――あぁ……この闇の中で眠らせて――

 

 

 それは永遠に続く闇。遠い時代に死んだ時より続く深い、深い闇。

 それに恐怖することはなかった。恐怖なんて感情は忘れてしまって

いたから。だからこそ、この闇の中でも自分を見失うことがなかった。

 ただ純粋に――誓いの言葉を想って、誓いを守って。

 時が来るのを待ちつづけていた。

 しかし彼女は想う。

 今はその時ではない――と。

 歪んだ形で行われる儀式は一度でいいはずだと。あの血涙は偽りで

はなく真実のもの。もう、王が泣く必要なんてどこにもないと。

 弱い王の顔を脳裏に浮かべて彼女は口を噤む。

 脳裏に過ぎる懐かしい声に目を硬く閉じる。

 心が掻き乱される――誰かが、胸の内に入り込んでくる。

 彼女――双紅の大魔導師キルケ――は、真紅の双眸を見開いた。

「消えて。私の役目は終わった、もう……現世にいる必要も理由もない」

「本当にそう思っていますか?」

 耳元で囁かれるのは悪魔の――否。悪魔などではない、これはもっと煩

わしい存在だということをキルケは悟った。例えるのならば遠い時代に感

じた嫌悪と同じ。

 同じ血の海から生まれたというのに、自らを全知全能としたあの存在。

 純白の翼を持つ――忌々しい、あの存在。

 キルケは口を開いた。口腔に侵入するのは、何度味わったか忘れるはず

のない同胞の血と――天使たちの血。終わった戦いの記憶が蘇り、血を騒

がせる。言葉を発するのも面倒だった。

「滅ビナサイ……」

 口から発されたのは、本当に自分の声だったのだろうか?

 キルケはその両手を胸の前で合わせてその間に生まれた熱を投げつけた。

 刹那、音もなく弾け飛ぶ黒の塊。それは、この空間そのものを構成する闇だ

ということを気付くと同時に、彼女は口を開いた。

 胸が痛い。

 胸が苦しい。

「黒い私と私を切り離すことに何の意味がある――光と闇が存在しなければ、私

たちであっても存在はできないというのに」

「簡単なことです。肉体なんてものは魂の一時的な器にしか過ぎませんので――」

 闇から引きずり出される肉体。

 それは忘れるはずもない自分の姿。血を失い、心を失い、残すものなどなくなった

抜け殻は、力なく姿の見えない存在へとしなだれかかっていた。

「光と闇……どちらが勝つのか見物です」

 目を閉じたままの骸を押し付けられる。

 それをつき返してキルケは目を吊り上げた。

「不必要……私は、黒い私へと還るだけ」

「大賢者への想いは――いいんですか?」

「……なにを……言うの」

 迷いが生まれた。たった一言に心が揺らいだ。

 まるでその揺らぎを知っているかのように、自分の骸に抱きすくめられる。冷たい肌、

死の臭い――こうなったあの時から、すべてを覚悟の上で眠りについた。

 たとえ、あの水晶の外からあの人が見つめていようとも。

 その気持ちに応えることはないと。

 ただ、同じ時代に生まれ――生きた。それだけで、満足して消えていけば――

「肉体さえあれば、あなたの半身を再び手にすることだった可能ですよ。

 大賢者ですらも……その手にできます。欲しいでしょう? 欲しいでしょう?」

 繰り返し告げられる言の葉。

 感情さえなければ。魂の片割れをもつあの娘が感情さえもたなければ。

 今、悩むことも、迷うこともなかったのだろうか。

 闇から引きずり出される感覚。

 闇の慟哭――光の嘆き。

 どうしようもないほどに狂おしい想い。

「…………私は、私は…………」

 あの人のために。

 生きてきた。あの人のために死んだ。

 あの人の――ためだけに、生きたかった。

 

 

 キルケは、全てを拒絶するかのように頭を抱えた。

 

 

「これは…………」

 人間の王――火の国の王スルトは、目の前の出来事に瞠目していた。

 薄闇に覆われた室内に充満するのは、血の臭い。儀式に携わっていた法術士の

大半が肉塊となって転がっている。その中央に佇んでいるのは、真紅の髪をもった

女性――色素の薄い肌には返り血がこびり付いて。

 光の宿らない真紅の双眸は、涙で揺れていた。

「ティファ――本当に、これで使い物になるのか?」

「はい、陛下。魂は肉体に定着いたしました……もちろん、呪縛も忘れずに行いまし

たので、双紅の大魔導師キルケはあなた様の忠実な僕にあります」

「そうか――」

 満足そうに笑うスルト。

 その笑い声が耳障りなのか、血に濡れた自らの手が不快なのか――

 キルケは静かな表情を怒りで染めた。

「よくも……よくも」

 憎悪に満ちた声。

 それは、周囲の空気を震わせて辛うじて息のあった法術士たちを圧し潰していく。

「よくも……私に、肉体を与えたな……!!」

 振り上げられた手に一本のロッドが握られる。

「夢浅葱ですね」

 唇に笑みを浮かべるティファは、足首に括りつけた鈴の音を響かせて大きく前に

跳んだ。

「再会の喜びは、私の腕の中で如何ですか?」

「……戯言を――」

 ロッド――夢浅葱を一振り。

 刹那、この空間に存在している者の中で、呪縛により攻撃の的として選ぶことの

できない人間の王と、なぜか魔力に強い耐性を持っているティファ以外の生存者

を見つけたキルケの双眸が鋭く細められた。

「エリゴールの子孫か!!」

「ヒッ……!!!」

 断末魔の悲鳴をあげるよりも前に、その首を一振りの太刀が斬り落とす。

 ゴロリと転がった頭部――その顔はメーアとよく似ており、同時にエリゴール自身

ともよく似ていた。

「…………肉体さえなければ、この想いも……昇華できたというのに」

 力なく、呟いて。

 キルケは自害すらも赦されない肉体に縛られる運命を悔いた。

「…………ネビロス様…………申し訳ありません…………」

 脳裏にちらつく白い花。

 背中へと回されるティファの腕を払う気力なく――

「それでは、次の段階へと入りましょう大魔導師……いえ、大魔女様。

 ――魔族の眼球は、貴いものですからね…………法術士にとっても」

 

 

 いっそ、この視界全てが闇に覆われてしまえば。

 闇を求めて彷徨うこともないのだろうか。

 もう――何を憎んでいるのかすらも分からない。