと!」
 耳元にかかる吐息に驚いた夕莉は慌てて飛び退くも、すぐに体勢を立て直して着
替えを済ませた青年を見上げる。非の打ち所のない完璧な美青年は、さらに完璧
すぎる美声を持ちながらも、甘えた喋りのせいですべてが台無しになっている。
 そのことを知ってか知らずか、気にする素振りも見せずに無邪気に微笑むと、彼
――数多くの生物が生息するニヴルヘイムにも一人しか存在しない吸血コウモリを
治めるという立場にあるヴァンパイアことグレイ――は、しなやかな腕で夕莉を抱き
締めた。
「ボク、ナナセさまのドレス姿みたいな! きっとすごくキレイなんだろうね!」
 こんなセリフを許されるのは、きっと彼ほどの美貌をもった者のみなのだろう。腕力
では到底勝てないことを知っている夕莉は、呆れたような顔のままグレイの背中を二
回ほど叩いた。
「なあに?」
「とりあえずグレイ。この状況を説明できるヤツを連れてきてくれないか? なるべく早く」
「うん! ナナセさま。ボクに任せてねっ」
 整いすぎて直視しているのが辛いほどの美しい顔に満面の笑みが浮かべられる。
きっと、この笑顔だけで魔族の大半の女性が落ちるのだろう。
 もしかすると人間にも通用するかもしれない。
 そんなことを考えていた夕莉は、背後から近づいてくる存在を回避しようと大きく右
方向へと跳んだ。
 刹那、つい数秒前まで夕莉がいた場所にボタリと巨大な何かが落下した。
「……いやいや。色々待てよ」
 天井を仰げば、大きな口をポカーンと開けたまま頭をキョロキョロさせている食虫植
物。どうやら口の中で味わっていた虫を落としてしまったらしい。なんてうっかりな食虫
植物だろう。
 とてもほほえま――
「微笑ましいわけねーだろ!!」
 メイドたちが忙しそうにしていなければ、ここにいる食虫植物すべてを焼き払ってしま
いたいほどだ。そもそもどこから調達してきたのだろう。
 ニヴルヘイムに住んで一年。様々な場所を訪れたが、そのどこにもこんな生物はい
なかった。ここまで怪しい奴らを見たことはない。
 思わず頭を抱えたくなる夕莉の耳に、特徴的な羽音と足音が聞こえた。
「ナナセさまぁー!」
「ぐ、グレイ様? いったいなんなんですかー?」
「グレイ、だれを……誰だーっ!!」
 背中に食虫植物を背負った女性の登場に、夕莉は反射的に声を荒げてしまった。そ
の声に何事かと集まったメイドたち。ザワザワとした話し声の中に聞き覚えのある声が
混ざっていた。
「エアリス! もう、探したのよ。
 頼んでいた笹は持ってきてくれた?」
 聞き覚えのある声――ニヴルヘイムに来てから身の回りの世話をしてくれるメイド、ク
ラリスの声。ある意味とても安心する声ではあったが、同時にとてつもない不安が胸を満
たした。
「お、おい……クラリス。今……」
 地球でも何度もその名を聞いたことがある。
 しかし、ここにそんな植物が生息しているはずもなく、それ以前に持って来たかを問うた
ということは、持ってきている――その、背中に背負った食虫植物が?
「えぇ。もちろん! 見て、今年の笹はこんなに立派なのよ」
 じゅるり。
 びちゃ、べちゃ。
 くちゃ。
 嫌な音が耳に響く。
 大きな口を開けて粘液を垂れ流しにしている食虫植物。エアリスと呼ばれた女性の足
元には巨大な穴が――否、穴なんてかわいらしいものではい。これはクレーターと呼ぶ
べきなのだろう。
 人一人は完璧に埋まってしまえそうな大穴を前にして、メイドたちは大喜びで手を叩い
ていた。
「すごいわエアリス! 農家の娘としてこれほどの誉れはないじゃない!」
 中でも一番興奮しているのはクラリス。
「……クラリス?」
 身近に感じていたはずのメイドが、なぜだかとても遠くに感じられた。
 理解できない疎外感に思わず鼻を啜りたくなる夕莉。けれども、その視線は片時も食
虫植物から離されることはなかった。
 突然暴走したらどうしよう。
「そうだわ! ナナセ様! 見てください。この子は、農家を営んでいるエアリス=ゲルヒ
ルデといいます。今年は大魔女様がいらっしゃるので立派な七夕をしようと、懸命に笹を
育ててくれました!」
「お会いしとうございました大魔女様!」
 両腕を広げて今まさに抱きつかん! といったエアリスから距離をあけると夕莉は、先
ほどまで浮かべていた困り果てた顔ではなく、いつもと同じ不機嫌そうな表情を浮かべ、
「本当にそれは笹か? 僕の知ってる笹とは大違いに見えっけど」
「まぁ! エアリスの育てる笹はニヴルヘイム一ですよ、ナナセ様!」
「はい! 恐れ多いことですが、私は自らの笹養成技術はニヴルヘイム随一と自負して
います!」
「なんだよ笹養成技術って!」
 夕莉の発言とほぼ同時だった。
 エアリスと呼ばれた女性が悲しそうに俯いたのは。
「クラリス……」
「大丈夫よエアリス。ナナセ様はニヴルヘイムの文化に驚いているだけ。すぐに理解して
くれるわ。今までだってそうだったもの」
 クラリスの言葉に夕莉は、この一年で体験した行事の数々を脳裏に巡らせた。地球で
行っていたのと同じ名前でありながら、まったく違うことをする。似ているといえば似てい
るが、まったく別物にしか思えない。
 雛壇と思われる場所に集められたニヴルヘイムの女たち。その女たちへ次々と貢物
を渡すひな祭り。毒入りのチョコレートを渡し、解毒薬を争い男女で戦うバレンタインデー。
そのお返しをするべく、一粒食べれば瞬く間に寄生虫に臓物を食い荒らされるというキャ
ンディーをいかに食べないように避けるかを競うホワイトデー。鉈を持ち、返り血に塗れ
た真っ赤なヒゲの男を探し出して荷物を強奪するクリスマス。日の出と同時に互いの家
へと押し入り、お年玉という高価な宝玉を奪い合う正月。
 その基準でいけば、この行事は七夕なのかもしれない。
 どこからどう見ても呪いの儀式にしか見えないが。ぼたりと巨大なセミのような虫が落
ちて、真っ赤な絨毯が嫌な臭いを発しながら溶けていく。
 その中で走り回るメイドたち。
 足を止めているのは、クラリスとその友人と思われるエアリス。そして呆然と佇む夕莉
だけだった。
「分かったわ! 私、説明する!!」
「その意気よエアリス!!」
「ナナセ様!!」
「な、なんだっ!!」
「見てください。この――」
 ぷちん、ぷちんと音を立ててエアリスが身に纏っていた衣の止め具を外していく。何を
見せたいのかは分からないが、右の頬に大きく残る傷跡と、短く切られた茶色い髪を見
ると、余裕のある衣服の下には引き締まった肉体が隠れている気がしてならない。
 もちろん、農家というよりも傭兵といった感じの――
「笹養成専用特別ギプスを!!」
「何の意味があるのか三十秒で答えてみろぉぉおおお!!!!」
「笹を養成するためです!!!」
 コンマ単位で答えられ、夕莉は思わず言葉を失う。
 数ヶ月前に農家へ訪問したこともあるが、その農家ではそんな禍々しいものを付けて
はいなかった。全身をバネで覆い、関節の一つを動かそうものなら即座に骨が砕かれ
そうにも思えるほどの強度。
 そして所々赤黒く染まっているのはエアリス自身の血液であろう。
 何がしたいのか分からない。
 笹を育てるために自らを拘束する理由が分からない。
 そんな夕莉の脳内を読んだかのようにエアリスは深刻な表情で語り始めた。
「そう……私の家は笹農家でした。日々を笹と共に生き、そして笹と戦う毎日。彼らは
私たちの家族であり、同時に商売道具でした。
 来る日も来る日も笹と戦い、ある日父はその傷が元で笹農家を続けられぬ体に。母
はペットのゴッキー十世を食べられたショックで寝込みました。
 我が家で笹農家を続けることができるのは私だけ。
 だからこそ私は、祖父が封印したこの笹養成専用特別ギプススペシャルを手にして
立ち上がったのです」
「今、名前……」
 夕莉の言葉を聞かずにエアリスはさらに言葉を続ける。今にも天井から紙ふぶきが
舞い降りてきそうな雰囲気は、とてもニヴルヘイムとは思えないものを感じた。
「そうして始めた特訓の日々。笹の攻撃を避け、笹の血流をよくするツボを突き、そし
てこの笹養成専用特別ギプススペシャルコンプリートを纏うことによって身に付けた新
たな力……」
 エアリスの青い双眸が思い切り見開かれる。
 その言葉にできないような迫力に夕莉はありえないことを考えてしまった。この目か
らはビームが出る! しかし現実にそんなことがありえるはずもなく、大きく見開かれ
たエアリスの双眸はまっすぐに夕莉を見つめているだけであった。
「秘儀・大地を廻る命の抱擁によって素晴らしい笹を育てられるまでになったのです
……ちなみにこれが秘儀です」
 背負っていた籠から一つまみの土を取り出す。
 地球では見る機会は少なかった。けれどもニヴルヘイムに来てから農家を訪れる
ことの少なくない環境に住んでいる夕莉は、その名を知っている。
「……それ。肥料だろ?」
 作物を育てる際に土に混ぜてやる肥料。主成分はよく知らないものの、以前訪問
した農家でも同じものを使っていた。独特な悪臭が強ければ強いほど素晴らしい肥
料ということなので、この肥料は一般的な肥料であろう。
 それを指摘されたエアリスは、この世の終わりといった表情を浮かべ、
「クラリス……私たちの考えた七夕漫才は失敗に終わりそう……!」
「落ち込まないでエアリス。きっとグレイ様は大喜びよ」
「そうよね、クラリス!」
「えぇ。エアリス!」
 二人で手を取り合って見つめ合う。
 もう何がなんだか分からない。そもそも今までの流れは漫才だったというのか。な
らばどこからどこまでが漫才だったのだろう。願わくば、この笹と呼ばれる巨大な食
虫植物も漫才の小ネタであってくれるととても助かる。何が助かるかと聞かれれば、
率直に自分の心と答えられるくらいに助かる。
 夕莉はズキズキと痛み出した頭を両手で抱えてしゃがみ込みたい気分に陥った。
クラリスとエアリスは、二人で手を取り合ったままどこか遠い場所を眺めているし、顔
見知りの魔族たちは着替えるために自室に戻ってしまったし。
 敵地で孤立してしまったときのような気分だった――敵地で孤立して窮地に追い
やられたことなどないが。
「あぁ、なんか頭いてーから帰るよ。今日は部屋でのんびりするから。
 じゃー……」
 二本の腕。
 ガシッという効果音が良く似合うほどに力強く、夕莉の腕を掴んでいる。もちろん、
掴んでいるのはクラリスとエアリスの手。
 二人は今までに見たことがないほど真剣な眼差しで夕莉を見遣った。
「ナナセ様」
 優しいクラリスの声音が酷く冷たい。
「七夕には主役が必要でありまする」
 笑顔のエアリスだけれど、その双眸はまったく笑ってない。
 夕莉は顔の筋肉が引き攣るのを感じた。
 これは――
 そう。
 これはきっと、恐怖なのだろう。


「い、い、いぎゃあああああああああっ!!!!!」




 花火という名のついた大輪の花が夜空に咲く。打ち上げ方は、大勢の魔術士たち
が一気に炎の魔術を空で展開し、そこへ火薬鳥という火気厳禁な鳥が飛び込むこと
で完成するらしい。
 それゆえに花火が行われた翌日は、火薬鳥の破片が周囲に散らばり、酷いときは
腐臭まで漂うという。焼き鳥なんて次元ではない。
 夕莉は頭の上に降って来た火薬鳥のくちばしを手で払い落とした。
「なんで僕が……」
 ブツブツと文句を言っていると、その頬に冷たい飲み物が押し当てられる。誰の悪
戯かと目を剥いたが、そこにいる物凄いレベルの美女に圧倒され、吐き出そうとして
いた言葉を呑み込んでしまった。
「ど、どちらさま……」
 物凄いレベルというからには物凄いレベルである。
 交流の深いメーアもかなりの美人ではあるが、それを軽く凌駕する美しさ。一度見
れば忘れないとはこういうことなのだろう。
 衝撃でいうならば、初めてグレイの顔を見たときとよく似ている。
 こんなに整い過ぎた人間――ではなくて、魔族がいていいものかと。
「こんばんは。大魔女さま」
「うへぇ」
 声までキレイ。
 肌の露出の多い衣服を纏い、肩から羽衣を流している美女は特徴的な、ピンク色
のメッシュが入った白銀の長髪を風に揺らした。長い前髪の奥に見える深い緑色の
双眸は、見入ってしまったその瞬間から彼女の虜になってしまうのではないかと思う
ほどに妖艶に微笑んでいる。
「街で酒場をしてるリリス=オルトリンデ。大魔女様も祝杯をあげるときはいらしてね?
 サービスするわよ」
 しなやかな長い指が夕莉の黒髪を撫ぜる。
 妙な緊張感に息を呑み、撫でられた部分を執拗に掻いてしまう。嫌悪ではなく、純
粋に緊張する。グレイのように超絶的な美形という点を帳消しにしてくれるものがな
く、超絶的な美形が野放しになっている存在にたいしての戦法なんてものはどの書
物でも見たことがない。
 一年間の戦争暮らしでも学んだことがなかった。
 混乱してしまい言葉も出ない夕莉の頬に軽く口付け、リリスと名乗った美しい女性
はくるりと踵を返してしまった。
 羽衣がふわりと浮かび、まるで本物の織姫のようにも――
「そ、そういや……!」
 リリスの姿が人ごみの中に消えると、夕莉は後ろの席で派手に飲み食いしている
シュテルンを振り返った。
「おい、シュテルン! こっちの七夕って……」
「あ? なんだよ、戦術の難しい本は腐るほど読んでも、民間の絵本は読んでねーのか」
 何の肉だか分からない骨付き肉を貪っていたシュテルンは、口の中の食べ物を酒
で押し流して勢いよく立ち上がった。
 ひらりと羽衣が舞い――
「なんで女物なんだよ!」
「似合うからに決まってるだろ!」
 胸を張って答えるシュテルン。そういえば彼は、ひな祭りでも女物を着飾っていたよ
うな気がする。普段は男物を着ているというのに行事の際は女物を着たがるというの
は、いったいどのような精神構造をしているのだろう。
 疑問のあまり首を傾げそうになるも、夕莉はまっすぐにシュテルンを見据えたまま、
「とりあえず簡単にでいいから説明してくれ」
「仕方ねーな。
 昔々。つっても魔神王アスタロトたちよりかは新しいくらいの時代の話。
 ある夫婦がいた。夫が彦星、妻が織姫。その夫婦はとても仲睦まじく、常に二人で一
緒に行動をしていた。しかしそのことを快く思わなかった妻の父は、夫を罠にはめて笹
に食わせちまう。
 そのことを嘆いた妻は、自らも笹へと身を投げてその腹の奥で花火を打ち上げたそ
うだ。その美しさに目を奪われた時の権力者が考え出したのが、この七夕祭りってわけだ」
「……いや、よくわかんねぇよ」
 短冊の理由が特に分からない。
 やはりあれは笹――認めたくはないが、ニヴルヘイムで笹というからには笹と呼ばな
くては、来年からとても困ることになるだろう――の動きを封じるための護符か何かであっ
たのではないだろうか。
 疑問に唇を尖らせている夕莉の頭を、冷たい酒で冷えたシュテルンの手が叩く。
「なっ――」
「いいから楽しめ。
 仲睦まじい夫婦のご利益ってヤツで、良い縁に恵まれるぜぇ七夕は。これから一番最
後のド派手なステージだからな。ちゃーんと見てろよ」
「おい、シュテルン!」
 言いたいことだけを告げて人ごみの仲へと消えるシュテルン。主役席と呼ばれる場所
に一人で残された夕莉は、座るもののいない空っぽの席をチラリと見遣った。
 恐らく、主役というのは織姫と彦星で自分は織姫を任されたのだろう。しかし彦星がい
ない、これは演出なのか――それとも最初からおらず、毎年織姫を任される魔族は、奇
妙な空虚感を感じながら過ごすのだろうか。
 中央ではクラリスとエアリスが漫才を繰り広げ、爆笑の渦が巻き起こっている。そこか
ら少し離れた場所でリリスが酒を振舞い、他にも見覚えのある魔族たちは騒いでいる。
 その喧騒から一人離れ、夕莉はぼんやりと魔王城を見上げた。
 窓から笹が顔を覗かせている――禍々しいその様子は、まさに魔王城。勇者とやら
が実在すれば、すぐに攻略されてしまいそうな雰囲気がある。
「……バカバカしい」
 ふい、と顔を背けたその刹那。
 主役席を覆うほどの蔓が魔王城から伸びた。着慣れない衣のせいで鋭い蔓の先端
が皮膚を掠めたが、その程度で怯むほど夕莉は痛みを恐れはしない。
「なんだよ。ド派手って……僕がやんのかよ!」
 窓ガラスや壁をぶち破って外へと出てくる笹の大群。巨大な口からは鋭い牙と、大量
の粘液が顔を覗かせる。
 ぼたぼたと粘液の雨が降り注ぎ、周囲に詰まれた食物が嫌な臭いを発して溶けてい
く。それらには一切目もくれず、ただまっすぐに笹を仰ぐ夕莉。
 その唇が微かに笑みの形に歪んだ――
「やってやろーじゃねぇか!!!」
 夕莉の両手を中心に魔力が渦巻く。その強い力に引き寄せられる精霊たちが次々と
術者の望んだ形へと姿を変え、反動で生まれる風に泳ぐ羽衣へと宿る。
「世界を彩る焔の華。
 乱れ咲け! 狂い咲け! 輝かせろ! 赤い血の花を!!」
 肩に掛けていた羽衣を勢いよく引っ張る。刹那、それはまるで自らの意志をもってい
るかのように頭上から襲いくる笹へと向かっていく。
 凛とした言葉は炎の羽衣の形を変えさせ、同時に次々と飛び込んでくる火薬鳥を弾
けさせていた。
 腹の底に響くような低い音が重なる。
 焔の花が咲き乱れる中を舞うのは、焔の鳥。
 激しい炎の渦に呑まれ、その身全てを焼き尽くされる笹たち。炎の中に飛び込んだ
火薬鳥もまた、体の破片を一欠けらとして残すことなく消失する。
「はんっ!! ハデにいったろ!」
 下駄によく似ているが、よく見ると構造の違う履物の底で思い切り床を蹴る。その音
を皮ギリに轟音が夜空に轟いた。
「おめでとうございます!」
 突如聞こえる拍手喝采。何が起きたのかと振り返る夕莉の手を大きな手が握りこんだ。
「ナナセ様」
「あ、アシュレイド?」
 淡い青を基準にした着物――とはいえど、地球に現存していた着物よりも遥かに布
は軽く、色合いも若干ながら違う。さらに言えば、着方もだいぶ違う。地球とは逆といえ
ば分かりやすいのだろう――を身に纏ったアシュレイドが、とても珍しい表情で立っていた。
 不機嫌そうにシワの寄せられた眉間。
 けれども僅かに、本当に微妙な違いでしかないけれど、今宵のアシュレイドは微かに
笑んでいるようにも見えた。
「なんでお前が……」
「今年の彦星役を承ったのです」
「は?」
「毎年、七夕では一組の男女が織姫と彦星の役を承り、織姫は笹に食われた彦星を助
け出す。無事に救出できれば、その二人の縁は末永く続くといいます」
「ちょ、ちょ、ちょっと待てよ! なんだそれ!!」
 聞いていない。
 そんなこと一言も。
 夕莉は物凄い速さで笑い声をあげているシュテルンを振り返った。恐らくは、彼の仕業
なのだろう。夕莉ただ一人がこのイベントの主旨を知らぬまま進行し、そしてラストの笹花
火でネタ晴らし――と。
「シュテルン!!」
 夕莉の怒声に浴びるように酒を飲んでいたシュテルンが爆笑する。それにつられて集
まっていた魔族たちも笑い声を上げ始め、魔王城付近は笑い声が重なり合い混沌とし
ていた。
「テメっ……バカにしやがっ……」
「ナナセ様。今日は七夕ですし……穏便に……」
 オロオロ――とてもオロオロしているようには見えない不機嫌顔ではあったが、普段
よりも夕莉の腕を掴む手に力が入っているところをみると、それなりに慌ててはいるら
しい。
「はーなーしーやがーれー!!」
「放しませんっ!」
「はーなーせー!! この、バカッシュレイドォッ!」
 力任せに暴れていると、最終的に取り押さえるために背後から抱きすくめられてしまっ
た。こうなってしまっては体格的に劣っている夕莉では抵抗しても無意味なものになって
しまう。
 悔しさに唇を噛むも、アシュレイドの大きな手が頭を撫ぜる感触のせいで妙に心が落ち
着いてしまう。燃え盛っていた怒りの炎もアッサリと鎮火してしまったことに気がつくと、夕
莉は静かに息を吐いた。
「……ふんっ」
 不機嫌そうにアシュレイドや魔族たちを見遣り、
「……今日だけだからな」
 ぽつりと呟く。
 その言葉だけでどれほどアシュレイドの心が躍るかなんて知らない夕莉は、ムスッと
したまま黙り込んでしまう。
 闇色の夜空には満開の花火。
 ぱらぱらと舞い散る火薬鳥の破片なんて気にせずに。
 恋人たちは寄り添い、空を彩る花々を仰いでいた。




「ツマリハ、主トアシュレイド殿、クッツケルタメノ行為?」
「うん。そうだよぉ、カロン」
 木の上でグレイとツインテールの少女が話し合っている。
「主、喜ブ?」
「うん。きっと喜ぶよ! だって、二人が仲良くなったらボクも嬉しいもん」
「……ソレ、主、関係ナイ」
 ツインテールの少女はポカンとした顔でグレイを眺めていた。冷たい横顔に火薬鳥の
破片が触れ、それと同時に真っ二つに分断されて落ちていく。
 頬をポリポリと掻く少女は肩をすくめて告げた。
「ソモソモ、七夕伝説ウソウソ。シュテルン殿、ウソ」

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