暗い空を稲光が切り裂く。
 轟く轟音に耳朶を叩かれ、彼女は下ろしていた瞼を気だるげに持ち上げた。
 体が重い――それは、心地良い疲労などではない。もっと、もっと腹立たしい
ものであり、同時に酷く胸を震わせるものだった。
 胸の奥に、脳髄に植え付けられた狂気を心から揺さぶるような衝動。
 手に握る生きた金属を打ち砕きたいほどに。
 喉が乾く。
 指先がチリチリと熱い。
 頭が割れそうに痛む。
 あぁしかし――


「悪くない……」


 ニタリと笑って背後を振り返る。
 切り裂かれる空間。
 空を飛ぶ術のない大魔導師がもつ移動手段は、酷く原始的でありながら、同
時にとても神秘的だと思った。とても自分にはマネできない。
 空を飛ぶ翼なんてものはどちらも持ち合わせてはいないのに。
「よぉ……」
 低い声を向ければ、大魔導師は無表情のまま杖を構える。
「ここにいりゃあ……会えると思ってた」
 大魔導師は何も答えることなく、ただ赤い髪を生温い風に揺らしていた。


 ぽつり、ぽつりと雨が降り始める。


「お前の腐ったハラワタ引きずり出してやるよ」
 大鎌が岩壁を削る。
 荒々しい波が砕かれた破片を飲み込み、轟々と響く雷鳴が二人の頭上を裂く。
 笑んでいる唇をきつく噤んで、彼女は力強く大地を蹴った。





 突然の豪雨に城内は騒然としていた。
 門を入ってすぐのところでは大勢のコウモリたちが雨を凌ごうとやって来る。
それらを迎えるのはメイドたちの仕事であるせいかタオルを持ったメイドが集
合している。
 キィキィと小さな鳴き声がひしめく中、その光景を眺めていたメーアは、酷く
落ち込んだ表情で息を吐いた。
「どうした?」
 傍らに立つのは、同じようにどこか落ち込んだ顔をしているゾンネ。彼は、
騒がしいコウモリたちを一瞥すると、すぐにメーアへと目を向けた。
 長い睫毛が影を落とし、愛らしい顔が曇ってしまっている。
「ゾンネも……分かっているのでしょう?」
 どこか弱々しい声で告げられる言葉。その真意を理解しているのか、ゾン
ネは紫苑の双眸を軽く見開いた。
 基本的に気候が穏やかなニヴルヘイムにこのような雷雨が降ること自体
珍しい。それだけではなく、大陸内に失われたはずの存在が侵入している。
 何かがあった――否、何かが起こる前兆なのだろう。
 それが杞憂であればと思わないことはない。しかし、血が騒いでいるのは
間違いない。
 自らを廻る血液は、貴い四英雄のもの。それが示すざわめきは――――
「……魔族は闘争心に満ち溢れている……と言ったのは誰だったでしょうか?」
「狂戦士ゲーティアです。人間に比べれば、大人しいものに感じられるのは
わたくしだけなのでしょうか?」
 胸の前で両手を重ねる。
 あまりにも落ち込んだ表情にかける言葉すら見つからなくなってしまう。こ
れが少し前までの出来事であるならば、背中を軽く叩いて笑うだけで済んで
いた。
 争うことは苦痛ではない。むしろ勝利を手にした瞬間は心地良さを感じる。
 しかしこれは違う。
 良くないことが起きる。
 奪われた双紅の大魔導師の亡骸。
 魂の半分を奪われた双黒の大魔女。
 ニヴルヘイムに訪れる不可思議な天候。
 戦が起こる前兆にして不自然すぎた。
「……わたくしは……怖い」
「メーア……」
 細かく震える肩を抱いてしまえるほどに余裕があったならば。
 ゾンネは唇を噛み締め、その肩に触れた。
「私は戦うことしかできない。しかし、戦うことで誰かを護れると思っているんだ。
 …………もう、止まらない戦なのかもしれない。だからこそ……」
 体を拭いてもらっているコウモリたちが道を開ける。そこに降り立つのは、コ
ウモリたちの王――ヴァンパイアのグレイの姿。整い過ぎた容姿に雨の雫を
零しながら、荒れた空を仰ぐ彼は、血のように真っ赤な双眸を細めた。
「ゾンネ、メーア。
 シュテルンとヒンメルも集めないと」
 以前よりもどこか大人びた微笑。唇から覗く鋭い牙は、戦うことを本能が察
知しているのだろう、日常生活を送るときよりも鋭く尖っていた。
「……ああ」
 言おうとしていた言葉を止められたゾンネは、名残惜しそうにメーアの肩か
ら手を離す。
「二人を探すとしよう」
「えぇ」
 くるりと踵を返して歩き出すメーア。
 ふいにその足が止められて――
「ゾンネ」
「?」
「あなたが、わたくしと同じ時代に生まれてくれたことを感謝します」
 長い灰色の髪が揺れて。
 決してその声は穏やかなものではなかったけれど。
 どこか安堵のようなものを、信頼を感じられた。
「……私も、メーアと同じ時代を生きられることを感謝している」
「……ふふっ」
 朗らかな笑い声。
 絶望的な状況に陥るかもしれない空気の中で、笑える今を強く記憶しておこう。
 明日には死ぬかもしれないこの命――護るべき存在のために。
 ゾンネは胸に手を当て、静かに息を吐いた。
「……私は東の塔へ行く」
「では、わたくしは西へ」
 二手に分かれて歩き出す二人の姿が見えなくなる頃、グレイは静かな声で呟いた。
「……成長するのって嫌だな。キルケ様が大好きってだけで行動できなくなる」


 雷鳴が轟いて全てを打ち砕くとすれば、それはきっと曇りきったこの心も砕
くのだろう。


「火の国の王――スルトは、一方的にこちらへ攻め込むことを決めた。人間
たちは、水の国以外火の国の味方だそうだよ。ほんっと、戦うことしか考えて
ないんだね……気の遠くなる話だよ」
 窓の外を眺めている真は、どこか諦めたような表情を浮かべていた。その
後ろでは、椅子に座ったままの結梨が、頭を抱えて唸り声を上げている。
 火の国からの使者が訪れたのは数時間前。人間たちのどこにそんな技術
があったのかは知らないが、映像だけでは送られてきた一方的なメッセージ
を目にしてから、結梨はずっと考え込んでしまっている。
 その傍らでは、心配そうな表情を浮かべたアイリーンが付き添っているもの
の、かける言葉が見つからないらしい。
 当然だろう。
 一度は友人を失って得た勝利。ようやく落ち着けると思った矢先にこれだ―
―人間の世界で生温い環境に包まれて生きてきた子供が耐えられるはずもない。
 真は苦しそうにしている結梨に目を向けず、稲光の煌く暗い空を仰いでいた。
「なんで……人間は、魔族に戦争を仕掛けたがるんだ?」
 ぽつりと呟かれた言葉。
 その疑問にアイリーンが答えるよりも早く、
「人間が魔族を嫌ってるからだよ」
 酷く冷めた言葉で答えた。
 そんなことも知らなかったのかと。
「なんで、嫌ってるんだ?」
 そんなことも――? 何一つとして調べていないのかと半ば呆れた。
 結梨も夕莉と同じように、この世界の言葉を理解できる力が備わっていると
いうのに。過去の記憶から引きずり出しているというのに。
 なぜ使おうとしないのか。
「――魔族は人間とは違うからね。
 後から生まれた種族のクセに、次々とボクたちの住んでた大陸を侵して行っ
たんだよ。魔族が耕して、まっさらにした大地を横から奪って、それどころか命
まで奪うんだよアイツらは」
「魔族は人間より強いんだろ?」
「あぁ。アイツらは弱いよ。弱いからもっと弱いヤツを狙うんだ。
 魔族の子供は一部を除いてとても弱いからね。人間は子供たちの眼球を抉っ
て、自分のたちの力に変える術を編み出した。法術を清き魂の光なんて言うや
つがいるけど、そんなの馬鹿げてるよ。魔族の子供を殺して、その眼球で得た
力なのにね!
 その法術がボクたちを弱らせるって知ってたんだよ、アイツらは」
「どうし……」
「人間が――――」
 何かを言いかけた真の動きが止まる。
 口元を手で隠し、吐き出しそうになった言葉を飲み込もうと息を呑む。
 その仕草に結梨が首を傾げるが、彼はそれ以上何も言わずに口を閉ざして
いた。
 ただ、その漆黒の眼差しは言葉もなく告げるのだ。

――お前は本当に役立たずだよ。アスタロトの魂でなければ殺してるところだ――

「……」
 俯いて、頭を抱える。
「ユーリ……」
 心配そうな顔をしているアイリーン。
 金の髪と、青い瞳。その容姿はどこまでも肖像画の中の人と似ていて――
「オレ……何処で間違えてるんだろ。人間も、魔族も、仲良くしたいだけなのに……」
 弱々しい言葉を吐き出す自分が、魔族たちから尊ばれる魔王――魔神王の
魂を持っているなんて信じられない。いつでも間違えて、大事な友達を殺して、
正しいと思って行動しても何もできない。
 ただの人間でしかない自分が魔神王の――?
「……どうすれば……」
「ユーリ……?」
 俯いて、頭を抱えて。
 ふいに空気が変わるのを感じた。
「……?」
 ゆっくりと顔を上げる結梨。
 その双眸が軽く見開かれる。
「……私が、二人?」
 不思議そうに呟かれた言葉と、伸ばされる腕。
 その手がアイリーンに触れるよりも前に、真の怒声が響き渡った。
「深山ァッ!!!」
「な、なんだよ。駿河」
 驚いて体を震わせる。それと同時に伸ばしていた手を引っ込めるが、周囲の
空気は変わらない。どこか懐かしい――それでいて不安にさせるその匂い。
 真は、酷く機嫌の悪そうな横顔で告げる。
「完璧な転生を汚すな」
「え……あ、オレ何か……」
「…………」
 何も答えないまま、彼は激しい雨の中で走り回っているアシュレイドを見下ろす。
 誰を探しているのか――容易に想像はつく。さきほど、ニヴルヘイムに入り込
んできた気配と香りは、忘れるはずがないのだから。
 長い髪を濡らして、声を張り上げて。
 ここにはすでにいない姿を探す。
「……七瀬に考えさせればいいのにな。アイツだって、ただの子供じゃないんだ」
 小さな声で呟くと、真は窓ガラスを軽く叩いた。
 この雷鳴がすべてを脅かすのならば、いっそ全て壊してしまえばいい。
 まっさらにして、もう一度作り直したほうがどれほど楽か――




「――黒い私」
 静かな声で告げられる言の葉。
 その呼び名に夕莉は、酷く嫌そうに顔を歪めた。
「僕はそんな名前じゃねーよ」
「名前なんてものは記号にしか過ぎないわ。あなたは黒い私、私は赤いあなた」
「……ふーん。どうでもいいよ、そんなこと」
 大鎌を握り締めて、夕莉は身構える。その唇からは一切の表情が消え、漆黒
の双眸は静かに標的を見据えている。
「大魔女の名において、大魔導師キルケ……アンタをぶっ潰す」
「黒い私。あなたは私には勝てない――」
 大鎌がキルケの足元を抉る。そこから一歩も動かないまま、彼女を中心に透
明な壁が展開された。そこから放たれるのは、七色の光の槍。
 それらすべてを、黒い壁で吸収すると、夕莉は目で大鎌へと指示を与えた。
 金属同士の擦れる音。
 キルケの周囲で宙に浮かんだまま待機していた太刀と、互いの身をぶつかり
合わせている二つの生きた武器。それらの戦いを尻目に、二人はほぼ同じスピー
ドでそれぞれの術を展開させる。
「堕ちろ! 天裂く怒りの刃。
 我が手に堕ち、一太刀の刃と化せ!」
「猛れ。母なる其の大地よ。
 愚かなる罪を繰り返せしそなたの子らを粛清せよ」
 夕莉の頭上から降り注ぐ雷光。
 キルケの足元を襲う土砂。
 轟音と、土煙が上がると同時に、二つの姿が飛び上がる。
「カロン!」
 夕莉の呼び声に反応した大鎌が太刀を弾き飛ばして、空中へと投げ出された体
を拾いに飛ぶ。濡れた刃の上に足をつけると同時に、彼女は背後に生まれた自分
とまったく同じ気配を察知した。
「ウゼェ!」
「汚い言葉ね」
 銀の刀身が夕莉の頬を掠める。
 しかし、そんな痛みに顔を顰めるほど戦うことに恐怖を抱いていないのだろう。彼
女はすぐさま大鎌の柄を握ると、そのまま一気に刃を上空へと振り上げた。
 降り注ぐ雨の雫が弾け飛ぶ。
 生まれた生温い風の中、夕莉は漆黒の双眸を見開いた。
「……右目は、どうした」
「…………」
 髪で隠れていた右目。
 そこにあるのは暗い眼孔。
「……知る必要もねえよな!」
 大鎌が風を斬る。
 稲光が天を裂いて、地を穿った。



――戦争なんてないほうがいいのに。皆で仲良くしたほうが……ずっと――