鳥のさえずりが聞こえる。
人々の行き交う音が聞こえる。
精霊たちが歌っている、誰への祝福だろう。
体が凄く軽い。
すごく――懐かしい気持ちになる。
冷え切った手に触れたぬくもりを求めて、凍えた耳に響いた声を求めて、
閉ざした眼に広がる景色を求めて。
彼女はゆっくりと、起き上がった。
「……あ? あれ……」
視界に広がるは一面の花畑。最後に見たときは蕾だった気がするのに
なぜか満開に咲いている。咲いた先から花弁を散らし、まるで雪を降らせ
ているかのようにすら見える真っ白な世界の中で、見慣れた――けれど懐
かしい面々が揃ってこちらを向いていた。
「どうしたんだ、お前ら」
立ち上がって砂埃を叩く。
少しだけ肩がこっている。何か重労働でもしたかと考えるが該当する記憶
は一切ない。
彼女は考え込むように頭を抱えた。
刹那。
「七瀬……なのか?」
結梨が呟くように問うた。
何をおかしなことを――
「それ以外のなんだと思うんだよ」
はっきりと答えたその声に歓声が上がる。
「ナナセ様っ!!」
一番に飛びついてきたのはメーアだった。彼女の細い腕が夕莉の背中へ
と回されてガッチリと抱き締められる。思っていたよりもずっと力が強くなっ
ている。
息苦しさに顔を顰めていると、なぜか抱き締める腕が増えた。
「七瀬ぇぇぇ……よかっだぁぁぁ!!」
泣き顔で抱きついてきた結梨。その表情に驚きながらも夕莉は決して彼
を突き放しはしなかった。ただ困惑した表情で結梨とメーアの両方を見ている。
「ナナセさま? ナナセさまなの?!」
羽音が聞こえたかと思えば超絶美形――存在そのものが芸術品と言って
も過言ではないヴァンパイアことグレイが満面の笑みを浮かべて抱きついて
きた。巻き込まれて抱き締められている結梨が苦しそうに息を漏らしたが、
文句を言うわけでもなくただただ嬉しそうに泣いている。
「ちょ……いったいなんだっての!?」
混乱している夕莉を眺めている、アシュレイドの肩をゾンネが軽く叩いた。
「いいのか? いかなくて」
その言葉にアシュレイドは軽く息を吐いた。それだけであれば叶わぬ恋に
愁いた美青年となるが、その表情は安堵に満ちていた。それに気がついた
ゾンネは何も言わず、彼と同じように夕莉と――メーアを眺めていた。
「……キルケ……なぜ……」
「お言葉だけどよ、テメェもずいぶん表情が晴れてんぜ。アイツの帰還がな
んだかんだつって嬉しいんだろ」
呆然と呟く真の傍らでシュテルンが笑う。彼の言葉に真は何も返すことは
なかったが、無理矢理にでも夕莉を押し退けようとしないところを見ると図
星であったのだろう。
ニヤリと笑ってシュテルンは天を仰いだ。
「オレは嬉しいぜ。アイツが戻ってきたことが」
喜びの声が聞こえる。
仲間の腕に抱かれた夕莉は困惑しながらも、とても嬉しそうに笑っている。
きっと本人はそれを認めないだろうけれど。けれど、その笑顔に偽りなど
一つもなく、悲しみも、絶望も、彼女の運命を憂えるもの一つない晴れ晴れ
としたものだった。
精霊達が歌う。
数多の犠牲よって生じた魂の渦を率いながら。
平和を喜ぶ民たちの歌声に乗って歌声が響く。
幸せを運ぶ音色が聞こえる。
すべての人々が望む幸福。
それを、願わぬ存在などあるだろうか。
戦乱を、喜ぶ者が――
幸せ 壊すの だあれ?
「七瀬!!?」
結梨の悲鳴にも似た声が幸福な時間を打ち砕く。
「ナナセさま? ナナセさま!!」
「目を開けてください! ナナセ様!」
アシュレイドが駆け出し、それに遅れてゾンネが走る。その場に居合わせ
た面々に緊張が走る。シュテルンは傍らにいる真へと目をやるが、彼にとっ
ても予想外の出来事だったのか漆黒の双眸を見開いていた。
微かに彼女の名を呼んだのだろう。古の大魔導師ではない名前のかたち
に唇が動いている。
シュテルンは無言のまま真の横を通り抜ける。懸命に名を呼んでも返事を
しない夕莉へと目をやれば、その頬は血の気を失い、死んでいるといえば納
得できそうな色をしていた。
確かにこれでは驚くのも無理はない。
そう判断したシュテルンは青ざめた顔で振るえているメーアを押しのけ、夕
莉の顔を間近に覗き込んだ。
「シュテルン、ナナセ様に一体何が起きたのでしょう……?」
不安そうに問うメーアをチラリと見やり、シュテルンは低い声で呟いた。
「通常、転生体が前の記憶を取り戻して正常に活動することはありえねぇ。し
かもナナセの場合は脆弱な人間の肉体が魔族の魂をもってるわけだ。無理
が祟った結果なのかもしれねぇな……」
「大丈夫なのですか?」
「さぁな。そればかりは診てみねぇと分かんねぇよ……つーわけで、ちっくら診察だ」
「シュテルン、私がつれて――」
アシュレイドが口を半開きのまま硬直する。
それは他の魔族も同じであり、結梨と真を除いた魔族全員が同じような表
情で硬直していた。
「なんだよ」
不満げに呟くシュテルンを見ていた魔族は何も言わずに、彼の腕を凝視し
ている。それに気付いたのか彼は、
「アシュレイドは片腕がねぇーだろ。だからオレが持ってやってるだけだっつの」
吐き捨てるように呟いて、そのまま背中を向けてしまった。
「……でも、シュテルンが人間を抱っこするなんて、珍しいよね。いくら相手が
ナナセさまでも」
ぽつりと呟いたグレイの言葉に魔族たちは激しく頷いた。
「あの人間嫌いが……」
ゾンネの呟きにメーアが続ける。
「本当です……明日は、空が落ちてくるのでしょうか……」
「ドラゴンの大繁殖かもしれませんよ……」
ヒンメルの呟きに全員が黙り込む。
「……いえ、驚くのも無理はありませんが、今はナナセ様が心配です」
アシュレイドの言葉でその場にいた全員がいっせいに頷き、そのまま駆け出
してシュテルンの後を追い始めた。その姿に結梨は呆然としたまま立ち尽くし
ていたのだった。
「駿河、なんか……魔族って濃いな」
「――平和ってことだよ……」
覇気のない声で呟いて真は他の面々とは別の方向に歩き出す。
「おい、どこにいくんだよ!」
結梨の言葉に真はとても短く、一言だけ答えた。
「墓前」
「墓前って……誰の墓参りだよ」
その言葉に真は何も答えずに歩き出していた。結梨は首を傾げたが、すぐ
に方向を変えてシュテルンたちの後を追うために走り出した。
白い花弁の吹雪はいつの間にか止んで、今はただ積もった花びらを踏み締
める音だけが聞こえていた。
その白が赤に染まるのを想像できる人物がいただろうか――刹那の平和が
崩れる足音がこんなにも近くまで迫っていると、誰が気付いただろうか。
七瀬夕莉の異変はその序章でしかないということに。
双眸を閉ざして眠る彼女の肌に触れたシュテルンは溜め息をついた。
「……限界……か?」
呟いて指先を肌の上に走らせる。
薄く浮かび上がる文字が彼女の肌に浮かび上がっているヤケド痕のようなも
のを消し去り、元通りの肌へと治していく。しかしそれが直接の原因ではないの
か夕莉は眠ったまま動こうとはしない。
呼吸もしているのかどうか疑わしいまでに弱くなっており、いつ絶命してもおか
しくないようにすら思えた。
「魔力に耐えられない、人間の体……か」
双眸を細め、遠い昔を思い出すかのように唇を噛む。
ベッドに横たわっている夕莉の露になった肌の大半はヤケド痕のような状態―
―赤黒く染まっており、それはとても戦闘で出来た傷とは考えられなかった。無論、
刃物によってついた傷など大量にあるがそれとはまったく別の種類だと見て分かる。
「……アイツらにゃ見せねぇ方がいいな」
ドアの向こうで待機しているであろう面々の顔を思い浮かべてシュテルンは苦笑した。
「ムチャ、し過ぎなんだよ」
早く起きて安心させて。
早く起きて無事だといって。
願望ばかりが頭を過ぎる。どうしようもないほどにうろたえてしまう。
シュテルンは大きく息を吐いた。
「……オレも、ヤキがまわったか……? こんなガキ相手に…………」
小さくなる声が何を言ったか聞き取ることはできなかったが、それを呟いたシュテ
ルンの表情は優しく――同時に悔恨に満ちていた。
時間ばかりが――ただ静かに過ぎていく。