城下町は平和を喜ぶ宴が開かれた。

 色とりどりの花が飾られ、この日のためにと用意していたワインを振舞う。

 片腕を失くした男は家族に支えられながら自らの生還を喜んだ。

 民という民全てが喜びに満ちる。

 それはスラムに生きる子供たちも同じように。

 広場に用意された豪華な食事へと手を付けて周囲を見回しながらそれを

頬張る。今日ばかりはだれも怒らない、誰もが笑って平和を喜ぶ日なのだ。

 青白い顔に斑点の痕を残した少女へと差し出されるのは野菜ジュース。

「ありがとう」

 弱々しい声で告げた少女を抱き上げるのは、かの英雄たちの子孫と大魔

女の武勇伝を歌う吟遊詩人。

 

 

 ニヴルヘイムは、今――大いなる喜びに包まれていた。

 

 

「火の国は降伏しました。

 戦争は終わりましたよ、みなさん」

 玉座の前で告げた真へと視線が集中する。

 それらはどこか迷いを帯びてはいたが戦争が終わったという事実に表情

が緩んでいた。

 もう、殺さなくていいのね、と年若い魔族が呟く。その声に溜め息が漏れる。

「どうしました? 暗いですよ……あぁ。なるほど」

 真は一人で納得したのかくるりと体の向きを変えた。玉座に腰掛け、俯い

たままの魔王陛下――深山結梨へと目を向ける。

「魔王陛下、お喜びください。ニヴルヘイムに平和が戻りましたよ」

「…………駿河」

 吐き出されたのは、小さな声。それは決して喜んでなどおらず、むしろ悔

いているようにも聞こえた。それは他の魔族たちも同じなのか皆が皆喜び

を表面に出そうとはせず、ただただ黙っていた。

「お前まで、オレの知らないヤツになるのか?」

 吐き出された弱々しい言葉に真は息を吐いた。

「仕方のない魔王陛下もいたものですね……深山。これで満足か?」

 真の表情が変わる。余裕に満ちた底の見えない男ではなく、どこにでもい

るようなにこやかな少年へと。その表情を見て結梨は肩を落とした。

「まだ注文あるの? てか、ボクはボクでキルケ呼んでこないと。花壇に行

くって言ってたし」

「オレが――」

「みんなで行こーぜ。花壇なら花が満開だろうしな」

 結梨の言葉を遮ってシュテルンが告げる。その言葉に真は肩をすくめ、

「仕方ないな。遠足みたいだね」

 からかうように告げた。

「シュテルンさん……」

「シュテルンでかまわねーよ」

 横を通り過ぎたシュテルンが結梨の頭を軽く叩いていく。その後ろに続く

のは彼の部下と思われる数人の魔族の男たちだった。そのどれもが剣の

類の武器ではなく、拳に爪のようなものを装着している。

「あなたが落ち込んでいても何も変わりません。落ち込んで空気を悪くする

くらいなら、うつけと呼ばれるまで笑っていてください」

「ヒンメル、お前は口が悪過ぎる」

「陛下、申し訳ありません。けれどヒンメルは陛下を想っての言葉ですから

どうか」

 シュテルンとは違い部下を連れてきていないヒンメル、ゾンネ、メーアの

三人がかわるがわるに口を開く。落ち込んでいるようにしか見えない結梨

を元気付けようとしているのだろうか、滅多に話すことのなかった三人が

不自然なほどに明るく会話を繰り返している。

 その姿に結梨は息を呑んだ。

 ――小学校からの帰り道に、七瀬夕莉と話して帰った日々を思い出して。

 あんなにも話したのに、その会話の内容全てがぼやけて思い出すこと

が出来ない。

 あの笑顔を思い出すことが出来ない。

 たった二年と少し前のことだというのに。思い出せなくなっていく。

 脳裏を過ぎるのはキルケと呼ばれた女性の冷たい横顔だけ。

「……ごめんなさい……オレ、ちょっと花壇まで走ります」

 歯を食い縛って結梨は三人から目をそらした。

 強く床を蹴って走り出せば、中学に入学してからの部活を思い出す。気

付けば七瀬夕莉がいないことが当然になっていた。新しい友人と話して、

新しい友人と遊んで、この世界で彼女と再会した時にもっと話せばよかった。

 もっと彼女を見ていればよかった。

 そうすれば――もっと、もっと。

 こんな結末を見ないで済んだのかもしれないのに。

 彼女の望みも自分のするべきことも見えてきたのかもしれないのに。

「……オレって……ばか、だよな……」

 平和が大切だと知っていた。けれど平和の難しさを知らなかった。

 話し合いだけでは解決しない問題がある。話し合いだけではどうし

ようもないときがある。

 それをもっとしっかり知っていれば――あんな選択はしなかった。

魔剣と呼ばれる剣を折って、七瀬夕莉を死に追いやるような選択は

しなかった。

 犠牲を減らすための戦いというものを、彼女から聞くことも出来たはずだ。

 悔いても、悔いても、もう、あの人は、どこにもいない。

「……くそぅ……くそぅ……!!」

 立ち止まって、結梨は壁を叩いた。涙が止まらない。

 どうしようもないほどに悲しかった。

 どうしようもないほどに――

 

――深山と会えて良かった。学校がすっごい楽しいからな――

 

 今はとても遠い言葉。

 もっと早く思い出せばよかった。

 大切な人の言葉を。

 

 

 

 白い花が咲き乱れる。

 触れれば簡単に手折れるだろう弱き花へと手を伸ばす双黒の大魔

女は目を閉じた。

「なにをしているの」

 ホースを持ったまま、足を止めていた男を見ないまま声をかける。片

腕のない男の返事はすぐには返ってこなかった。何を考えているのか

分からない顔で、ただただ不機嫌に見える表情でホースを握る手に力

を込める。

「質問に答えなさい、アシュレイド」

 名を呼ばれ、彼はホースを取り落とした。

「……白昼夢を、見ていたようです」

 ホースを拾い上げながら呟く。

「白昼夢?」

「はい――」

 花を愛でているキルケの隣へと立ち、彼は手馴れた仕草で水遣りを

始めた。ここの仕事は彼の管轄なのだろうか、微弱ながらも花々が活

き活きと大地に属する精霊たちを生んでいく。

「ここの花はナナセ様の“オキニイリ”ですから……ナナセ様が帰って

きたのだと思ったのです」

「あなたはまだ黒い私にこだわるのね」

 白い花弁を水滴が伝う。

 キルケの言葉にアシュレイドは声を荒げることもなければ、突然泣

き出すわけでもなかった。

 ただ、沈黙したまま長く、息を吐いていた。

「黒い私とあなたの縁は深くはないはずよ」

 告げられた言葉に彼は素直に頷いた。人間は二年を長いと表現する、

だが魔族であるアシュレイドにとっては短い――人間でいえば、ほんの数ヶ

月間にも満たない日々だった。

「心の奥底で欲していた愛情が歪んだ形で表れたモノ。あなたからの好意

を微かに感じ取っていた彼女の口付けが、あなたを虜にしたの? 一方通

行でしかないというのに」

「分かっています」

 息を吐くように答える。

 確かにニヴルヘイムでは求婚に値する行為をうけた、しかしそれは彼女

が正常な状態ではなく、血に酔い記憶の混乱と同時に自らの欲望を解消

するかたちとしての行為。

 正式に七瀬夕莉がアシュレイドに好意を抱いているという可能性はゼロ

に等しい。

「黒い私は違う男に惹かれていた。それは魔王陛下でもない者――」

「知っています……」

 知っているからこそ必死になった。

 人間と魔族、寿命の違いから共にいられる時間など僅かなものであろう。

 七瀬夕莉が振り向く可能性などないに等しい。だが――それでも。

「私は……あの方しか、見えません」

「不毛ね。もう、存在しないというのに」

「もしも……」

 水が止まる。

 たくさんの足音が聞こえてきた。玉座に集まっていた魔族たちのものだろう。

 キルケは立ち上がらないままアシュレイドの言葉を待った。

「あなたを殺すことによってナナセ様が戻ってくるというのならば、私は迷

わずにあなたを殺します。

 禁忌に触れてでも」

「愚かしい限りね……けれど」

 ゆっくりと立ち上がる。

 その漆黒の双眸が泣き腫らした目で走る結梨を見つけた。

 勝利を喜ぶ歌声に混ざる悲しみは七瀬夕莉へと向けられる鎮魂歌なの

だろう。

 キルケはゆっくりと目を閉じた。

 

「こんなにも愛される日が訪れるのならば、私はこのような転生をしなかったのに」

 

 灰色の日々。

 こんなにも色彩に彩られて。

「なな……っ……キルケさん」

 歯を食い縛るように名を呼ぶ、かつての主。

 その瞳に悲しみだけを映して。

「ニヴルヘイムを守ってくれて、ありがとうございました」

 頭を下げて言葉を吐く。

 握りこぶしが震えて、その奥の感情が垣間見える。

 満開の白い花へと目を止めた真が息を呑んだ。

「この、平和な……ニヴルヘイムを、七瀬にも……見てもらいたかっ……」

「何言ってるんだよ深山ぁ! キルケがいるじゃないか! キルケと七瀬は

同一人物なんだから」

 結梨の背中を叩く真。

 その手を振り払った結梨は、震えた声を必死に搾り出した。

「七瀬がいないんだ……どこにも。あんなにたくさん遊んだのに……どこに

もいないんだ……!!」

「だから、ここにいるじゃないか。同じ魂の――」

「ネビロス様」

 キルケの呼び声に真が振り向く。

 歪んだキルケの姿。さきほどまであんなにもはっきり見えていたというのに。

 白い花々を、佇む彼女の姿を見た途端に見えなくなる。

「これからは、黒い私が、必要になりましょう」

「何を、言って……キルケ!!!」

 叫び声が木霊する。

 生暖かい風が頬をなで、白い花々を揺らす。

「ニヴルヘイムに必要なのは貴女なんですよキルケ!」

 叫ぶのと同時に涙が零れた。

 それが何の涙かを理解するよりも前に、キルケの漆黒の双眸が――瞼

が、ゆっくりと、下ろされる。

「キルケ……っ!!!」

 白い花の花弁が風に乗る。

 茜色の空へと舞う白い花弁は、死んでいった者たちの魂のようにも見えた。

 悲しい花びらが空を舞い、海へと消えていく。

 

 歌声は止まらない。

 喜びよ、こんにちは。

 悲しみよ、こんにちは。

 

 

――こんなにも愛された黒い私――

 

 黒い魂と赤い魂が触れ合う。

 

 小さくなって怯えていた少女の背中を押して。

 

――私が変わってしまう前に返します――

 

 

 おかえりなさい。

 双黒の少女。

 精霊に愛される不幸の娘。

 

 生贄の娘。

 

 おかえりなさい。