白い光がニヴルヘイムを覆う。
 その光は魔族の魔力そのものの存在を否定し、それを身に宿す魔族ま
でもを否定していく。生ける者として否定された魔族は、生きる資格そのも
のを剥奪されたかのようにアッサリと人間の刃によって地に沈む。
 失われた命の灯火も、否定された魔力も、すべてがニヴルヘイムへと溶
けて消えてしまう。
 天へと昇る小さな光の粒。
 それを魂の涙と呼ぶようになったのはいつの時代からであっただろうか。
 空を仰いだまま倒れているシュテルンは、小さく呟いた。
「デッケェ魂水晶が生まれるぜぇ……これは」
 口の端から血の糸をたらし、殆ど動かない四肢を辛うじて発動できた魔
術で治癒する。しかし、それはせいぜい数分しかもたない弱いものだろう。
 人間を十人屠れればいいほうだ。
 それでもシュテルンは、重い体を起き上がらせる。
「まだ……お前のそばにゃ行けねぇよ……せっかく、アイツが帰って来たっ
てのによぉ……」
 真紅の双眸が映す世界は血で染まりきっている。
 昇る小さな光を追うことも、地に伏した同胞が最後に発動させた魔術の
痕跡も、すべてが眩暈がするほどに鮮明な赤に呑まれて消えていく。
 その中でも揺らぐことのない、たった一つの姿。
 それへと手を伸ばし、彼はいつもと同じ笑みを浮かべた。
「ウルキ……ありがとな」
 薄く青の混じった白い髪。
 穏やかな微笑を浮かべている女性の姿を掻き抱くように、シュテルンは
その両腕を伸ばす。その視界に映りこむ大勢の人間。
 それらを一瞥すると、その顔から笑みが消えた。
「邪魔すんじゃねーよ!!」
 ブーツの底が地面を叩く。
 刹那、彼を中心に法術の光と酷似した色の糸が張り巡らされる。
「魔族が法術を――?」
 その糸に絡め取られた人間たちは、己が双眸を限界まで見開いて恐怖
する。
目前に佇む魔族の姿を見下ろし、その手に力が込められぬことを無心に
祈しかできなかった。
「法術なんかじゃねーよ。
 オレ様の愛の結晶だ、バァーカ!」
 シュテルンの手が特殊な動きをする。
 それは白い糸を巧みに操り、絡め取られている人間の肉へと深く食い込
み――苦痛を感じるよりも前に切断する。血の雨を降らせながら落ちてくる
四肢と、人間の破片を仰いでシュテルンは笑い声をあげた。
 息のある人間から見れば残虐なその笑い。
 その内に秘められた感情に気づくものは誰一人としても存在することはない。
 血よりも赤い真紅の双眸は、すでに次の標的を捉えていたのだから――
 圧倒的な戦力の差。片手で事足りるほどの人数しか生き残っていないシュ
テルンの部下と、数えるのも面倒になりそうなほどの人数を投入してきた人間。
 手足がもつはずもない。
 しかしシュテルンは退くことはしなかった。
 ただまっすぐに前を見据え、勇ましく吼える。
「四肢がもげるまでヤッてやんよ!
 後悔するなら今のうちだぜぇ、クソガキども!!!」



「危ない、メーア!」
「ゾンネ!!」
 白銀の矢がゾンネ脇腹を射貫く。鮮血を衣服に滲み、それは夥しい量の血液
を吐き出す。
「ぐ……う」
「わたくしが……わたくしが魔術さえ遣えれば……!!」
 法術によって魔術を封じられ無力化されてしまったメーアは、悔しそうに自らの
双眸に涙を浮かべる。手に握るロッドを接近戦に使用したとて、訓練している人
間の兵士に腕力で勝てる筈もない。
 ただの足手まといになってしまったことを、ゾンネを負傷させてしまったことを悔
いている彼女の細い肩が震えていた。
 その肩へと優しく触れ、ゾンネは薄く笑みを浮かべる。
「命に関わるほどの傷でもない……今は、法術の解除を考えてくれ」
「……えぇ。わかりました」
 歯を食い縛り、メーアのその場で精神統一のために目を閉じる。
 本来ならば後方支援に回るはずの彼女が前線に出ている時点で、ゾンネのす
べきことは決定したようなものだった。メーアは、夕莉のように接近戦を得意とし
てはいない。
 守って、勝機が見えるように導かなくてはならない。
 そうすれば勝てる。
 ゾンネは抜き身の大剣を構えた。
「……ゲーティアは言う。
 我は狂戦士に非ず。我は家族を守ることを信条とする一人の母也」
 低く抑えた声音で告げられる言葉が力を持つ。
 それはニヴルヘイムに眠る小さな意思を呼び覚まし、小さな小さな光と変える。
「私は赤の一族が当主! ゾンネ=ロート=サルガナタス!
 古の英雄サルガナタスの子孫であり同時に、狂戦士ゲーティアの血を引くもの!
 ニヴルヘイムの大地に眠る赤の氏族よ! 呼び声に応えよ!!」
 小さな意思。小さな光。
 それは、遠い昔より続く歴史に生きた戦士たちの魂。
 消えることも、残ることも選ばずに、再び戦いの日々を待ち侘びていた歴戦の
勇士の姿。
 魔族でもなく、人間でもない。
 彼らは一つの力としてゾンネが携えている大剣へと宿る。声ではなく、音でもな
い音で鬨の声をあげ、久方ぶりの戦に酔いしれる。
「ここから先へは絶対に通さん」
 小さな光に進行を妨げられていた人間たちが一気に押し寄せる。魔術が遣え
ない魔族など人間と変わらない――否、憎しみがある分人間よりもよっぽど殺し
やすい。
 そういった思考なのだろう。
 脇見をふらずにまっすぐに駆けて来る人間を、ゾンネは迎え撃つ。
 淡い光の宿った刃は、いとも容易く白銀の鎧を断ち割り、その中身を両断する。
血飛沫を浴びながらも向かってくる人間たちを大剣の一振りで屠れば、その後に
控えていた人間の剣が振り下ろされる。
 憎悪も、怒りも、嘆きも、すべての負の感情がこもっているかのようにすら感じる
太刀筋。
 それらすべてを受け、払う。隙の出来た体を全力で薙ぎ払えば、肉片と化した人
間が大地に転がる。魂を喰らう声が聞こえ始め、法術で守られている人間たちに
も僅かな動揺が走った。
「魂喰らいの大陸……ニヴルヘイムへ迷い込んだ気分はどうだ……!」
 紫苑の双眸を見開く。
 端正な顔を血に染めて、とても美形とはいえないくらいに腫らして。
 大量の血液を流しながらもゾンネはその動きを止めることはない。
 背中を見ている者のために。
「――歪を、法術で塗り固められたニヴルヘイム。
 生じた歪を打ち砕けば…………」
 大きく開かれる漆黒の双眸。
 映りこむのは――
「純白の…………翼?」
「メーアッ!!!」
 大きく吹き飛ばされるメーアの体。その細い体躯が宙に舞っている間に、幾多も
の刃が切り刻む。鮮血が降り注いだ。
「な、ぜ……っ? そんなことが……」
「メ――あぐっ……!」
 見えない力に地面へと叩き付けられるメーア。抱きとめようと走ったゾンネが蹲る。
胸を抑え、脂汗を額に浮かべ酸素を求めて喘ぐ。
「め……めーあ……」
 力の入らない手を伸ばそうにも、足を動かそうにも。
 ゾンネは自らの迂闊さを嘆く。
 一つは敵に背を向けたこと。
 もう一つは――
「しろ……い、は……ね……」
 頬を撫でる冷たい手の平の存在に気がつかなかったこと。
 何本もの剣に貫かれたゾンネの双眸から光が失われる。
 倒れこむ二人の体に白い羽がひとひら――舞い降りた。


 法術の鎖。
 身動きが取れぬまま、ヒンメルは閉ざした視界で生きる醜い化物を凝視する。
「私はあなたの力を必要としていません」
 拒絶するヒンメルに化物は、ニタリとした笑みを浮かべて異臭を放つ顔を近づけ
た。どこまでも嫌な目をしている――唇をきつく結んで、彼は自らに訪れる苦痛を
堪えようと息を呑んだ。
 化物は筋肉と脂肪で膨張した指で鎖をいじりながら、降りかかる刃を払いのけ
ながら下卑た笑い声を上げている。まるで子供と戯れているかのように。
「消えなさい、目障りです!!」
 声を張り上げるヒンメル。
 その怒声に反応した化物は、ようやく魔族の言葉を大きな牙の生えた口から紡
ぎだした。
「運命に抗って何になる?
 元より呪われた出自……他の青の一族と同じように番人を殺せばいい」
「断る……!」
「アレもソレを願っている。
 いつまでも生かしておくのは、むしろ悲劇だと思わないか?」
 化物の口から紡がれる単語。
 その一つ一つは、ヒンメルの心を効果的に揺さぶる。
「魔族の中にたった一人だけ……異分子。
 魔力のない……無能……忌み嫌われる……器」
「黙りなさい……黙りなさいっ」
 鎖が軋む。
 声が聞こえた。
 化物の声でも、従兄弟の声でもない。
 とても忌々しい――けれども憎むことが出来ない声が。
「たった一人? ニヴルヘイムはいつからそんな閉鎖的になったんですか。
 この国には魔族以外の種族だって住んでいるのですよ。
 知りもしないことを偉そうに語らない方が身のためですよ――あぁ、それと」
 ギチギチと、嫌な音をたてて鎖が擦れる。
 もうすぐ断ち切られる。運命を変える選択肢が訪れる。
 ヒンメルの唇に薄い笑みが浮かべられた。
「あまり顔を近づけないでください。
 あなた、臭いんですよ。我慢できないほどに」
 乾いた音が響き渡った。
 断ち切られた鎖。ガラガラと音を立てて崩れ去る何もない世界。
 消え行く化物はくぐもった笑い声を上げながら、
「逃げ続けたとて意味はない。
 やがて……今日の選択を後悔することになるぞ……アガレスの子孫」
 低く告げて、その姿を消す。
 それと同時に視界が開けた。
「っし。テメェは無事か」
「えぇ無事ですよ」
 漆黒の髪、漆黒の双眸。双黒と呼ばれる色をその身に宿した人間。
 七瀬夕莉の姿を見たヒンメルは、静かにその横を通り抜けた。
「そちらは頼みました。私はここで足止めをしますので」
「ハァ? お前……」
「私の気が変わらない内にお願いしますよ。重いのはあなたの体だけで十分です」
「テメェ……後でブッ殺す」
 大鎌の刃に足をかけ、夕莉の姿が森の奥へと消えて行く。
 その姿が完全に見えなくなった頃、ヒンメルはぽつりと小さく漏らした。
「素直にお礼を言う時はなんと言いましたか……いけませんね。
 長いこと、誰かにお礼を言っていない気がします。
 生き残れたらアシュレイドに聞きに行きますか」
 足元に張り巡らされる法術の魔方陣。
 息を吐いて、覚悟を決めて。
 ヒンメルは下ろしていた瞼をゆっくりと持ち上げた。
――後悔なんてしませんよ。
 あの日以上に後悔する出来事なんてありえませんし――


 城へと向かう夕莉の右手が、何の前触れもなしに切断される。通常ならば、大
鎌から振り落とされる所だがカロンは生きた鎌。主を振り落とすようなヘマをする
はずもなかった。
「……どうせテメェだろ?」
 切り落された右の肘から血液が零れ落ち、その血液が瞬時に凝固する。膨れ
上がるいびつな肉は、この世界の常識をも覆すような速さで修復を始めた。
 切り落されたものと寸分違わぬ腕を作り上げ、その神経の一本一本まで完全
に繋ぎなおす。その姿は、すでにヒトにも魔族にも見えなかった。
「ご名答。どんどん化物じみてきたなぁ、ナナセ」
 頭の奥に響く低い声。
 何度も夢に見た逞しい体躯。
 精悍な顔つきを目にしただけで、心臓が酷く痛む。
「相変わらずオレを見る目が熱くて焦げそうだぜ」
「うるせぇな……僕は急いでんだよ。とっとと殺してやる」
 切り落された自分の右腕を広いあげ、投げつける。
「そうだな。そろそろ言葉なんていらねーだろ?
 抱き締めて、愛を囁いて、ゆっくりと殺してやるよ」
 投げつけられた腕を掴んで、その甲に口付ける。その仕草に体温が上がった
ような気分にすらなった。自らの体に起こる変化を認めたくないのか、夕莉の表
情は普段よりも強い怒りを孕む。
 大鎌と共に跳んだ夕莉の漆黒の双眸が炎を宿し、
「さっさと死ねよヒューゲルッ!!」
 ヒューゲルの手が淡い光を帯びたナイフを作り出す。
 交錯する二人の姿を、業火の柱が飲み込む。
 血も、叫びも、すべてが二人を燃え上がらせる材料となり、真紅の刃と純白の
刃が擦れ合う音は、二人だけに聞こえる睦言。
 死の舞踏を炎のステージで踊り続けられたのならばいいのに。
 何も考えず、刃だけを交えていられれば――