「あ……」
 どれほどの時間が経ったのか外はすでに黄昏時であった。西の
空へと沈んでいく太陽を見た夕莉の双眸が細められる。
 軽い頭痛と眩暈は、多すぎる睡眠時間のせいかもしれないと自
分に言い聞かせて上半身を起こそうと体に力を入れる――刹那。
「…………?」
 奇妙な違和感を感じた。
 体が軽い――否。もっと奥にあるものが軽い。
 気を抜いていると暗闇に引きずり込まれそうになる感覚がない。
むしろ空を飛んでいってしまいそうなほどに軽い。これは決して悩
み事が解消されたなどという気持ちの問題ではないだろう。
 夕莉は胸元へと手を当てて目を閉じた。
 脳裏に過ぎる刹那の慟哭。
 引き千切られる痛み。
 ――だから気を失ったのか。
「……そうか、そういうことか」
 歯を食い縛る夕莉は、ノックもなしにドアが開いたのに気がつい
て目を開けた。
「お、起きたか」
 薬草を籠に摘んできたシュテルンと目が合い、夕莉は無言で頷いた。
 彼のは言うべきか――この事実を。
 考え込んでいる夕莉の視界に入る人物の数が増えていく。
「ナナセ様。無事で……」
 不機嫌そうな顔をしたアシュレイド。本当に無事を喜んでもらえている
のか怪しいと言いたい――ところだが彼の表情が変わることは滅多に
ない。これが通常であり、口に出す言葉にウソはないのだからいいでは
ないか。
 久しぶりに見た気がする顔を仰いで、夕莉は息を吐いた。
「みんなが喜んでるとこ悪いけど……」
 自分のもののはずの心臓。
 まるで他人の心臓のように感じる。
 これから口に出すことは新しい何かを招く呪いの言葉。
 ソレは決して未来への掛け橋になるものではない。
 むしろ逆のもの。
 これは未来を壊す――
 夕莉は息を呑んだ。


「魂、割れたうえに奪われた。ムカつく話だけどな」




「やはり……そういうことですか……!!!」
 静かな怒りに満ちた真の声――否。これはネビロスとしての声なのだ
ろう。その夜の闇よりももっと深い漆黒の双眸は怒りに染まり、目前の
砕かれた水晶の柩を睨んでいた。
 七瀬夕莉の内に復活した大魔導師キルケ。その肉体はこの水晶の
柩の中に眠っていたというのに。
 水晶が砕けたあとも、再び同じ場所で眠りについていたというのに。
 今、ここにあるのは砕けた水晶のみ。
 真は奥歯を噛み締めた。歯軋りが外に漏れ、怒りの形相がより一層
深くなる。
「スルト……古の神、我らのとこしえなる仇……! どれほどまでに我ら
から奪えば気が済むか……!! とれほどまでに……!」
 震える拳が握り締めているのは、夢浅葱の欠片。砕かれた月のモチー
フに真の血が滴り落ちて赤く染まる。
 ここにはいない美しい夜の人を想う血涙が水晶へと零れ落ちる。
 戦争は終わってなどいない。
 降伏なんてものは時間稼ぎでしかない――古の大魔導師の復活祭。
 それは酷く歪んだ形で執り行われる。
 あの白い船は黄泉より死者を引きずり出す呪われた箱舟だったか。な
らば、グレイが見たという白い衣の女性は、酷く懐かしい雰囲気をまとっ
ていたという女性は――
「天の国の使者……そこが高天原であろうとも、たとえ理想郷としても。
 我ら魔族の居場所はここしかない。ニヴルヘイムだけが私たちの魂が
休まる場所」
 呟きながら握り締めている夢浅葱の欠片を、口元へと運んでいく。
 古い時代の香り。
 忘れられない思い出。
 あの戦の日々を思い出す。戦場の匂い――戦いと、刹那の幸福の。
「渡しませんよ……この国も、美しい夜も、王も……すべてを」
 口を開いて――懐かしい日々を喰らう。
 想いを昇華して力と化せば、それは切り札にもなりうるだろう。たとえ、
この持ち主が偽りの肉体に宿って敵対したとしても。
 その動きを止められるだろう。
「……キルケ……貴女の遺した魔力を今しばらく、お借りします」
 静かに目を閉じた真は、体内で起きている自分の体の変化を受け入れ
るために息を止めた。心地良い闇が浸透していく――白い花が、脳裏を
ちらついた。




「魂が割れた上に奪われた……?」
 ゾンネの言葉に夕莉は静かに頷いた。
「あぁ。僕の魂は不完全な形で転生をしたせいで、陰陽が上手く混ざりきっ
てなかったらしい。それのせいで、キルケと入れ替わる。なんてオカルトな
ことが起きたわけだけどな」
 自嘲するように告げる夕莉の肩をシュテルンが叩く。
 その手を払いながら、
「そんなことはどうでもいいんだ。
 まずいのは、僕の魂は陰陽の二つが個々に存在してる。普通の人間や
魔族よりも、ずっと脆い魂してんだよ。
 それに気付いたヤツが人間にいる」
 漆黒の双眸が細められる。夕莉の足元で座り込んでいたグレイがその
言葉に反応する。
「ティファって女の人だね。上手く言えないけど、あの人はすごく危険だと
思うんだ」
 甘えた調子ではないグレイの声に違和感を感じはしたが、そんなことを
気にしている場合ではないと判断したのだろう、その場に居合わせた全
員が白い船を思いだした。
 キルケが最後に討伐した白い船――人間、それも法術士のみで構成
された軍隊は、さしたる被害をもたらさずに沈められたが最初から目的
が魔族の壊滅でないとしたならば納得がいく。
 最初から、もう一つの目的だったのならば。
「そのティファという法術士は、どのようにして魂を二つに割ったのでしょう」
 魔族の中でも高い知識を有するヒンメルも、法術に関しては知識が甘
いのだろう。眉間にシワを寄せて首をかしげていた。こうすると不思議と
アシュレイドと良く似た顔立ちをしていることが分かった。
「あの時の……!」
 唯一その場に居合わせたシュテルンが瞠目する。
 仲間が死んでも途絶えることのなかったあの祝詞の声が脳裏に蘇る。
あれがもしも同行していた白の一族――シュテルンを潰すという目的で
はなく、水晶に守られていたキルケの亡骸を奪い、同時に七瀬夕莉の
魂にほころびを作るという目的であったのならば。
「キルケが予想してたよりも早く、その術が発動したんだろうな。
 僕が目覚めることによって陰陽の入れ替わりが起きた。その隙に使
われない片方を奪ってった……狡猾な人間もいるもんだな、ウゼェ」
 吐き捨てるように告げた夕莉の手の中に一つの球体が生まれる。そ
れは、魔力などではなくもっと別のものだとその場にいる全員が瞬時に
理解した。
「ナナセ様の魂ってこんな風になってるんだ」
 グレイがキラキラとした眼差しで見詰めている。真っ黒なその球体が
魂――その事実に居合わせた面々は言葉を失う。本来、魂というもの
は様々な色が混ざり合い構成され、そして丸い一つの形をとるというのに。
 夕莉の示した魂は、真っ黒で――何よりもその形は完全な球体では
なかった。
「……陰の魂。まさにそのものですね」
 ヒンメルの言葉に夕莉は頷いた。
「あぁ。僕はキルケの闇部分。そして、キルケは僕の光部分……ダリィ
よな。
 片方ずつじゃあ存在できねぇっての理解できねぇのかよ」
 勾玉のような形をしている魂を体内へと戻し、息を吐く。
 闇しかない魂と同じように暗い漆黒の瞳が天井を仰いで、静かに伏
せられる。
「ダリィから……潰してやる。
 ――深山」
「な、なんだ」
 夕莉に呼ばれた結梨は、理解の追いつかない事態に困惑していた
のだろう。眉間にシワが寄っていた。ソレを指先で伸ばしながら夕莉
は微笑を浮かべる。
「お前は悩まなくていい。
 僕がいるから。お前は未来だけを考えててくれ――その方が安心
して闘える」
「けど、戦争は……!」
 再び紡がれた言葉に空気が張り詰める。
 また繰り返すのかと――無言で責め立てられたような気分になる。
しかし結梨は自分の意見を変える気はないようであった。
 それでも構わない――夕莉の眼差しはそう告げているようにも見えた。
 結梨の頭にそっと触れ、
「お前が平和を望んでるのは知ってる。僕もそれが欲しい。
 お前が欲しい未来が欲しい。だから戦うんだ、分かれとは言わないし、
僕も分かってくれなんて思わない。だから……この籠の中で待ってて。
 血の先にある未来とかそういうの」
 優しい声で告げた。
 告げられた言葉に結梨は、言葉を失い、同時に触れている手が離れて
しまうことを恐れるかのように夕莉を抱き締めた。
「七瀬……っ! オレ……、どうしたらいいのかわかんないよっ。七瀬ぇっ」
 泣きじゃくりながら結梨は夕莉を抱き締める。
 その腕に軽く触れながら夕莉は目を閉じた。
 今だけは泣いてくれていい――もっと辛いことが起きても、泣いてくれて
いい。
 彼がヒトらしくあるのならば。


 欠けた魂が渇きに疼くのを感じながら。
 夕莉は束の間のぬくもりに包まれている今を喜んでいた。


――光を失った闇は、光を求めて徘徊するのだろう――